第11話 拳闘倶楽部『パドマ・アーサナ』
その夜、拳闘倶楽部『パドマ・アーサナ』は、ならず者達の吐き出す熱気と欲望でむせ返っていた。床に染みついた安酒の匂い、興奮した男たちの汗の匂い、そして昨夜の拳闘試合で流れたであろう鉄錆びた血の匂いが複雑に絡み合い、肺の奥までねっとりと纏わりつく。壁を伝う湿気が、じっとりとした不快感を肌に与えていた。
薄暗い会場を照らすのは、不安定に揺らめくカンテラの煤けた光と、獲物を品定めするかのような客達のぎらついた眼光だけだ。
富をひけらかすことに快感を覚える強欲な蒐集家。全身を分厚いローブで覆い、その素性を決して明かさぬ古物商。そして、ただ他人の不幸と、これから流れるであろう血の刺激を求める者達。誰もが、これから始まる倒錯の宴を待ちわびていた。
カンダタは用心棒を気取る大男として、会場の壁際に腕を組んで立っていた。隣に立つ同僚が、面倒くさそうに吐き捨てた。
「おい、新入り。今夜も血の気の多い連中ばかりだ。下手に目を合わせるなよ。面倒はごめんだ」
「……分かっている」
短く応えるカンダタだったが、不動の姿勢の裏で、その意識は鋭敏に研ぎ澄まされていた。客たちの些細な動き、視線の交錯、それら全てを捉え、計画の障害となりうる要素を冷静に分析している。仲間を信じる心と万が一の事態に備える警戒心が、巨躯の中で静かに燃えていた。
カンジダは目立たぬようローブを深く被り、ごく普通の客として会場の隅の席に座っていた。深く被ったフードの影が、彼の表情を覆い隠している。冷たい汗が一筋、こめかみから顎へと伝う感覚が、不快なほどに鮮明だった。隣の席の男が、酒臭い息を吐きかけながら気安く話しかけてきた。
「兄ちゃん! 何かお目当ての品があるのかい? ここの競りは血なまぐさいが、その価値はある。何せ、出る品物が全部『本物』だからな。ガハハ!」
カンジダは曖昧に頷くだけで、恐怖に食い尽くされまいと必死に意識を外に向ける。壁の亀裂一本、扉の蝶番の錆び具合に至るまで網膜に焼き付けるように、逃走経路となりうる細部を、執拗なまでに観察し続けていた。
クムダは計画通り、昼間のうちに運び込まれた酒樽の影に身を潜ませている。古びた木樽の隙間から漏れ入る光はほとんどなく、世界は暗闇と、染み付いた葡萄酒の匂いで満たされていた。膝を抱え身を縮こませると、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
(狭い……。臭い……。最悪の役回りだ……。もう少しの辛抱だ……。もう少し……)
もうすぐだ。もうすぐ全てが始まる。その一点だけを心の支えに、ただひたすらに時が満ちるのを待っていた。
やがて、獣じみたざわめきが静まり、全ての光が一斉に掻き消される。完全な闇が支配する一瞬の後、一条のスポットライトがステージを鮮やかに照らし出す。そこに一人の女が立っていた。
現れたのは、青い髪を短く刈り上げ、サイドに鋭い剃り込みを入れた、しなやかな体つきの女――拳闘倶楽部『パドマ・アーサナ』のオーナー、インダンバラその人だった。
スポットライトの強い光を浴びて、その青い髪はまるで宝石のように輝いていた。露出した首筋から肩にかけてのラインは、鍛え上げられた肉食獣のそれであり、しなやかな肢体の一挙手一投足が見る者の目を釘付けにする。彼女が舞台に立つだけで、それまで淀んでいた空気がぴんと張り詰め、異様なほどの集中が一点に注がれた。
「ようこそ、紳士淑女の皆々様! 今宵も、退屈な日常を吹き飛ばす、極上の品々をご用意いたしました!」
インダンバラのよく通る声が、会場の隅々までを完全に支配する。彼女がしなやかな指を鳴らすと、屈強な黒服の男が恭しく、最初の品を運んできた。それは、鈍い光を放つガラスケースに収められていた。
