第7話

アパートの廊下に僕は立ち尽くしていた。

手の中にあるのは一通の封筒。

僕が逃げ出した世界から届いた、過去からの手紙だ。


心臓が嫌な音を立てて脈を打つ。

指先が冷たい。

さっきまで月詠堂で感じていた温かいものが、急速に色を失っていくのが分かった。

香月先生の優しい笑顔も、ほうじ茶の香ばしい香りも今はもう遠い。


目の前にあるのは、僕の失敗と挫折の象徴である出版社のロゴ。

それだけが、やけに鮮明な現実だった。


開けられない。

開けてしまえば、僕がこの海辺の町でかき集めたささやかな心の平穏が、粉々に砕け散ってしまう気がした。


中には何が書かれている?

『君には才能がなかった』という、最後通告か。

返送された在庫の、最終的な処分に関する事務連絡か。

どちらにしても、僕を深く傷つけるものに違いなかった。


いっそ、このまま捨ててしまおうか。

見なかったことにし破り捨てて、海の底にでも沈めてしまえば、僕はまた明日から何も知らない顔で生きていける。

「手紙の先生」として子供たちの小さな悩みに耳を傾け、月詠堂の静かな時間の中に、自分の居場所を見つけることができる。


それでいいじゃないか。

過去なんて、振り返る必要はない。


そう思った。

手が封筒を握りつぶそうとした、その瞬間だった。

僕の脳裏に、そらちゃんの満面の笑みが浮かんだ。


『海斗さん、ありがとう!』

そう言って僕の袖を握った、小さな手の温もり。

親友への手紙を書けずに泣いていた、ユキちゃんの震える肩。

夕凪色のインクを見つけた時の、驚きと希望に満ちた瞳。


彼女たちは自分の弱さや不安と向き合って、言葉を紡ごうとしていた。

僕はそんな彼女たちの背中を、ほんの少しだけ押してやったに過ぎない。

それなのに当の僕が、自分自身の過去から目をそらしてどうするんだ。

言葉を紡ぐ手伝いをすると言いながら、自分に向けられた言葉から逃げてどうする。


「……格好悪いな、俺も」


自嘲の呟きが、静かな廊下に落ちた。

そうだ、逃げてばかりではいられない。

たとえそこにどんな残酷な言葉が書かれていたとしても、それを受け止めることから始めなければ。


今の僕には、一人じゃない。

僕には月詠堂という帰る場所がある。


僕は踵を返し、再び夜の道を歩き出した。

自分の部屋で一人でこれを開ける勇気はなかった。

でも、あの場所でなら。

あの優しい店主と、不思議な猫が見守る空間でならきっと大丈夫なはずだ。


月詠堂の前にたどり着くと、店の中にはまだ明かりが灯っていた。

もう閉店時間は過ぎているはずなのに。

僕は、吸い寄せられるようにガラスの引き戸に手をかけた。


カラン、と今日何度目かに聞く鈴の音が、僕の訪問を告げる。


「……いらっしゃい」


カウンターの奥で片付けをしていた志筑さんが、僕の姿を認めると驚いた顔もせず、ただ静かにそう言った。

まるで僕がこの時間に来ることを、知っていたかのような口ぶりだった。


「すみません、もう閉まって……」


「いいんだよ。少し、夜風が気持ちよくてね」


彼はそう言って、僕を手招きする。

カウンターの下のビロードの座布団ではホシマルが丸くなっていたが、僕の気配に気づくとゆっくりと顔を上げた。

青と金の瞳が、じっと僕の心の中を見透かすようにこちらを見つめている。


僕は、無言のままカウンターの椅子に腰掛け、震える手で例の封筒をテーブルの上に置いた。

志筑さんは何も聞かない。

ただ僕が口を開くのを、静かに待ってくれている。

その沈黙が僕の強張った心を、少しずつ解きほぐしていく。


「東京の……僕が昔、小説を出した出版社から手紙が」


やっとの思いで、僕はそれだけを口にした。


「開けるのが、怖くて」


志筑さんは、ゆっくりと頷いた。

そしてカウンターの棚から、一つの道具を取り出した。

それは銀色の柄がついた、美しいペーパーナイフだった。

刃の部分には、繊細な蔦の模様が彫られている。


「これは開けるのが怖い手紙を開けるための、おまじないだ。手紙の封は、誰かにとっては世界を分ける境界線だからね。それを越える時には相応の覚悟と、ほんの少しの勇気をくれる道具がいる」


