第11話 縛られぬ縛られた者

時間は少し前に遡る。

アイが北大陸へ来た初日――彼女にとって、いろいろなことが起こった日だった。


はじめて人間と出会い、言葉を交わすことができた。

そして、初めて「取引」というものを経験し、「商人」としての一歩を踏み出した。


──まずは、上々な滑り出し。そう思えた。


カイルとはじめは、当たり障りのない話をしていた。

北大陸にはどういう国があるのか。どんな食べ物があるのか。人間たちはどうやって暮らしているのか――。


けれど、どこかぎこちない空気が二人のあいだに流れていた。

お互いに"知っている"。

お互いに"気づいている"。


カイルは、この少女が「厄災」であることを。

そしてアイは、自分がかつて暴れ、恐れられる存在だったことを。

――自分が、今もなお「警戒」されていることも。


「……私は、一体、何のために生まれてきたんだろうって、そう思うことがあります」


突然、思い詰めたような表情で、アイがぽつりと呟いた。


カイルは少しだけ目を細め、少女をまっすぐに見つめ返した。


「いきなり、重い話だな」


「……」


「"何のために生まれてきたのか"か。そんなに、生まれてきた理由って必要か?」


「カイルさんは、私と同じように思ったこと……ないんですか?」


「……ないとは言わねえよ」


彼は肩をすくめ、苦笑する。


「でもな、因果関係なんて、自分の人生には大して関係ねぇと思ってる。俺は、親から生まれてきた。それだけだ。そこに"意味"や"理由"を無理につけたら、結局は"親のために生まれてきた"ってことになる。それって……ちょっと違う気がしないか?」


アイは、視線を落とした。


過去の記憶は、ほとんどない。

けれど、自分がかつて「厄災」として暴れていたこと。

そして、自分が"普通の人間"ではなく、「作られた存在」であること――それだけは、はっきりと理解してしまっていた。


意図的に作られた存在なら、何か命令や使命があったほうが楽だったかもしれない。

だが、自分には何も与えられていない。ただ、存在しているだけ。


自分は何のために生きているのか。

何をしていいのか。

どこへ向かえばいいのか。

その一つひとつが、恐ろしかった。


この5年間、南大陸の片隅で、ひっそりと生きてきた。

力の制御を覚え、ひたすら使わないことを誓いながら。

だが、それでも、力を使うたびに思った。


――自分が人間でなくなっていくような気がする。


だから、誰とも深く関わらず、静かに生きようと思った。


……それでも、不安は消えなかった。


人間社会へ来て、交流を持ったことで、ますます自分が怖くなった。

もし、また無意識に力を暴走させてしまったら――?


仲良くなればなるほど、その恐怖は現実味を帯びる。

もし、力の制御ができなくなったら。

もし、大切な人を、自分の手で傷つけてしまったら――?


だからこそ、彼女は心に誓ったのだ。


力を「使わない」と。


「……でも、私は自分が何者なのかすら、わかっていません。普通の人間じゃないことは、明らかなんです」


「それならさ」


カイルは穏やかな声で語りかけた。


「この5年間、嬢ちゃんは好きに生きてこれたんだろ?」


「……」


「意思がある。選択もできる。……だったら、何者にだってなれるはずだ」


「……」


「嬢ちゃんは、"道具"じゃない。自分で考えて、自分で選べる"人間"だ。……転移ができるんだろ? どの国にも縛られてない。なら、ほんとの意味で"自由"な存在じゃねぇか」


「……」


「その力を使えば、誰よりも多くの国を巡れて、誰よりも多くの人に出会える。誰よりも多くの経験ができる。……それが、"人間らしく生きる"ってことなんじゃねぇのか?」


アイの胸に、小さな熱が灯る。


「まずは、いろんなことをやってみることだ。聞くだけじゃわからねぇ。経験して、世界を見て、それから自分がどうしたいのか考えりゃいい」


「……はい」


「そしたら、自分の"良い"と思ったことを、人生の基準にすればいい。どうなりたいか、何をしたいか――その基準を自分で決めねぇと、周りに流されるだけになる」


「……」


「人生は、選択の連続だ。選ぶためには、"自分の判断基準"が必要なんだ。……後悔しないためとか、ブレないためとか、そんな理由じゃねぇ。"自分が納得できる"ようにするためだよ」


