第2話 家族の終わり
妻との関係は、もう限界だった。
話しかけても、返ってくるのはため息や、短くそっけない相槌ばかり。リビングで顔を合わせても、お互いに目を合わせることすらなくなった。最近は、誰かと頻繁に電話をしている。仕事の話のようだったが、その声色は妙に柔らかく、笑みまで浮かべていて、もう隠すつもりもないのだと俺は悟っていた。
あの夜以来、俺はできるだけ早く帰宅するようになった。そのおかげで、起きている美咲と会える時間は増えていたが、代わりに妻が夜遅くまで家を空ける日が増えた。帰って来ても、疲れた顔でコートを脱ぎ、俺や美咲に目もくれず寝室に入ってしまう。そんな夜が何度も続いた。
どうしてこうなってしまったのか。
自分では家族のために頑張っているつもりだった。妻と娘に不自由のない暮らしをさせたくて、夜遅くまで働き、無理を重ねた。今にして思えば……妻の言うように、俺は彼女の気持ちなんて考えていなかったと思う。きっと彼女も、俺と同じ方向を見てくれているのだと勝手に信じていた。俺は美咲だけではなく、妻のことまで孤独にしていたのだ。
ずれた日々の積み重ねが、静かに、ゆっくりと、俺たちの間を決定的に壊してしまった。
俺にとって、今の妻は何なのだろう。
彼女の言う通り「家政婦」や、「美咲の添え物」としてしか見ていなかったのだろうか。そんなことを思っていたつもりはなかったので、彼女にそう言われた時、言葉に詰まってしまった。何故なら、俺は今でも彼女に見惚れない日はないからだ。
出会ったのは、友人の紹介だった。
「昔モデルをしていたんだよ」と紹介された時、俺はどこか別世界の人のように思ったことを覚えている。すらりと長い手足、涼やかな目元、芯の強さを感じさせる気配をまとっていながら、笑うと少しだけ子供っぽくえくぼが浮かぶ。最初に抱いた印象は、ただ「美人だ」というそれだけだった。内面に目を向ける余裕なんてなかった。圧倒されていたのだと思う。
気が強そうな人だと思ったが、話してみると意外なほどよく笑う人だった。俺のつまらない冗談にも屈託なく笑ってくれた。気がつけば、彼女ともっと話したいと思うようになっていた。
しばらくは友人も交えて数人で会っていたけれど、自然と二人きりで出かけるようになった。彼女は美しいだけの人ではなかった。やっぱり気が強くて、でもガラス細工みたいに繊細な一面もあって、ふとした時に見せる無防備な仕草にどんどん惹かれて行った。俺なんかが隣にいていいのかと不安になることもあったが、「一緒にいると、なんだか楽なんだよね」とぽつりと言ってくれたことが、嬉しかった。
夏の終わり、二人で海辺を歩いた日のことを、今でもよく覚えている。夕陽が水面に反射して眩しく、心地よい浜風が吹いていた。何も話さず、ただ歩いているだけなのに、不思議なほどに満たされた時間だった。
その時、彼女が何気なく呟いた。
「こういう風に普通に歩くの、ちょっと憧れてたんだ」
どこにいても目立ってしまう彼女は、いつも誰かに見られている気がして落ち着かなかった。誰と歩いていてもそれは同じだったけれど、俺が隣にいる時だけは自然体でいられるそうだ。
「どうして?」と、俺は訊ねた。
彼女は小首を傾げて、少し考えるように俺を見ていたが、フッと笑った。
「あなたの目以外、何も気にならないからかも」
あの日の、少しだけ恥ずかしそうな笑顔は、今でもはっきりと思い出すことができた。
やがて、ごく自然な流れで「結婚しようか」という話になった。
派手なプロポーズも、特別なサプライズもなかったけれど、彼女は満面の笑みで「うん」と頷いてくれた。
結婚式の日、純白のドレスに身を包んだ彼女は、誰よりも幸せそうだった。
あんなにも美しい人間を、俺は見たことがなかった。
彼女が俺を蔑むようになった今でさえ、それでも彼女と顔を合わせると、「本当に綺麗な人だな」と思ってしまう。この感情は、もう仕方のないものなのだと思う。あの頃の気持ちは、心のどこかにずっと残ったままだから。
久しぶりに、まとまった休みを取ることができた。
俺はやっぱり、まだ妻のことを諦めることができなかった。何もかも元通りになるとは思っていない。それでも、せめて昔の頃のように、もう一度家族で笑い合える時間を作れたら……そんな淡い期待が、胸の奥に残っていた。
その日の夕食。
妻は食卓の向こう側で、相変わらずスマホを弄っている。美咲は夢中でハンバーグにかじりつき、口の周りをケチャップでいっぱいにしていた。
俺は思い切って口を開いた。
「今度の連休、久しぶりに三人でどこか旅行に行かないか?」
一瞬、美咲の動きが止まる。
次の瞬間、パッと顔が明るくなった。
「ほんとに? どこ行くの!? 海がいい! あ、でも遊園地も!」
弾んだ声を上げながら、椅子の上でぴょんぴょん跳ねる。その無邪気さが、まるで小さな子犬みたいで、愛おしくて仕方なかった。
俺は思わず笑ってしまう。「アハハ、いいよ、どっちも行こう!」
「やったー!!」
美咲は両手を叩いて喜び、妻の方に身を乗り出した。
「ママ! 一緒に泳ごうね!」
妻は指を止め、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
「私はいい。二人で行って来たら?」
それだけを、抑揚のない声で言うと、すぐにまたスマホに目を落とした。部屋の空気が、一瞬にして凍りついたように感じた。
美咲は目を丸くして、「ママ、なんで?」と訊いた。
けれど妻は、何も答えず、指先で画面をタップし続けるだけだった。
俺は、苦笑いを浮かべると、「たまには三人で出かけたかったんだけどな」
そう呟いても、妻はやはり何も言わなかった。
美咲は不安そうに、俺の顔を見上げて来た。
「パパ……行くのやめる……?」
さっきまであんなに喜んでいたのが、嘘のようだった。
俺はゆっくりと首を横に振る。
「いいや、パパと二人で行こう。美咲の行きたいところ、全部!」
「わあっ!!」
美咲は再び弾けるような笑顔を見せ、椅子から飛び降りると、俺の腕にぎゅっとしがみついた。
妻は一切、こちらを見ようともしなかった。
——もう、どうしようもないのだ。
頭では分かっていたはずだった。だが、娘の小さな体を抱き寄せながら、心の奥で静かに希望が消えて行くのを感じた。その時になってようやく、俺は妻との関係が完全に終わってしまったことを理解した。
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