第2話 崩壊の序章

これは、5年前の出来事である。この時からすでに世界は動き始めていた。

ある男が得体の知れない存在と出会ったあの日から、運命はゆっくりと、けれど確実に、狂い始めたのだ――。



男の名前はエルネスト・レイ。北部のオルデア王国出身。

普段は魔法組合に所属し、組合員として依頼をこなし生計を立てている。


「――今回の依頼も、無事に終わったか。思ったよりも穏やかな任務だったな」


彼は、魔法理論を研究する家計で育った。才能にも恵まれ、さまざまな魔法を使いこなせた。若くして頭角を現した彼も、もう三十路を越えている。経験も増え、今では王都で名の通った魔法使いだ。


だが、評価が上がるたび依頼の難易度も上がっていった。依頼を終えるたび、北端に近いこの田舎へ足を運び、張り詰めた神経を休ませる。英気を養うのは、彼にとって長年つづけている習慣だった。


北端には魔物が多い森がある。森の奥に行かなければ魔物にも遭遇しない。

出てきても浅い部分は弱い魔物だ。なんなく対処できる。

森の周辺には自然が多く、人もほとんど見当たらない。ゆっくり過ごすにはうってつけの場所だった。


「あと2、3日ゆっくりしたら王都に戻るか。――っ!? なんだ!?!?!?」


北端の森の奥からこの世のものとは思えない異質の魔力がほとばしる。


(森の最奥の魔物が動き始めた!? いや、違う! 最奥に急に発生したように思える。とんでもない魔物が誕生したってことか!? 15年前の魔王よりはるかに強い魔力だ…これはまずい!)


もともと森の最奥には強い魔物がいることはわかっている。その魔物が動きだして森から出ようとしているなら事前に探知できたはずだ。

魔物は基本的に魔力を隠すのが下手だ。強力な魔物ほどその傾向が強い。こんな魔力を隠し持っていたということは考えづらい。

であれば、何かとんでもないやつが現れたと考える方が自然だろう。


(調査して組合に報告すべきか!? いや、待て、報告して次はどうなる!?)


明らかに異変があったなら、調査班を編成して調査するのが基本だ。危険であるほど複数人で行う。情報を持ち帰れる可能性が上がるからだ。


(落ち着け! この異変を報告したら、発見者でもある俺は結局、調査班の一人に選ばれるだろう。どっちみち調査はするわけだ)

(ただ、先程の魔力は魔物のものとは全く違っていたぞ。魔物ではない可能性がある。じゃあなんだ…? ――精霊か? その可能性もある!)

(魔力量だけでは測れない……。構造自体が異なっているように感じた。魔力波長が多層的すぎる)


家にある古い文献も読んだ。王都の資料室や王侯貴族がもっている禁書と呼ばれるものも一部読んだことがある。それには精霊は魔法の達人であり、とんでもない魔力をもつ存在だと記載があった。


精霊であると決まったわけではない。異質な魔物という線も消えていない。

古い文献にも目を通しており、幅広い知識のあるエルネストは調査に適任だ。しかし発生した精霊が人間に好意をもっているとは限らない。

あくまで魔物のように有無も言わさず襲ってくる存在ではないというだけだ。知識のないやつが余計なことしたら調査どころではなくなる。


一人で調査に向かうべきだと、エルネストは考えた。精霊や古代の知識を持つ者を探して集めるには時間がかかりすぎるし、無知な者を巻き込めば逆に危険が増す。自分ひとりで動ける今のうちに、情報だけでも掴んでおくべきだ。


(依頼が終わってゆっくりくつろいでた時にこれか。ついてねえ…!)


せっかくの休暇を妨害された苛立ちを覚えながらも、調査せずにはいられない。

あんな存在が人間にあだなす存在として街に出たら終わりだ。もし仮に敵であるならば一刻も早く報告し対策を練らなければならない。たとえ友好的な精霊の類だったとしても調査は必須である。


(西部のエルフたちにこの国に精霊がいるって知られたら、それこそ国同士で揉めることになる。自然を尊重し信仰するやつらは精霊を神のように扱うと聞いてるからな。慎重に事を進めないとダメだ)


正直、関わらずに済むならそうしたかった。知らないフリをできたら、どれだけ楽だっただろう。しかし、いづれ誰かが気づき報告する。

調査依頼は誰にくるのか。間違いなくエルネストが候補にあがる。敵だった場合は報告の遅れが致命的になる。


——結局やるしかないのだ。


警戒しながら森に入る。森に入ると、空気がぴたりと止まったように感じられた。鳥も虫も鳴かず、葉のざわめきも消えた。まるで森そのものが息を潜め、何かをひた隠しているようだった。

