第14話

月詠堂での穏やかな午後だった。僕は志筑さんに教わりながら、古い万年筆のペン先をルーペで覗き込んでいた。インクがスムーズに出ない原因を探る、ミクロの世界の探検。それは地味だけれど、僕にとっては心躍る時間だった。


カラン、と店の扉が勢いよく開いた。息を切らして飛び込んできたのは、見慣れない一人の高校生だった。制服のシャツを汗で濡らし、その顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。


「すみません! あの、この辺で万年筆、見ませんでしたか!?」


彼はカウンターに駆け寄ると、切羽詰まった声で僕と志筑さんに尋ねた。


「万年筆かい? どんなものか、教えてくれるかな」


志筑さんが落ち着いた声で促す。


「黒くて少し太めの、古い万年筆です。じいちゃんの形見なんです……!」


彼の話によると、その万年筆は建築家だったおじいさんから譲り受けた、大切なものなのだという。今日もそれを使って町の図書館で勉強していたのだが、気づいた時には胸ポケットからなくなっていた。自分の不注意を責めるように、彼は唇をぎゅっと噛みしめている。


その途方に暮れた姿に、僕はかつての自分を重ねていた。大事なものを失ってどうすればいいか分からず、ただ立ち尽くすことしかできなかった、あの頃の自分を。


「僕でよければ、一緒に探すの手伝うよ」


気づけば、僕はそう申し出ていた。


高校生はリョウくん、と名乗った。僕の申し出に、彼は驚いたように顔を上げ、そして深々と頭を下げた。


「ありがとうございます……!」


ちょうどその時、店の奥からそらちゃんとユキちゃんがひょっこりと顔を出した。二人は学校帰りに月詠堂に寄るのが日課になっていた。事情を聞くと、二人は待ってましたとばかりに目を輝かせた。


「大変! じゃあ、私たちも手伝う!」

「月詠堂たんていだん、出動だね!」


こうして、僕たちの急ごしらえの探偵団が結成された。


まずはリョウくんから詳しく話を聞く。彼が今日立ち寄ったのは、図書館とその裏手にある川辺の公園だけだという。


「よし、じゃあ二手に分かれよう。そらちゃんたちは川辺の公園をお願い。僕はリョウくんと図書館に行ってみる」


僕の提案に、みんなが頷いた。


僕とリョウくんが図書館へ向かっていると、足元に黒い影がすり寄ってきた。ホシマルだ。いつの間に店を抜け出してきたのか。彼はまるで最初から探偵団の一員だったかのように、僕たちの後を悠然とついてくる。


町の図書館は、こぢんまりとした静かな場所だった。カウンターに座っていたのは、白髪の優しそうな女性の司書さんだ。僕たちは事情を話して、リョウくんが座っていた席の周りを調べさせてもらった。だが、万年筆は見当たらない。


「困ったな……」


僕が呟くと、リョウくんの顔がまた曇っていく。


その時だった。それまで静かに様子を窺っていたホシマルが、すっと動き出した。彼は返却された本が積まれたワゴンのところまで行くと、その中の一冊の本の上にひらりと飛び乗ったのだ。そして前足で、その本をとん、と軽く叩いた。


「こら、ホシマル。本の上に乗ってはいけませんよ」


司書さんが優しく注意する。でも、僕は何かを感じてその本を手に取った。それは、リョウくんが借りていた建築に関する分厚い専門書だった。


パラパラとページをめくっていく。すると、あるページの間に何か固いものが挟まっているのを見つけた。ゆっくりと本を開く。


「……あった!」


リョウくんが叫んだ。そこには栞代わりに挟まれた、黒くて少し太めの万年筆が静かに光っていた。リョウくんがうっかり本と一緒に返却してしまっていたのだ。


「よかった……! 本当によかった……!」


リョウくんは万年筆を大切そうに両手で包み込むと、その場にへなへなと座り込んでしまった。その瞳には涙が浮かんでいる。僕はその肩をぽんと叩いた。


ホシマルはといえば、もう役目は済んだとばかりに僕の足元で満足そうに喉を鳴らしている。本当に、不思議な猫だ。


月詠堂に戻ると、そらちゃんたちもちょうど帰ってきたところだった。万年筆が見つかったと知って、二人は自分のことのように喜んでくれた。


リョウくんは僕たち一人一人に、何度も何度もお礼を言ってくれた。


「あの、もしよかったら見てくれませんか」


少し落ち着いたリョウくんが、カバンの中から一冊のスケッチブックを取り出した。中には、鉛筆で描かれたたくさんの建物の絵がぎっしりと詰まっていた。どれも独創的で、夢のあるデザインばかりだ。


「僕、将来じいちゃんみたいな建築家になりたいんです。このペンは、じいちゃんが初めて設計図を描いた時に使っていたもので……。だから僕にとって、お守りみたいなものなんです」


彼は少し照れながら、そう話してくれた。スケッチブックを持つその手は、未来を創り出すクリエイターの手だった。僕は彼の中に、かつて夢中で小説を書いていた頃の自分自身の姿を見た気がした。


この町には色々な人がいる。言葉を紡ぐ人、文字を描く人、絵手紙を描く人。そして、建物の夢を描く人。表現する方法は違えど、みんな何かを創り出すことで世界と繋がろうとしている。


月詠堂は、そんな人たちが自然と集まってくる港のような場所なのかもしれない。


すっかり僕たちと打ち解けたリョウくんは、それから月詠堂の常連になった。僕たちの「手紙の会」ならぬ「何かを創る人の会」に、また一人新しい仲間が加わった。


僕のノートには、その日の出来事がこう記された。


『迷子の万年筆が見つかった日。一人の未来の建築家と、一匹の名探偵に出会った』


その文字は、いつもよりも少しだけ誇らしげに輝いて見えた。

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