第二章 二つの太陽と、赤い屋根の街

足元がふわふわと頼りなかった。立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。息を深く吸い込むと、土の匂いと、どこか甘い草の香りが混じった空気が肺にしみ込む。


「……夢、じゃないの?」


 大田凛は、視界をゆっくりとめぐらせた。


 そこは、明らかに“現実の東京”ではなかった。

 石畳の道の先に、赤い瓦屋根の家々が連なり、窓からは淡いカーテンが揺れている。空は深い青。雲ひとつない――いや、違う。


 太陽が、二つある。


 ひとつはオレンジ色で、もうひとつは白く冷たい光を放っていた。まるで昼と夜が共存しているような空。凛は思わず目をこすったが、何度見ても太陽はふたつ。理解が追いつかない。


 手には、あのノートと万年筆、そして小さな鍵が握られている。あの部屋にいたのは確かに数分前のことだったはずなのに。


 立ち上がり、ゆっくりと道を歩いていく。誰かに、何かに、導かれるように。ふと、視界の先、角を曲がった先にひとりの人物が立っていた。


 背の高い男性。深い藍色のマントに、古びた本を小脇に抱えている。年齢は三十代半ばくらいか。長い睫毛の奥から、凛をじっと見つめていた。


「君が、“箱を開けた”人間か」


「……え?」


「ようこそ、“レフレア”。ここは、書き換えられる世界だ」


「レフ……レア?」


「そう。君が来るのを、ずっと待っていた」


 男は、凛の混乱を見透かすように微笑んだ。


「私はエル。書き手の案内人だ。君が持っているノート、それが“原書(げんしょ)”だよ」


 原書。あの革のノートのことか?


「この世界は“箱庭”として存在している。かつて失われた本当の世界の、断片を繋ぎ直して再構成されたものだ。だが、この世界も不完全だ。“歪み”がある。君のような“選ばれし書き手”が、その歪みを正し、再構築していく。……君にしか、できない」


「なんで、私が……?」


「君の世界で、“選択をした”からだ」


「選択……?」


「『私は、本当の世界を知りたい』と、書いたろう?」


 凛の背筋が凍った。たしかに書いた。でも、それはほんの思いつきで――


「原書に書いたことは、この世界で現実になる。だが、その書き換えには“代償”が伴う。ひとつ書けば、ひとつ失う。君が何を取り戻し、何を失うかは、これからの選択次第だ」


「待って、それって――」


「君はもう、戻れない。だが、進むことはできる。自分の意志で、この世界を旅し、書き直し、真実に近づくんだ」


 エルは、懐から一枚の紙を取り出した。それは、ノートの中にもあった地図の写しだった。手描きの地図には、街の名前と、数か所の印が記されている。


「まずは、この街――“フィリア”を訪ねるといい。“鍵の使い道”がそこで見つかる」


 凛は、ポケットに入れていた鍵を取り出した。小さな、真鍮の古びた鍵。何かを開ける鍵なのだろうが、それが何なのかは見当もつかない。


「道に迷ったら、ノートを読み返せ。ノートは書くだけじゃない。“記憶を映す鏡”でもある。君が見るべきものを、映してくれる」


 そう言うと、エルはふっと姿を消した。まるで風にさらわれるように、マントの端だけを残して。


 ――あまりにも唐突すぎる。


 でも、それでも。凛の足は、次の道を踏み出していた。


 どこかで分かっていた。

 “世界が壊れた”のではない。壊れたのは、自分の常識であり、信じてきた“日常”のほうだったのだと。


 この旅は、ただ世界を巡るだけではない。

 自分という存在の核に触れ、自分自身を取り戻すための旅になる。


 太陽が二つある空の下、凛は静かに歩き出した。

 最初の目的地、フィリアの街へ――。

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