蒼翼のメシア~森で遭難した無気力大学生、元最強騎士団長に拾われる~
アカミー
森の賢者と名もなき天使
第1話:森
目が覚めたとき、俺、相馬リヒト(そうま りひと)は、森の中にいた。
いや、そんな単純な言葉で表現できる状況ではなかった。
ひんやりと湿った土の感触が、安物のスウェット越しに背中へ伝わってくる。鼻をつくのは、むせ返るような腐葉土の匂いと、知らない花の甘ったるい香り。
視界を埋め尽くすのは、見上げるほどに巨大な木々の群れ。それらが幾重にも枝を伸ばし、空を覆い隠している。木漏れ日というにはあまりに頼りなく、薄暗い光がまだら模様に地面を照らしていた。
「……は?」
喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。
体を起こそうとして、全身を襲う鉛のような倦怠感に顔をしかめる。
最後に覚えているのは、確か……。
そうだ。代わり映えのしない大学の講義をサボって、万年床と化した自室のベッドで惰眠を貪っていたはずだ。特に面白いこともない、いつも通りの退屈な一日。
それがどうして、こんな場所に?
「ドッキリ……か?」
だとしたら、あまりに手が込みすぎている。こんな大自然、日本のどこを探せば見つかるというのか。
第一、俺みたいな人間に、こんな大掛かりな悪戯を仕掛けるような酔狂な友人はいない。
誘拐? 身代金を要求するほどの価値が、しがない大学生の俺にあるとは到底思えなかった。
混乱する頭で自分の体を見下ろす。服装は、眠るときに着ていたヨレヨレのスウェットのまま。ポケットを探るが、あるはずのスマートフォンも、コンビニへ行くための小銭入れも、部屋の鍵すら見当たらない。
完全な無一文、無装備、無防備。
サバイバルという言葉が脳裏をよぎり、背筋が凍った。
「冗談だろ……」
とりあえず、状況を把握しなければ。
重い体を引きずって立ち上がると、ふらりとよろめいた。近くの木の幹に手をつき、荒い呼吸を整える。ひんやりとして、ごつごつした樹皮の感触が、妙にリアルだった。
夢じゃない。その事実が、ずしりと腹の底に落ちてくる。
一体、何が起きたんだ?
答えの出ない問いを繰り返しながら、俺はあてもなく歩き始めた。どこかに道があるかもしれない。あるいは、人里が。そんな淡い期待だけが、今の俺を動かす唯一の原動力だった。
だが、森はあまりにも広大で、そして無慈悲だった。
歩いても歩いても、景色はほとんど変わらない。同じような木々、同じような下草。自分が今どこにいて、どの方角へ向かっているのか、全く分からなかった。太陽は厚い葉の天井に遮られ、方角を知るための目印にはならない。
文明社会の常識が、ここでは何一つ役に立たなかった。
やがて、喉が猛烈な渇きを訴え始めた。唾を飲み込むことすら辛い。空腹も限界に近かった。最後に食事をしたのはいつだったか。
ぐぅ、と情けない音を立てる腹を抱え、俺は地面に座り込んだ。
「水……水が飲みたい……」
切実な願いだった。
しばらく歩くと、せせらぎの音が聞こえてきた。希望の光が見えた気がして、音のする方へよろよろと進む。そこには、小さな小川が流れていた。澄み切った水が、キラキラと光を反射している。
俺は、ほとんど這うようにして水辺にたどり着いた。両手で水をすくおうとして、ふと動きが止まる。
本当に、この水を飲んで大丈夫なのか?
