第2話 あまやかな毒と、言えない傷跡

「葵が、食べさせてくれるなら、食べるけど…?」

 こてんと首を傾げる、悪魔的なまでの上目遣い。高坂葵は、目の前の特級美少女が、自分のあらゆる弱点を完璧に把握していることを、この数ヶ月で嫌というほど理解していた。


「……自分で、食べなさい」

 騎士としての、いや、一人の人間としての最後の理性が、かろうじてそう反論させる。しかし、リリー・ヴァレスクは、その言葉を待っていたかのように、ぷいっと顔をそむけた。


「えー……じゃあ、いらない。僕、もうゲーム戻るし」

「あっ、待って!」


 葵は、慌ててその細い腕を掴む。このままでは、この姫君は本当に夕食を抜いて、エナジードリンクだけで夜を明かしかねない。葵は、天を仰いで、短く、そして深く息を吐いた。


「……今回だけ、だからね」

 観念した葵がそう言うと、リリーはぱっと顔を輝かせ、子猫のように「うん!」と頷いた。


 結局、葵は豚カツを箸で小さく切り分けると、リリーの小さな口元へと運んだ。「あーん」という効果音は、もちろん葵の脳内再生だ。

 リリーは、ぱくり、とそれを幸せそうに頬張る。


「ん、おいしい」

 その、全てを許してしまいたくなるような無邪気な笑顔に、葵の心臓はまたしても大きく跳ねた。ああ、もうダメだ。このわがままな姫君に、自分はとことん甘いのだと、痛感させられる。


 葵の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇る。

 家が隣同士だった、幼い頃。葵は、いつも泣いているリリーの手を引いていた。転んで擦りむいた時も、飼っていた金魚が死んでしまった時も、葵はリリーを連れて、神社の裏にある二人だけの秘密基地へ向かった。

 葵は、いつもリリーを守る「騎士」だった。

 そしてリリーは、いつも葵の後ろを不安そうについてくる、少しだけ泣き虫な「お姫様」だったのだ。

 あの頃から、何も変わっていないのかもしれない。


 一口、また一口と、リリーにご飯を食べさせながら、葵の思考はさらに過去へと沈んでいく。


 楽しかった日々は、あまりにも突然、終わりを告げた。小学校低学年の、よく晴れた日。リリーは、「遠い外国にお引越しするの」と、泣きながら葵に告げた。

「もう会えないかもしれない」

 その言葉が、当時の葵にとってどれほどの絶望だったか。葵は、生まれて初めて声を上げて泣いた。「リリーは僕が守るって言ったのに!」と、意味の分からないことを叫んで、両親を困らせたのを、今でも鮮明に覚えている。

 それが、高坂葵にとって初めての「喪失」の記憶。胸にぽっかりと穴が空き、その穴は、7年間、ずっと塞がらないままだった。


 だから、今年の春。母から告げられた言葉は、まさに青天の霹靂だった。

「葵、覚えてる?リリーちゃんがね、日本に帰ってきて、うちに居候することになったのよ」

 信じられなかった。衝撃と、喜びと、少しの戸惑い。

「なんで?!」「どうしてうちに?」「向こうでの生活は、どうだったの?」

 聞きたいことは、山ほどあった。7年間の空白を、一秒でも早く埋めたかった。

 しかし、葵のそんな逸る気持ちを遮るように、母は、少しだけ悲しい顔で、こう続けたのだ。

「……ご両親、事故で亡くしたみたいなの。あの子、今は一人だから…。だから葵、あまり昔のことは、根掘り葉掘り聞かないであげてね」


 その一言が、葵の全ての質問を、喉の奥に封じ込めてしまった。

 リリーの心の、一番デリケートな部分に触れるのが怖くて、葵は何も聞けないでいる。なぜ、あんなに可愛かった子が、こんな薄暗い部屋に引きこもるようになってしまったのか。その理由も聞けないまま、ただこうして、子供にするようにご飯を食べさせてあげることしか、できないでいるのだ。


 食事を終え、満足そうに「ごちそうさま」と手を合わせたリリーは、すぐにくるりと身を翻し、再びゲームの世界へと戻っていく。その小さな背中を見つめながら、葵は思う。


(僕が、あの子に聞けることは何もない。あの子が何を抱えて、何を思って、この部屋にいるのか、何も分からない)

 胸の奥が、ちりちりと痛む。もどかしくて、不甲斐ない。


(でも…)


 葵は、空になった食器が乗ったお盆を、静かに持ち上げた。

 その瞳には、もどかしさよりも強い、確かな光が宿っている。


(今は、それでいい。ただ、そばにいよう。あの子が、もう二度と、一人で泣かなくていいように。僕が、今度こそ、最強の騎士になるんだから)


 凛とした空手美少女の胸に秘められた、固い、固い誓い。

 その誓いが、いつか目の前の姫君の心を照らす日を信じて、葵の騎士としての務めは、今日も続いていく。

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