「最善の選択なんて、誰にもできねぇ。だいたい、選択ってのは"最悪"と"最善"のあいだで揺れてるもんだ。……でも、少なくとも自分の基準で選んだなら、納得はできる」


アイは、ぼんやりと空を見上げた。


「……私は、運命に縛られているのかもしれません」


その言葉に、カイルは真っ直ぐな目で、少女を見つめ返した。


「そう思っているうちは、本当に縛られるぜ?」


アイは、はっとして顔を上げた。


自分が"普通の人間ではない"こと。

それは、何かの意図や目的のために生まれてきたことを意味する。

この強すぎる力――それが「証」なのだ。


かつて「厄災」として生み出された自分。

そんな自分が、普通の人間として生きていいはずがない――

……ずっと、そう思い込んでいた。


「……運命って、なんですか?」


カイルは、ゆっくりと言葉を選びながら答える。


「定められた未来。そういうもんかもしれねぇな。……でも、運命ってのはさ、俺たちがどう捉えるか、どう向き合うかで、姿を変えるものでもあるんだよ」


「姿を……変える……」


「人間は、いずれ死ぬ。……それだけは、避けられない未来だ。だがな――は、自分で選べる」


「……」


「もし、嬢ちゃんが厄災として生まれて、力が暴走するかもしれない。……それが"避けられない運命"だとするなら、嬢ちゃんは、どう向き合う?」


「逃げるか? 抗うか? それとも……別の意味を見出すか?」


「"避けられない"ものがあるにしても、その"避けられない"を、どう受け止めるかは自分で決められる。それこそが、人間の自由ってやつじゃねえか?」


カイルの目には、確かな強さと優しさが宿っていた。


「それに――本当に"避けられない"ものなら、なんで嬢ちゃんは、あのとき途中で暴れるのを止めたんだ? 記憶もなかったのに。暴走してたなら、止まる理由がねぇ。でも、止まったんだよな?」


「……」


「心の奥で、"これは違う"って思ったんじゃねぇのか? "自分のやりたいことじゃない"って」


「……」


「そして、5年間。何も起こらなかった。制御できたからじゃない。変わりたいと願ったからだ。未来を変えようとしてきたからだ。だから、今こうして、俺たちと一緒にいられる」


「……なんだか、人生相談みたいになっちゃいましたね」


「人生相談そのものだろ。お前、年齢的には5歳だろ? 5歳の人生相談って、なかなか聞かねえな」


カイルは冗談めかして笑い、ふっと息をついた。


けれどその胸には、ある思いが静かに広がっていた。


――いつか、自分に子どもができたら。

その子が悩んで、相談してくる日が来るかもしれない。

そのとき、自分はちゃんと答えてやれるのだろうか。


……そう考えると、人生相談ってやつも、悪くない。


アイはまだ、考え込むように俯いている。

けれど、その表情は、どこか前よりも柔らかかった。


少しだけ――心が、軽くなっていればいい。


「……そろそろ昼だな。飯にしよう。肉でいいか?」


「はい! 私、手伝ってもいいですか?」


「料理できるのか? なら頼むぜ。火だけは気ぃつけろよ」


二人は連れ立って、台所へ向かった。


「……いますぐ答えなんて出さなくていい。悩むってのは悪いことじゃない。人間だけができることだからな」


「はいっ!」


少女の笑顔は、どこか人を癒す不思議な力がある。

――気に入ってるのか? いや……助けてやりたいと思ってしまうのだろう。


カイルは、どこか不思議な気持ちに包まれていた。


(……柄にもねえな、俺は。……何のために生まれてきたのか?……か)


(俺だって、今でもふと、そう思うことはある)











――けれど、そう思えることこそが、生きている証なのかもしれない。

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