テレビのサバイバル番組で見た知識が頭をよぎる。生水には寄生虫や細菌がいる危険性がある、と。腹を壊せば、この状況では命取りになりかねない。
だが、喉の渇きはもはや限界を超えていた。思考が正常に働かない。
「……ええい、ままよ!」
葛藤の末、俺は覚悟を決めて水を口に含んだ。ひんやりとした液体が、乾ききった喉を潤していく。
生き返る、とはこのことだろう。腹を壊す恐怖よりも、今この瞬間の潤いを選んだ。
俺は、生まれて初めて、生きるためにリスクを冒した。
その日は、どうにか喉の渇きだけは癒やすことができた。しかし、夜になると、新たな恐怖が俺を襲った。
陽が落ちると、森は完全な闇に包まれた。自分の手すら見えないほどの暗闇。風が木々を揺らす音が、まるで何者かの息遣いのように聞こえる。遠くで響く獣の咆哮に、びくりと肩が跳ねる。
昼間とは比べ物にならないほどの恐怖が、じわじわと精神を蝕んでいく。
眠れるはずもなかった。木の根元にうずくまり、ただひたすら夜が明けるのを待つ。寒さと恐怖で体は震え続け、幻覚まで見え始めた。
闇の中に、誰かの顔が浮かんで見える。無気力に生きてきた過去の自分を、嘲笑っているかのように。
「うるさい……黙れ……!」
頭を抱えて叫ぶ。返ってくるのは、不気味な静寂だけだった。
二日目の夜が、最も過酷だった。一睡もできなかったせいで、思考はまとまらず、体は鉛のように重い。そして何より、腹が減ってたまらなかった。胃が、自らを消化しようとしているかのようにキリキリと痛み、立っていることすら辛い。
食べ物のことばかりが頭をよぎる。コンビニの唐揚げ、学食のカレー、母親がたまに作ってくれた生姜焼き。もう二度と食べられないかもしれないという絶望が、じわじわと心を蝕んでいく。
闇の中で、全ての音が脅威に変わった。カサリ、という葉音に心臓が跳ね、遠くで枝が折れる音に息をのむ。何かがいる。俺を狙っている。
その妄想から逃れられず、俺はただ震えながら、意味もなく周囲を睨みつけていた。
三日目、空腹は痛みを通り越し、全身を蝕む倦怠感に変わっていた。思考能力は著しく低下し、もはや恐怖すら感じなくなっていた。ただ、何かを口にしたい、という本能だけが俺を突き動かしていた。
そんな時、目の前の茂みに、鮮やかな赤い実がなっているのが見えた。宝石のように艶やかで、見るからに美味そうだ。毒かもしれない、という理性のかけらが警鐘を鳴らす。だが、空腹という名の獣が、その声をかき消した。
俺は、夢遊病者のようにその実に手を伸ばし、口に放り込んだ。甘酸っぱい味が、口の中に広がる。もっと、もっと欲しい。我を忘れて、俺は貪るように実を食べ続けた。
異変が起きたのは、その直後だった。
腹の奥から、灼けつくような痛みが突き上げてきた。
「ぐっ……あ……がっ……!」
立っていられず、その場にうずくまる。胃の中のものを、全てぶちまけた。だが、痛みは収まらない。体中を鋭い針で刺されるような激痛が走り、視界が明滅する。
地面を転げ回り、胃液の酸っぱさで涙を流しながら、俺は自分の愚かさを呪った。
しばらくして痛みが引いた後には、死人のような疲労感だけが残った。もう、一歩も動けない。
朦朧とする意識の中、ふと視界の端を何かが横切った。リスだ。ふさふさの尻尾を揺らし、木の上を軽やかに駆けていく。
その瞬間、俺の頭から全ての思考が消え去った。
「食料……」
そう認識した瞬間、俺は我を忘れて駆け出していた。最後の力を振り絞り、石を拾って投げつける。だが、当たるはずもない。リスは、俺をあざ笑うかのように軽やかに枝から枝へと飛び移り、森の奥へ消えていった。
その場にへたり込み、俺は嗚咽した。浅ましい。なんと醜い。つい数日前まで、文明社会で当たり前のように生きていた自分が、今は小さな命を奪おうと必死になっている。
生きるためだ、と頭では分かっている。だが、生き汚い自分への強烈な嫌悪感が、心を重く締め付けた。
俺は、もう元の自分には戻れないのだと、絶望的な気持ちで悟った。
そして、四日目の午後。
空が暗くなり、冷たい雨が降り始めた。最初は小降りだった雨は、次第に激しさを増し、容赦なく俺の体温を奪っていく。濡れたスウェットが肌に張り付き、寒さで歯の根が合わなくなった。
もう、歩けない。
思考も、体も、限界だった。
俺は、巨大な木の根元にずるずると座り込んだ。雨に打たれ、視界が霞んでいく。
ああ、俺はここで死ぬのか。
薄れていく意識の中、今までの人生が走馬灯のように駆け巡った。
親はいた。だが、彼らは放任主義という名の無関心で、俺にほとんど関わりを持たなかった。食事と寝床は与えられたが、そこに温もりはなかった。大学進学を機に家を出たのは、そんな空虚な家からの逃避だった。
大学では、それなりに友達もできた。講義に出て、サークルで馬鹿をやり、飲み会に参加する。傍から見れば、ごく普通の大学生だっただろう。だが、心の底はいつも冷めていた。熱くなれるものなど何もない。心の底からやりたいこともなく、ただ無気力に時間を浪費しているだけだった。空っぽのまま、ただ流されるだけの毎日。
そんな、空っぽの人生の結末が、こんな異世界の森での孤独死。
皮肉なものだ、と思った。誰にも看取られず、死ぬ。それが、俺の成れの果てか。
不思議と、恐怖はなかった。ただ、途方もない虚しさが胸に広がっていた。
薄れていく意識の中で、二つの爛々と光る目を見つけた。
狼、だろうか。いや、俺が知っている狼よりも二回りは大きい。剥き出しにされた牙の間から、涎が滴り落ちている。獲物を見る目。間違いなく、俺はそう認識されていた。
ああ、こいつに食われるのか。それも、悪くないかもしれない。
そう思った瞬間。
「――そこまでだ、畜生」
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