箱庭のリフレイン

トモさん

第一章 夏の部屋と、見知らぬ木箱

その日、空はいやに青かった。

 雲ひとつなく、焦げるような太陽がベランダの床を白く照らしている。午前九時を過ぎたばかりだというのに、室温計はすでに30度を超えていた。


「……これが東京の夏かぁ」


 大田凛は、段ボールの山に囲まれながら、大きく息をついた。汗が首筋を伝ってシャツの襟に染みこむ。クーラーのリモコンを探す気力もまだなく、彼女は窓を開けて風が入るのを待つしかなかった。


 転職を機に引っ越してきたばかりのワンルームマンション。これまでの生活をリセットするような小さな空間。新しい街、新しい駅、新しい日々。変わらないのは、自分の名前だけだ。


「さて、クローゼットの中、掃除しないとね……」


 凛は、手に持っていたぞうきんを握り直し、クローゼットの扉に手をかけた。音もなくスライド式の扉が開く。中には、棚がひとつとパイプハンガーが一本。それだけの、何の変哲もないクローゼット。……のはずだった。


 凛は一瞬、目を疑った。


 奥の下段。明らかに周囲の空気と違う“存在感”があった。

 そこに、木製の箱がひとつ、ぽつんと置かれていたのだ。


 ――なに、これ。


 引っ越し作業中、業者が何か忘れていった? でも、家具やダンボール以外は自分で運んだ。こんな箱は見覚えがない。


 大きさは、ちょうど膝丈ほど。赤みを帯びた古木の質感で、装飾はないが、どこか重厚な雰囲気がある。金属製の留め具が一か所ついているが、鍵穴は見当たらない。表面には文字らしきものが、微かに浮かんでいた。ラテン語? いや、見たことのない記号にも見える。


 凛は、不動産会社に電話をかけてみた。


「ええと、すみません。新しく入居した大田です。この部屋のクローゼットに、木の箱が置いてあったんですけど……」


 電話口の若い男性の声が、不思議そうに応じた。


「ああ……いえ、そういったものは引き渡し前にすべて確認しております。オーナーにも確認済みですので……たぶん前の入居者の私物か何かでは?」


「でも、前の住人さん、退去時に何も残してなかったって……」


「そうですね、管理記録上は“何も残置物なし”になっています。お手数ですが、不用品として処分していただいても問題ないですよ」


 処分?

 凛はもう一度、箱を見た。とても捨ててしまっていいものには思えなかった。妙な予感が、背中を冷たくする。


 中を、開けるべきか。

 それとも、見なかったことにして捨てるべきか。


 悩んだ末に、彼女はゆっくりと箱の前に膝をついた。手をかける。金属の留め具は、驚くほど簡単に外れた。


 ――カチン。


 音がした瞬間、部屋の空気が変わった。

 蒸し暑かったはずの空気が、ひやりと冷たくなる。凛は息をのむ。


 箱のふたが、静かに開いた。

 中に入っていたのは――


 一冊のノートと、奇妙な万年筆。そして、小さな鍵。


 ノートの表紙は革でできていて、表にうっすらと「No.0」という刻印がある。開いてみると、中の紙はまっさら。どのページにも何も書かれていない。ただ、1ページ目の端にだけ、こう書かれていた。


 「この世界は偽物だ。お前が知る世界は、書き直すことができる」


 凛は、思わずノートを閉じた。


「……なにこれ、冗談……?」


 でも、冗談にしてはリアルすぎる。

 気づけば、さっきまで聞こえていた外の蝉の声も止んでいた。窓の外を見ると、さっきまでの青空が、どんよりとした灰色の空に変わっていた。


 まるで、世界が“切り替わった”ような。


 ノートを手に取ると、万年筆が自然に指に馴染む。書け、と言わんばかりに。


 凛は、万年筆を走らせた。


 「私は、本当の世界を知りたい」


 その瞬間、部屋の空間がぐにゃりと歪んだ。眩暈がする。息が苦しい。視界が暗転していく。


 ――目を覚ますと、そこは見たこともない風景だった。

 石畳の道。赤い屋根の家々。空には二つの太陽。


「ここ、どこ……?」


 ノートが、風にめくられる。次のページには、見覚えのない地図が描かれていた。


 「旅をはじめよう。世界を書き直す旅を」


 こうして凛は、知らない世界で目を覚ました。

 それが、自分という存在の“再構築”の旅の始まりになるとは、まだ知らずに。


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