足を進めていく中で、いつもと違う雰囲気に嫌な予感が募っていく。


(魔物たちは怯えているのか?じゃあなぜ逃げない? ――違う……諦めているようにもみえる。どうやっても勝てない、逃げられない相手。完全に上位の存在だと。いや、魔物たちからしても敵とは限らないのか)


魔物たちは警戒をしているが逃げる様子はない。怯えて混乱状態に陥り逃げ回られる方がやっかいだ。四方八方に逃げ、街まで出られると対処が難しくなる。魔物たちが動いていないのは幸いか。


(精霊の可能性が高まってきたな。精霊と魔物は敵対関係ではない。どちらかというと友好的な関係だろう。それなら魔物たちが逃げないことにも説明がつく)


北大陸に精霊はいないとされている。純粋で密度の高い魔力環境がないと生まれないとされている。エルフたちのいる自然豊かな西部でもだ。南大陸ならいるかもしれないが会ったというやつは今まで聞いたことがない。


友好的な個体ならそれはそれでエルフたちと揉めそうだが、敵対的な個体よりはるかにマシだ。外交問題になるがなんとかできないわけではないからだ。敵対的な個体なら……諦めるしかないかもしれない。まず自分が生き残れるかどうかという話になってくるが。


だんだん森の奥へ進むにつれ、感じる魔力は次第に強まっていき、いやでも近づいていることがわかる。


そしてついに北端へ到着した。


(なんだあれは……!?)


不定形の魔力生命体。触れると消滅してしまいそうなくらい濃密で異質の魔力。実体はなく、ゆらめくように魔力をなびかせ、ただ静かに...そこに居座っていた。


(あれが精霊か…? 戦って勝てる相手ではないな…。制御するのも不可能だ。意思はあるのか? 対話ができないならどうすることもできん!)


森の異変の原因はわかった。この場はこれで撤退し報告するべきだろうか。いや再調査になるのが普通だ。得体がしれないのだ。正体がわかるまで調査は続ける必要がある。ならば...


(……話しかけて意思疎通をはかる。何かあれば全力で死ぬ気で撤退だ。それ以外にない!)


「そこの人間」


話しかけられた…。と同時に、いきなり襲ってくるような存在ではないことがわかった。ほんの少し、ほんの少しだけ警戒が下がった。隠れていたのもバレているのだ。変なこと、余計なことはしない方が良いだろう。エルネストは姿を現して少し近づく。


「なんでしょう…?」


「南で異変が起こっている。我にもよくわからない。調べてきて欲しい」


「依頼ですか?南だと国が違うから少し時間かかるかもしれませんが」


「場所は海を隔てた向こうだ」


「……っ!?!?」


海を隔てた向こう、それは南大陸を意味する。やっぱりこいつは敵なのではないかと思えてしまう。南大陸にいけということは死んできてくれと同義だからだ。あんな馬鹿げた魔物たちしかいない魔境に誰がすすんで入るのか。


エルネストは、過去に南大陸に行ったことがあった。ただの腕試しで興味本位だ。自分も若かった。だからあの大陸の脅威さ、理不尽さを身に染みてわかっている。あの時ほど自身の無力さを感じたことはない。


南大陸への調査命令──そんなもの、どれだけ金を積まれようが普通は断る。命がいくつあっても足りない。それを、あろうことかこの存在が当然のように告げてきたのだ。

エルネストは本当に精霊なのだろうかと疑問に思う。

なぜここから南大陸に異変があったとわかるのか、なぜここに姿を表したのか、考えるほど疑問は尽きない。


しかし、ここで依頼を断って機嫌を損ねられたらそれこそ面倒なことになりそうだ。 


「南大陸へ調査いくのは良いですが、俺の実力では難しい可能性が高いです。他に何人か連れて行ってもいいだろうか?あと…申し訳ないが自分の命は最優先にしたい」


「それはかまわない。異変の正体がわかればそれでいい」


一人でいくのは無理だ。あと何人か連れていければ…そういう話でもないだろう。

仲間を道連れにするのも憚られる。そもそも一緒に行ってくれるやつなんていない。

最低限、依頼に失敗しても問題ないようにできれば御の字だ。


「あの…お言葉ですが…あなたが直接行かれた方が早い気がするのですが……」


「我が動くと周りへの影響が大きすぎる。直接動くことは制約によりできない」


「そうでしたか……」


動けないのか。いや動かれてもそれはそれでまずい。世界中が混乱に陥る。

ところで…


「あの……あなたは精霊ですか?」


「我はことわりより生まれし存在、観測者だ」


エルネストは言葉を失った。

理解すべき思考が、脳の奥で停止していた。

「観測者」――それは、古い文献の中に記録が残っている、理そのものに干渉する存在だった。

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