彼はそのペーパーナイフを、僕の前にそっと置いた。

僕は、それを手に取った。

ひんやりとした金属の感触が、不思議と僕を落ち着かせる。


そうだ、覚悟を決めよう。

僕は封筒の端に、ナイフの刃をゆっくりと差し込んだ。

スッ、と綺麗な音を立てて封が開く。

僕は深呼吸を一つして、中から折り畳まれた便箋を取り出した。


手が震えて、文字がうまく読めない。

僕は一度目を閉じてから、ゆっくりとその手紙に視線を落とした。


『海斗先生、ご無沙汰しております。元担当の田中です』


それは僕が最も恐れていた辛辣な言葉とは全く違う、丁寧な書き出しで始まっていた。


『突然の手紙、失礼いたします。先生が東京を離れられたと聞き、筆を執りました。実家のご住所に送らせていただいたので、無事に届いているか分かりませんが……。

まずお伝えしたいのは、私は先月、玄光社を退職したということです。今は旧知の先輩が立ち上げた、小さな出版社で働いています。

そしてこれは言い訳に聞こえるかもしれませんが、先生のデビュー作について、私はもっとやれることがあったのではないかとずっと後悔していました。会社の都合や販売戦略の中で、先生の作品が持つ本来の輝きを読者に届けきれなかった。それは担当編集者としての私の力不足です。本当に、申し訳ありませんでした。

退職のご挨拶もできず心苦しく思っていましたが、先日、偶然にも先生のデビュー作を「私の人生の一冊です」と語る読者の方にお会いする機会がありました。その方は先生の紡いだ言葉に、深く救われたのだと涙ながらに話していました。

その時私は、先生にもう一度ご連絡しなければならないと思ったのです。

先生の言葉は決して無駄ではなかった。届くべき場所に、確かに届いていたのだと。

もしこの手紙を読んで、不快な気持ちにさせてしまったら申し訳ありません。返信は、全く必要ありません。

ただ、もし、いつかまた何かを書きたいと思う日が来たら。あるいは、ただ誰かと話したいと思う時があったら。思い出していただけると、幸いです。

季節の変わり目、どうかご自愛ください。

追伸。私も海辺の町の出身です。あの潮の香りが、時々無性に恋しくなります』


手紙を読み終えた時、僕の頬に温かいものが伝っていた。

涙だった。

でもそれは悲しみや、悔しさの涙ではなかった。

僕が怪物だと思っていたものは、そこにはいなかった。

いたのは僕と同じように後悔し、僕の作品を愛し、僕のことを気にかけてくれる一人の人間だった。


僕の言葉は、無駄じゃなかった。

たった一人でも、僕の言葉で救われた人がいた。

その事実が僕の凍りついた心を、ゆっくりと溶かしていく。


「……よかったじゃないか」


志筑さんが、いつの間にか用意してくれていた温かいお茶を、僕の前に差し出しながら言った。


僕は何度も頷きながら、涙を拭った。


「はい……はい……」


ホシマルの不思議な瞳が、優しく僕を見守っている。

この店に来て、よかった。

この手紙をここで開けて、本当によかった。


僕はまだ、返事を書ける自信はない。

田中さんにどんな顔をして、どんな言葉をかければいいのか分からない。

けれど僕の心の中の、分厚い氷の壁は確かに一枚、剥がれ落ちた。


夜空には、美しい半月が浮かんでいた。

それはまるで、これから満ちていくことを約束するかのように静かに、優しくこの海辺の町を照らしていた。

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