第5話 義人カンダタ

「……クムダ」


 その声は、記憶を失い、ただ目の前の敵意に反応するだけの獣のものではなかった。苦悩と悔恨に満ちた、知性ある響き。

 その劇的な変化を、目の前の少年だけが正確に理解していた。クムダは、膝から崩れ落ちた男に静かに歩み寄る。

 彼の表情に驚愕の色はなく、待ち望んでいた瞬間がようやく訪れたという、静かな安堵があった。


「全て……思い出したんだね。カンダタ」


「……ああ」


 男──カンダタは絞り出すように答えた。


「すまねえ……すまなかった、クムダ。何もかも……忘れてた。またお前に……寂しい思いをさせた」


 脳裏を嵐のような光景が駆け巡る。陽気な仲間達の笑い声。酌み交わした酒の味。そして、己が踏みにじった人々の涙と、最後に見た、顔のない白衣の男。


 思い出した、すべてを。


 かつての日々を。


 守るべきだったものを。


 そして、己の拭い去れぬ罪科を。


 この少年と共に、なぜこの地獄に落とされたのか、その理由のすべてを、彼は思い出していた。


 クムダは、その苦悶に満ちた返事を聞くと、ふっと口元を緩めた。それは、長い離別の末の再会を喜ぶような感傷的な笑みではない。欠けていた最後のピースがはまり、最強の駒が盤上に揃ったことを確信した、冷徹なまでの戦士の笑みだった。


「謝罪は後でいい。今は、目の前の悪党をぶん殴る方が先だろ?」


「……違えねえ」


 カンダタの目に、力が戻る。


「おやまあ、感動の再会ってわけかい」


 二人のやり取りを、コカナダは腕を組んで冷ややかに見つめていた。その唇には、相変わらず嘲るような笑みが浮かんでいる。


「思い出したところで、何が変わるわけでもないだろうに。ここは地獄だよ。アンタ達みたいな、傷の舐め合いが通用する場所じゃない」


 カンダタはゆっくりと立ち上がると、地面に転がっていた戦斧──『鯨波 げいは』を拾い上げた。ずしりとした重みが、今は懐かしい。彼はコカナダへと向き直る。その瞳に宿る光は、先ほどまでの無知なものでも、混乱したものでもなかった。


「あんたの言う通りかもしれねえな」


 カンダタの声は低く、静かだった。


「ここは地獄だ。俺みてえな、守るべきモン一つ守れなかった大バカが堕ちるにはお似合いの場所だ」


 彼は一度言葉を切り、隣に立つクムダの肩にそっと手を置いた。


「だがな。俺はもう間違えねえ。二度と、こいつの前で無様に膝をつくことも、こいつから何かを奪わせることも、俺自身が諦めることも……もう御免だ」


 カンダタの言葉に、クムダがはっと顔を上げる。その小さな体から迷いが消えていた。


「へえ……」


 コカナダは、つまらなそうにしていた表情を改め、初めて心底楽しそうに目を細めた。


「まともな目をするようになったじゃないか。そうこなくっちゃね。壊れた道具に用はないが、覚悟を決めたバカは嫌いじゃないよ」


 彼女は鞘から抜きかけていたナイフを、音を立てて収めた。


「いいだろう。アンタ達の綺麗事が、この地獄でどこまで通用するのか、このコカナダ様がじっくりと見定めてやるよ」


「良かった。これで、ようやく始められる。……思いっきり、やれる」


 クムダのその言葉が、まるで世界の法則を書き換える合図だったかのように、信じがたい光景が繰り広げられた。

 クムダの体が、淡い燐光を放つ無数の粒子となって、その輪郭を失い始める。辛うじて少年という形を保っていた光は、渦を巻きながら一本の線へと収束し、瞬く間に、深く冷たい黒鋼の輝きへと変わっていく。


「クムダ、お前……」


「俺の力、全部あんたに預ける。だから……もう、忘れるなよ、カンダタ!」


 カンダタが、まるで定められていたかのように差し出したその手に、光の終着点――無骨で頑丈な鎖の持ち手がぴたりと収まる。指に絡みつく金属の冷たさと重みが、彼の魂に直接語りかけてくるようだった。


 鎖の先には、それ自体が叫び声を上げているかのような、いくつもの鋭い突起を持つ禍々しい鉄球が形成されていた。

 少年の姿は、もうそこにはない。ただ、カンダタの右手に握られた、彼の意志に応じて無限の軌道を描く鎖付きの鉄球──『森王殺しんおうごろし』があるだけだった。


「なっ……!?」


 それまで余裕の笑みを崩さなかったコカナダが、初めて驚愕の声を上げる。

 彼女の忠実な部下であるアンブジャとパンカジャは、目の前で起きた超常現象がまったく理解できず、腰を抜かさんばかりに後ずさった。震える指でカンダタを指し、上擦った声が重なる。


