第13話

僕の新しいノートは、僕だけの小さな海になっていた。

『星屑の書簡』インクで書かれた、僕を支えてくれる人たちの名前。その次のページから、僕は新しい試みを始めていた。


それは物語ではなかった。小説家として再起しようなどという、大げさなものでもない。ただの言葉によるスケッチ。この海辺の町で僕が見つけたささやかな宝物を、言葉で描き留めておくだけの気ままな練習だった。


『朝、アパートの窓を開けると、潮の香りと一緒に隣の家の味噌汁の匂いが飛び込んでくる。それは、僕が失っていた日常という名の、温かい香りだ』


『月詠堂のガラスの引き戸。そこに反射する午後の光はまるで水面のきらめきのようで、ドアを開けるたびに僕は、違う世界に足を踏み入れるような気持ちになる』


そんなとりとめのない文章を、僕は毎日ノートに書きつけた。


僕の相棒になった万年筆は、驚くほど僕の手に馴染んでいた。ペン先が紙の上を滑る感触が、思考を滑らかにしてくれる。『曇り空の海』インクは、僕の静かな心の風景を見事に映し出してくれた。


その日、僕は初めてノートをアパートの外に持ち出していた。防波堤の上に腰掛けて、目の前に広がる夏の海を眺める。今日は空がどこまでも青く、海もそれに負けないくらい力強い青色をしていた。


僕はノートを開き、その青を言葉で捕まえようと試みた。


『夏の海の青は一色ではない。手前は、太陽の光を吸い込んで輝くようなターコイズ。沖にいくにつれて、それは深い藍色へと姿を変える。白い波のレースが、その二つの青の境界線を飾っている』


我ながら気障な文章だな、と少し笑ってしまう。でも、楽しかった。言葉のパズルを一つ一つはめていくような感覚。これが、僕のやりたかったことなのかもしれない。


「あーっ!海斗さん、見つけた!」


突然、元気な声がして僕のスケッチの時間は中断された。そらちゃんとユキちゃんが、砂浜をこちらへ駆けてくる。二人とも、すっかりこの町の子供の顔になっていた。


「また何か書いてるの? 見せて見せて!」


そらちゃんは僕の隣にぴょんと飛び乗ると、遠慮なくノートを覗き込んだ。僕は慌ててノートを隠そうとしたが、もう遅い。


「うわあ……」


僕の書いた文章を読んだそらちゃんが、感心したような声を上げる。


「なんだか詩みたい。海の絵が、頭の中に浮かんでくるよ」


「本当だ……。こっちの月詠堂のところも、好き」


ユキちゃんも僕のノートを静かに読んで、そう言ってくれた。


「光がきらきらしてるのが、分かる」


二人のその真っ直гуな感想に、僕の胸はじんと熱くなった。僕の言葉が、僕以外の誰かにちゃんと景色を見せることができた。辛辣な書評でも、売上部数でもない。この目の前にある、二人の子供の素直な感動。それこそが、僕が本当に欲しかったものなのかもしれない。


僕は照れくさくて何も言えずに、ただ水平線を眺めていた。


その週末、僕が月詠堂で店番の手伝いをしていると、香月先生が顔を出した。先生は、僕がカウンターの隅でノートを広げているのに気づくと、「あら、熱心ですこと」と優雅に微笑んだ。


「海斗さん、あなたのそのノート、少し見せていただいてもよろしくて?」


僕は少し戸惑いながらも、先生にノートを差し出した。先生は、僕が書きつけた言葉のスケッチを一枚一枚、ゆっくりと丁寧に読んでいく。その真剣な眼差しに、僕はなんだかテストの結果を待つ生徒のような気分だった。


「素晴らしいわ」


読み終えた先生が、顔を上げて言った。


「あなたはとても、よく見ていらっしゃるのね。物の形だけでなく、そこに流れる空気や光や匂いまで。あなたの言葉は絵だわ。言葉で描かれた、繊細なスケッチよ」


最高の褒め言葉だった。僕は、顔が熱くなるのを感じた。


「あのね、海斗さん」


先生は悪戯っぽく、僕に片目をつぶって見せた。


「言葉で絵を描けるなら、絵で言葉を語ることもきっとできますわ。絵と文はもともと、一つ屋根の下に暮らす兄弟のようなものですから」


「絵、ですか……」


「ええ。難しく考えることはありませんの。あなたが浜辺で拾った、貝殻一つ。それをノートの隅に描いてみる。言葉の隣にそれを置いてあげる。きっと、あなたのノートの世界がもっと豊かになりますわよ」


香月先生の言葉は、僕の中に新しい扉を作った。絵なんて、小学校の写生の授業以来まともに描いたこともない。僕にそんな才能があるはずもない。でも、なぜか心惹かれている自分がいた。言葉だけではどうしてもすくい上げられないもの。それを、線で、形で、捕まえることができるのなら。


その日の帰り道、僕はいつもは通り過ぎるだけの浜辺に降りてみた。波打ち際に、たくさんの貝殻や丸くなったガラスのかけらが打ち上げられている。僕はその中から、一つだけ、手のひらに収まるくらいの小さな巻貝を拾い上げた。白地に淡い紫色の筋が入った、美しい貝だった。


アパートに帰り、僕はノートと万年筆と、そして拾ってきた貝殻を机の上に並べた。じっと貝殻の形を見つめる。螺旋を描く、完璧な造形。自然が作り出した、小さな芸術品。


僕はノートの新しいページに、まず言葉を書いた。


『てのひらの海の迷宮』


そして、その言葉の隣に万年筆のペン先をそっと下ろす。


絵を描く。その慣れない行為に、僕の指は少し震えた。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。ただ、目の前にある美しいものを自分の手で写し取りたい。その純粋な衝動に身を任せた。


線は歪んでいた。形も不格好だった。それでも僕は夢中でペンを走らせた。言葉を紡ぐのとはまた違う集中力。そして、描き終えた時、そこにはお世辞にも上手いとは言えないけれど、確かにあの巻貝の絵が生まれていた。


僕は自分の書いた言葉と描いた絵を、並べて眺めた。言葉が絵に物語を与え、絵が言葉に形を与えている。香月先生の言った通りだった。二つは兄弟のようだ。


僕のノートの世界が、ほんの少しだけ広がった瞬間だった。


僕はその小さな成功を、誰に言うでもなく一人静かに祝った。窓の外からは心地よい潮風が、僕の新しい挑戦を優しく撫でていくようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る