「さあ、まずはこちら! 遥か天上世界の錬金術師が作り上げたという『時を刻む腕輪』! この地底では、偽りの太陽に誰もが時の感覚を狂わされる……。しかし、これさえあれば、真実の時の流れをその手に掴むことができると言われております! さあ、夢のような逸品、1万ソリテスから!」
会場のあちこちから、抑えきれない欲望の溜め息が漏れ、粘ついた熱波となって渦を巻いた。強面の古代種が、逞しい腕で自らの胸を叩きながら叫ぶ。
「1万5千!」
「フン、5万だ。チマチマ競るな、化石共よ」
黒い外套の男が、明確な侮蔑を込めて対抗する。
「なんだと、てめえ!」
「5万2千!」
野次に混じって別の入札が飛び、場は一気に加熱した。視線が火花を散らす乱戦。
最終的に、最初に声を上げた屈強な古代種がその権利を勝ち取った。
だが、その勝利は薄氷の上のものだったようだ。
彼は周囲を威圧するように胸を張ってはいたが、こめかみには大粒の汗が流れ落ち、膝の上の拳は白くなるほど強く握りしめられている。有り金をすべて吐き出した男の、悲壮な勝利の笑みがそこにあった。
「18万ソリテスで落札です! 皆様、ありがとうございます! 興奮冷めやらぬまま、次のお宝へ参りましょう!」
インダンバラが次に披露したのは、青白い燐光を放つ、奇妙なガラス瓶だった。中では、半透明の芋虫のようなものが不気味に蠢いている。その動きは見る者の不安を掻き立てた。
「こちらは──この地底のさらに奥深く──光の届かぬ『無光層』にのみ生息するという、伝説の『喰光蛾』の幼虫にございます。育て方次第では、太陽さえも覆い隠す漆黒の翼を得られるとか……。闇に生きる皆様、ご自身の切り札としていかがですかな?」
インダンバラの、蜜のように甘く、それでいて毒を含んだような蠱惑的な声が、客たちの心を撫で上げた。会場の空気は先程の熱狂から一転し、肌に纏わりつくような陰湿なものへと変わった。
──あれさえ手に入れれば、気に食わんあいつの息の根を……。
──フフ…育て上げるのが楽しみだ……。
誰もが息を潜めていた。暗闇に潜む全ての者が、自分を出し抜こうとする敵に見えてくる。
先とは異なり、声高な叫び声はない。静かな入札が、指先の微かな動きや視線の合図だけで始まった。最終的に、誰の目にも触れぬように会場の最も暗い場所に座っていた人物が、それを競り落としていった。
カンダタらはその後も、見る者の正気を奪うという呪いの宝石が裕福な商人の手に渡る瞬間や、英雄の血を吸ったとされる赤黒い短剣を巡って、二人のコレクターが掴み合いを始める様など、いくつもの摩訶不思議な品々が狂騒的な欲望の渦の中で所有者を得ていく様子を見守っていた。
落札の木槌が打ち鳴らされるたびに歓喜と絶望が交錯し、人間の感情が剥き出しになる光景が繰り広げられる。その全てが、彼らがこれから成し遂げようとすることの前座のように思えた。そして、ついにその時が来る。
「さて……皆様、大変長らくお待たせいたしました! 今宵の目玉商品に、ご登場願いましょう!」
インダンバラが芝居がかった仕草で両手を広げると、ステージの奥からビロードの布が掛けられた台座が厳かに運び出された。
会場の全ての視線が、期待と欲望に輝く。布が払われると、そこには紛れもなく──木ノ子族の村から盗まれた──お目当ての物品が鎮座していた。
「……っ!」
カンジダは奥歯を噛み締め、樽の隙間からそれを見たクムダは息をのんだ。カンダタの瞳に怒りと悲しみの炎が揺らめく。
「おお……! なんという輝きだ!」
「まさか、実在したとは……!」
客席から、驚嘆と剥き出しの欲望に満ちた声が次々と上がった。インダンバラは恍惚とした表情で台座の角を撫で、マイクに唇を寄せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます