第2話:家

「――そこまでだ、畜生」


凛とした、それでいて年季の入った低い声が響いた。

獣の動きがぴたりと止まる。雨で霞む視界の中、俺と獣の間に、いつの間にか一人の老人が立っていた。

そこに立っていたのは、俺が今まで見たどんな人間よりも、圧倒的な存在感を放つ老人だった。身長は俺より頭一つ分は高く、着込んだ革鎧の上からでも分かるほど、その体は分厚い筋肉で覆われている。まるで、年輪を重ねた大木のような逞しさ。

白髪混じりの髪と髭を無造作に伸ばし、顔には深い皺が刻まれているが、その双眸は猛禽類のように鋭く、獣を射抜いていた。老人の手には、使い込まれた無骨な剣が握られている。


獣は、新たな闖入者に敵意を剥き出しにし、喉の奥で唸り声を上げた。そして、弾丸のような速さで老人に襲いかかった。


「危な……」


声にならなかった。しかし、それは杞憂に終わる。

老人は迫りくる獣の爪を、最小限の動きでひらりとかわすと、流れるような動作で剣を振るった。銀色の閃光が走る。次の瞬間、獣の巨体は力なく地面に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。


あまりに鮮やかな、一撃。

俺は、目の前で起きたことが信じられず、ただ呆然と見つめていた。

老人は、倒した獣を一瞥すると、剣についた血を雨で洗い流す。そして、ゆっくりとこちらに振り返った。


「……運が良かったな、小僧。もう少し遅ければ、お前はそいつの晩飯になっていたところだ」


ぶっきらぼうな口調。だが、その声には不思議な安堵の色が滲んでいた。


「あ……りが……とう……」


かろうじてそれだけを口にすると、緊張の糸が切れたのか、俺の体は崩れ落ちた。

意識が遠のいていく中で、老人が「おい、しっかりしろ!」と叫ぶ声が、どこか遠くに聞こえた気がした。


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次に目を覚ましたとき、俺は木のベッドの上に寝かされていた。

軋む体をゆっくりと起こすと、そこは見知らぬ丸太小屋の中だった。壁には動物の毛皮や干し草が飾られ、部屋の中央にある暖炉では、ぱちぱちと音を立てて火が燃えている。部屋の隅には、武骨な剣や弓が立てかけられていた。

生きている。その事実が、信じられなかった。


「目が覚めたか」


声のした方を見ると、あの老人が椅子に腰かけ、木製のカップを片手に俺を見ていた。


「ここは……?」


「俺の家だ。倒れたお前を運んできた」


老人はそう言うと、テーブルの上に置いてあった別のカップを顎でしゃくった。


「飲め。ただの水じゃない。滋養のある薬草を煎じたものだ。腹にしみるぞ」


促されるままにカップを手に取る。温かい液体が、乾ききった喉を、そして冷え切った体を潤していく。体の芯からじんわりと温もりが広がるのを感じた。涙が出そうになった。


「……ありがとうございます。俺は、相馬リヒト、です」


「アルフレッドだ」


老人は短く名乗った。


「リヒト、か。奇妙な響きの名だな。どこの生まれだ?」


「日本、ですけど……」


「にほん? 聞いたことのない国だな。この大陸の人間ではないのか」


アルフレッドの言葉に、俺は首を傾げた。大陸? まるで、ここが日本ではないことが確定しているかのような口ぶりだ。


「あの、すみません。ここはいったいどこなんでしょうか? 俺、気づいたら森の中にいて……」


俺の問いに、アルフレッドは少し考えるような素振りを見せた後、重々しく口を開いた。


「……ここは、エルドラ大陸。アステル王国の辺境にある『嘆きの森』だ。お前さんの言う『にほん』とやらがどこにあるかは知らんが、少なくとも、歩いて帰れるような場所ではないだろう」


エルドラ大陸。アステル王国。

全く聞き覚えのない単語の羅列に、頭がくらくらした。

まさか、とは思う。だが、状況証拠は全て、一つの可能性を示唆していた。

いわゆる、異世界転移。

ラノベや漫画で何度も目にした、陳腐な設定。それが、今、俺の身に起きている。


「そんな……馬鹿な……」


「馬鹿な、と言われてもな。事実だ」


アルフレッドは淡々と告げる。その落ち着き払った態度が、逆に現実味を帯びて俺に突き刺さった。


それから数日間、俺はアルフレッドの小屋で世話になった。

彼は、俺が元の世界に帰る方法など知らないと言った。だが、衰弱しきった俺を追い出すようなことはせず、食事と寝床を与えてくれた。


体力が回復してくると、じっとしているのが申し訳なくなり、俺は小屋の手伝いを申し出た。不思議なことに、あれだけ衰弱していたはずなのに、体の回復が異常に早い気がした。森を彷徨っていた時よりも、明らかに体が軽い。過酷な環境に無理やり適応しようとしているのだろうか。


「何か、俺にできることはありませんか? 薪割りでも水汲みでも、何でもします」


アルフレッドは少し意外そうな顔をしたが、やがて「……好きにしろ」とだけ言って、薪割りの斧を渡してくれた。

見よう見まねで斧を振り下ろすが、全く上手くいかない。変なところに力が入って、丸太にかすりもしない。見かねたアルフレッドが、後ろから手を取って教えてくれた。


「腰を入れろ。腕の力だけじゃない、全身の連動だ」


ぶっきらぼうな口調だったが、その教えは的確だった。言われた通りにすると、面白いように薪が割れた。


それから、俺はアルフレッドの生活を手伝いながら、この世界のことを少しずつ学んでいった。

彼が狩ってきた、見たこともない獣の解体を手伝い、その肉を食べた。硬かったが、滋味深い味がした。森で採れる薬草の種類と効能を教わった。俺が腹を壊した毒の実の話をすると、「それは『悪魔の涙』だ。普通は一つでも食えば、丸一日は動けなくなる。体が丈夫で良かったな」と呆れ顔で言われた。


アルフレッドは、俺の働きぶりを黙って見ていた。俺が失敗しても、それを責めることはない。ただ、どうすれば上手くいくかを、手本を見せて教えてくれるだけだった。その無言の優しさが、荒んだ俺の心にじんわりと染み渡っていった。

同時に、俺は自分の無力さを痛感していた。この世界では、学校の勉強など何の役にも立たない。生きるための知識と技術がなければ、一日だって生きてはいけないのだ。


ある晩、暖炉の火を囲みながら、アルフレッドがぽつりと呟いた。

「お前、これからどうするつもりだ?」

それは、俺がずっと考えないようにしていた問いだった。

「どうする、って言われても……。帰る方法も分からないし、行く当てもないし……」

俺が言葉を濁すと、アルフレッドはふむ、と顎髭を撫でた。

「このまま森を出て、街へ向かうか? だが、お前には何の力もない。身分を証明するものもなく、金もない。そんな小僧が一人で街へ行っても、待っているのは奴隷か、野垂れ死にか、どちらかだ」

厳しい言葉だったが、真実だろう。

「……じゃあ、俺はどうすれば……」

俯く俺に、アルフレッドは静かに言った。

「……しばらくは、ここにいろ」

「え……?」

「お前が一人で生きていけるようになるまで、俺が面倒を見てやる。その代わり、俺の仕事を手伝え。それで、飯を食わせてやる」

予想外の提案に、俺は顔を上げた。

「い、いいんですか?」

「勘違いするな。同情じゃない。これは俺自身の問題だ」

アルフレッドは暖炉の揺れる炎を見つめながら、静かに言った。その目は、俺ではなく、もっと遠い何かを見ているようだった。


こうして、俺とアルフレッドの奇妙な共同生活が、本格的に始まった。

それは、俺が失っていたものを取り戻し、そして、新たな自分を見つけ出すための、長い道のりの始まりだった。

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