父と娘の話
uniabis
第1章
第1話 “おかえり”のない夜
妻と離婚した。
思い返せば、何年も前から家庭の中にはすきま風が吹いていた気がする。あの頃の俺は、朝早くから夜遅くまで仕事漬けで、終電近くのホームに立つのが当たり前になっていた。そのせいで、妻の異変に気付くのが遅れてしまった。
その日は、珍しく残業が少なくて、いつもより早く帰宅することができた。とはいえ、すでに夜の十時を回っていた。
娘はまだ起きているだろうかと、知らずに歩く速度が速くなる。もうずっと、起きている娘に会うことができていなかった。
玄関のドアをそっと開けると、部屋の中はしんと静まり返っていた。廊下にも、リビングにも灯りはなく、テレビの音も聞こえない。いつもなら妻が迎えてくれるが、その夜は気配がなかった。
ふと足元を見ると、玄関に並んでいるはずの妻の靴が無かった。嫌な予感がした。リビングのドアを開けると、暗がりのソファの上に、小さな影が丸くなって座っていた。
「……美咲?」
電気をつけると、眩しそうに目を細める娘がこちらを見上げた。目元は赤く腫れ、頬には乾ききらない涙の筋が残っている。小さな膝を両腕で抱え込み、まるで自分を守るように、身体を小さく縮めていた。
「パパ……!」
かすれた声は今にも泣き出しそうだった。
俺は慌てて膝をつき、両手を広げる。次の瞬間、美咲はソファから転がるように飛び込んできた。小さな体は冷え切っていて、触れた瞬間にその寂しさと不安が、痛いほど伝わってきた。ぎゅっと俺の服を握る手は、驚くほど強かった。
「ママ、どこかに行ってるの?」
そう聞くと、美咲は黙って頷いた。涙がまた頬を伝い、俺の胸を濡らした。
「ごめんなさい……こわい話みて、眠れなくなっちゃったの。ごめんなさい」
搾り出すような小さな声で、美咲は言った。
「え、どういうこと?」
「先に寝てなさいって、ママに、いつも、言われてるの。でも、みさき、こわかったから……眠れなかったの」
まさかと思った。
「もしかして、ママ、いつもいないの?」
美咲は何も言わず、俺の胸に顔を埋めてわんわんと泣いた。
俺は美咲を抱き寄せ、背中を優しくさすりながら、「もう大丈夫だよ、パパがいるからな」と必死で言い聞かせた。
俺はその晩、美咲を寝かしつけてから、ずっと妻を待っていた。
リビングの時計を何度も見上げ、静まり返った部屋でソファに深く沈み込む。気づけば、もう日付が変わろうとしていた。普段、俺が帰宅する時間帯のちょうど三十分ほど前に、ようやく玄関の鍵がカチャリと回った。
妻がふらりと入ってくる。まとったコートの裾が揺れ、部屋にはすぐに甘ったるいアルコールの匂いが立ち込めた。顔はどこか上気し、化粧も微かに崩れている。まるで夢の中を歩いているような、ぼんやりとした足取りだった。
「……遅かったな」
声をかけると、妻はコートを脱ぎながら、だるそうにこちらを見た。
「なによ、帰ってたの」
「美咲を一人で家に残して、どこに行ってたんだ」
妻は無造作にバッグをソファに投げ出し、腕組みをした。
「仕事よ」
わざとらしく肩をすくめて、視線だけをこちらに寄越す。だが、その目はどこか遠くにあって、俺の顔をまっすぐに見ていない。
妻がSNSでかなりのフォロワーを持ち、ネットでの発信を軸に仕事をしていることは知っている。収入もそれなりにあるようだし、人と会う機会もあるのだろう。だが——このアルコールの匂い、化粧の崩れ、そういった細かな部分が俺の胸にざらりとした嫌な引っ掛かりを残す。
「お前も忙しいんだろうが……何も美咲を一人残していかなくてもいいだろう。こんな時間までお父さんもお母さんもいなくて……美咲がどんなに怖がっていたか、分かるか?」
口調を抑えたつもりだったが、つい語尾が荒くなってしまう。
「私に説教するわけ? いつも夜中過ぎてからしか帰ってこないあなたが、私に何か言えるとでも?」
淡々とした声の奥に、明らかな苛立ちが混じっている。
「頼むから、連絡だけでもくれよ。お前に用事がある日は、俺が早く帰るようにするから。今夜も……あの子、俺の胸で泣きながら寝たんだ」
俺は言葉を選びながら、できるだけ冷静に伝える。
「あの子、お父さんっ子だからねぇ。あなたがずっといれば、それでいいんじゃないの?」
妻は皮肉めいた声で言い、薄く笑った。
「なあ、俺たちはあの子の親なんだ。美咲の泣いてる顔見て、俺も反省したよ。こんなの、普通じゃない。もっと真剣に、家族のこと考えよう」
「普通、普通って……何が普通なのよ。私は家政婦でも保育士でもない。私にだって自由はあるでしょう?」
妻はソファにどかっと腰を下ろし、長い脚を組んだ。
しばらく沈黙が流れる。時計の針の音だけがやけに大きく聞こえる。
「……仕事ばっかりしてたのは悪かった。だけど、家族のことを思ってたんだ。それは信じてほしい」
「家族のこと、ね。あなたはいいわね。そうやって、たまに思い出したように家族、家族って言っていればいいんだから。面倒なことは全部私に押し付けて、可愛い美咲だけ見ていればいいんだもの」
「そんな風に言うのはやめてくれよ。これからは、俺もちゃんと……」
「私には、もう無理なのよ。色々なことが」
そう言って、ふいに妻は冷えた目で俺を見た。
「あなたは私の何なの? もう私のことなんて見てないくせに。今だって、美咲の心配だけ? 私がどんなに寂しかったかなんて、考えてもいないんでしょう? 大事なのは美咲だけで、私のことは空気みたいに扱って……。私は美咲の添え物じゃないのよ」
「そんなこと思ってないよ」
呼びかけても、妻はもう目を合わせてくれない。
「もうこりごりよ。何もかも、全部あなたのせいよ」
そう吐き捨てるように言うと、立ち上がって寝室へと消えていった。
リビングには、アルコールの甘い匂いと、夜明け前の薄い光だけが静かに残っていた。
俺はソファに深く沈み、ただぼんやりと夜が明けていくのを眺めるしかなかった。
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