「「ガキが……ガキが鎖になったぁ!?」」


 彼らの狼狽を意に介すことなく、『森王殺し』を握ったカンダタは、大地を踏みしめながらゆっくりと歩を進める。その巨躯が軋む音は、もはや単なる肉体の軋みではない。それは、再起動した鋼の巨人の胎動だった。


 彼は、記憶と共に、血肉に刻まれた本来の戦い方をも取り戻していた。その双眸には、もはや過去を悔いるだけの迷いはない。その先にある、果たすべき義のための確固たる意志の光が宿っていた。彼は、コカナダと、その背後で怯えきっている部下達を真っ直ぐに見据え、宣言した。


「俺は天下の大義賊カンダタ。たとえ、この地獄の底で朽ち果てようと、てめえらみてえな私利私欲の外道に成り下がるつもりはねえよ」


 その声は、義の誓いだった。赤き湖畔に響き渡る揺るぎない言葉と、少年が武器へと変貌する異常事態。二つの強烈な衝撃を受け、コカナダは一瞬だけ目を丸くした。

 だが次の瞬間には、驚きは、より深い興味と、美しい美術品を欲しがるような強欲な独占欲へと、瞬時にその姿を変えていた。


「面白い……面白いじゃないか、義賊カンダタ!」


 コカナダは、まるで極上の獲物を見つけた獣のように喉を鳴らして笑う。


「その綺麗事が、アタシの前でいつまで続くか見物だね。それに、その武器……気に入った。アンタを殺して、アタシのコレクションに加えてあげる。そっくり寄こしな!」


「お頭目かしら!」


「手伝いますぜ! 調子に乗らせちゃおけねえ!」


 アンブジャとパンカジャが、主人の危機と見て前に出ようとするが、コカナダはそれを、ナイフの如き鋭い一瞥と優雅な手つきで制した。


「アンタ達は手を出すんじゃないよ。こいつはアタシの獲物さ。誰にも指一本触れさせない。……わかったら、そこで震えてな」


「「は、はひぃ!」」


 言うが早いか、コカナダの姿が掻き消える。

 否、常人の動体視力では捉えきれぬほどの速度で地を蹴り、赤い残像を残してカンダタの懐へと突進していた。

 殺気を肌で感じ、カンダタは即座に反応する。右手に握る『森王殺し』を、唸りを上げて振り抜いた。鉄球が風を切り裂き、今の今までコカナダが立っていた地面を粉々に砕いた。土煙が爆発のように舞い上がる。だが、既にそこに彼女の姿はない。


 ──残像。


 鉄球が地面を打つよりも瞬刻速く、コカナダは身を翻し、カンダタの左側面──戦斧『鯨波』を構える腕の巨大な死角へと回り込んでいた。抜き放たれたナイフが赤い光を反射し、カンダタの脇腹を抉らんと妖しく煌めく。


「──遅い!」


「──そっちこそ!」


 しかし、カンダタの巨体もまた、記憶と共に本来の俊敏さを取り戻していた。左手の戦斧を──攻撃のためではなく──盾とするために強引に振り抜く。鼓膜を突き刺す耳障りな金属音を立てて、コカナダのナイフが巨大な斧の側面で弾かれた。


 火花が散り、二人の間に一瞬の閃光が走る。

 互いの初撃を凌ぎ、素早く距離を取ったコカナダと、二つの対照的な武器を構え直すカンダタ。土埃が立ち込める中、互いの荒い呼吸だけが、赤い湖畔に不気味に響いていた。


「へえ……」


 コカナダは、弾かれたナイフの切っ先を恍惚とした表情で舐め、初めて心から感心したように熱い息を吐いた。


「ただのデクの棒かと思ったら……存外、面白い動きをするじゃないか。ますます欲しくなってきたよ。その生意気な口も、その体も……ぜんぶアタシのものにしたくなった……」


「寝言は寝て言え、外道が。てめえの汚ねえ欲望なんざ、俺達が叩き潰してやる!」


 地獄の底で、失った誇りを取り戻した大義賊カンダタと、他者の全てを欲する女頭目コカナダ。互いの存在理由そのものを賭けた戦いの幕が、今まさに、切って落とされた。

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