第6話:その笑顔に、名前をつけるなら



彼女の手を、俺はそっと握った。

ただ、それだけだった。


だけど、その手が――握り返された。

たしかなぬくもりが、そこにあった。


(……これって、なんなんだろう)


恋? 期待? それとも、ただの“気の迷い”か。


言葉にできない感情が、胸の奥でゆっくりと渦巻いていた。


「……ありがとう、朝倉くん」


桐谷がぽつりとつぶやく。


「アタシ、たぶんずっと“誰かに頼りたい”って思ってたのかもしれない。

でも、それを口にするのが怖くて……だから、こうやって触れてもらえると、

ほんとに、救われる」


「……そういうの、もっと言ってくれればいいのに」


「言ったら、甘えちゃうじゃん」


「甘えていいんだよ、俺には」


言ってから、自分で驚いた。


(……今の、完全に“好き”って言ってるようなもんだろ)


でも、彼女はなにも言わなかった。

否定も、肯定もせず――ただ、笑った。


***


翌日、社内にはちょっとした“噂”が流れ始めていた。


「ねぇ、最近さ、朝倉くんと桐谷さん、やたら仲良くない?」


「プロジェクト一緒だからでしょ? っていうかお似合いだよね〜」


「でも桐谷さんって、佐伯さんと付き合ってるって聞いたことあるけど……?」


「え、マジ? じゃあ今の関係って――」


俺の耳にはっきり入ったわけじゃない。

でも、社内の視線が少しずつ変わっているのは感じていた。


そして、それをもっとも意識していたのは――桐谷本人だった。


「……ねえ、朝倉くん。もし噂とか広がったら、迷惑?」


休憩室で隣に座ったとき、彼女がぽつりとそう言った。


「なんで?」


「だってさ。私たち、別に付き合ってるわけじゃないのに、

中途半端な噂が立つと、お互いやりづらくなるでしょ」


「……俺は、別に気にしない」


「うそ。気にするでしょ、少しは」


「ほんとに、気にしてない。むしろ……」


「むしろ?」


俺は、目をそらさずに言った。


「“そうだといい”って思ってる。

桐谷と、ただの“同期”じゃなくなるなら、俺は――」


彼女の目が、大きく見開かれた。

でも、その瞬間にドアが開いて、後輩の奈々が入ってきた。


「先輩、会議の時間ですよー!」


「あ、ありがとう」


一気に空気が途切れた。

桐谷は、何かを言いかけて、それを飲み込んだようだった。


***


その日の夜。


仕事終わりの駅前。

同じ方向だったので、桐谷と並んで歩いていた。


「さっきの話だけどさ――」


不意に、彼女が口を開く。


「私、たぶんもう“同期”って言葉だけで朝倉くんのこと、括れないかも」


「……どういう意味?」


「わかんない。うまく言えないけど……

朝倉くんと一緒にいると、心が静かになるっていうか。

自分の“見せたい自分”じゃなくて、

“ありのまま”を出しても受け止めてくれるって、そう思うから」


そう言って、彼女は小さく笑った。


「それって、きっと特別ってことだよね」


俺は、その言葉を何度も頭の中で反芻した。


(“特別”……それって、つまり――)


言葉が出なかった。

でも、その笑顔に名前をつけるなら、もう一つしかない。


それは――“好き”だった。

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