第6話

ユキちゃんの手紙作りは、僕の予想以上に順調に進んだ。

いや、「手紙作り」というよりは、「夕焼けの再現」と呼ぶ方が正しかったかもしれない。

僕たちは公園のベンチをアトリエにして、買ってきた便箋に、夕凪のインクで何度も何度も空を描いた。


「最初はもっとオレンジが強いんだよ。太陽が沈むところだけ、ぎゅーって感じで」

「だんだん紫が混ざってきて、一番上の空は、もう夜の色になってるの」


ユキちゃんは、記憶の中のパレットを広げるように、生き生きとあの日の空の色を語ってくれた。

言葉で気持ちを語るのは苦手でも、二人で見た大切な景色のことは、昨日のことのように鮮明に覚えているらしかった。

僕がガラスペンの使い方を教え、彼女がインクの濃淡を調整する。

その共同作業は、まるで失われた時間を取り戻す儀式のようだった。


数日かけて、僕たちは何枚もの「夕焼けの便箋」を作った。

その中から、ユキちゃんが「これだ」という最高の一枚を選び、そして、その余白に、たった一言だけ、言葉を添えた。


『ミオちゃんへ。また一緒に、この空を見たいな。 ユキより』


謝罪でも、言い訳でもない。

ただ、純粋な願い。

でも、その一言には、彼女の全ての気持ちが込められているように思えた。

僕たちはその手紙を丁寧に封筒に入れ、週末、三人で一緒にポストに投函した。

カタン、という音を聞きながら、ユキちゃんが「届くといいな」と呟く。

その横顔は、僕が最初に出会った時とは比べ物にならないほど、晴れやかだった。


この一件以来、僕の周りでは奇妙な変化が起こり始めていた。

そらちゃんとユキちゃんの間で、僕はすっかり「手紙の先生」ということになってしまったらしい。

二人がクラスの友達に僕のことを話したのか、放課後の公園のベンチには、時々、小さな依頼人が訪れるようになったのだ。


「あの、海斗さん……ですか? 飼育委員のことで喧嘩しちゃった友達に、謝る手紙を書きたいんですけど……」

「転校しちゃう好きな子がいるんだ。最後に渡したいんだけど、なんて書けば……」


依頼はどれも、子供たちの日常にある、ささやかで、でも本人たちにとっては世界の全てであるような、切実な悩みばかりだった。

僕は戸惑いながらも、一つ一つの想いに耳を傾けた。

月詠堂で仕入れた知識を総動員し、「謝るなら、誠実さが伝わる、少し硬めの紙がいいかもね」「好きな子なら、その子のイメージカラーのインクを使ってみるのはどうかな」なんて、我ながら気障なアドバイスをしたりもした。


僕が小説家だったことを知る者は、誰もいない。

彼らにとって僕は、ただの「文房具に詳しい、手紙の相談に乗ってくれるお兄さん」だった。

その肩書きが、今の僕には心地よかった。

書けない小説家の海斗ではなく、誰かの言葉をそっと後押しする、名もなき裏方。

それは、僕がずっと心のどこかで求めていた役割なのかもしれなかった。


そんな日々を送るうち、僕は月詠堂に入り浸る時間も自然と長くなっていた。

もはや、ただの客ではない。

志筑さんやホシマルにとっては、毎日顔を出す、図々しい居候のようなものだろう。


その日も、僕はカウンターの隅の椅子を借りて、子供たちの相談に乗るための「ネタ帳」を作っていた。

どんな便箋がどんな印象を与えるか、インクの色が持つ意味は何か。

志筑さんに教わったことを、忘れないように書き留めているのだ。

僕が使っているのはもちろん、月詠堂で買ったシンプルなガラスペンと、試し書きで気に入った深い緑色のインクだ。


「熱心だねえ。まるで研究者だ」

カウンターの中から、志筑さんが感心したように声をかけてきた。


「いえ、ただの自己満足です。受け売りですし」


「それでも、君の言葉を待っている子たちがいるんだろう? それは立派なことだよ」

志筑さんはそう言うと、一杯のほうじ茶を僕の前に置いてくれた。

その湯気と香ばしい香りに、心が和らぐ。


「そういえば、近々、面白いお客さんが来るよ。君も会ってみるといい」


「面白いお客さん、ですか?」


「ああ。月に一度、この店で『手紙の会』というのをやっていてね。まあ、常連客が集まって、お互いに書いた手紙や絵手紙を見せ合ったり、新しい文房具の情報を交換したりするだけの、ささやかな集まりなんだが」

その会の主催者が、もうすぐ顔を出すはずだ、と志筑さんは言った。

どんな人が来るのだろうか。

僕が少し緊張していると、カラン、と店のドアが開いた。


入ってきたのは、上品なツイードのジャケットを着こなした、白髪の美しい老婦人だった。

胸元には、繊細な細工のブローチが輝いている。

一目で、育ちの良さを感じさせるその人は、僕の姿を認めると、優雅に微笑んだ。


「あら、志筑さん。新しいお弟子さん?」


「ははは、とんでもない。海斗さん、こちらは香月(かづき)先生。この辺りでカリグラフィー教室を開いていらっしゃる、手書き文字の達人だ。香月先生、こちらはこの町に越してきたばかりの、海斗さん」

香月先生と呼ばれた老婦人は、「先生だなんて、やめてちょうだい」と笑いながら、僕に軽く会釈をした。

その洗練された佇まいに、僕は恐縮して立ち上がり、深々と頭を下げる。


「香月先生は、この店の誰よりもインクに詳しい。特に、匂い付きのインクがお好きでね」

志筑さんの言葉に、香月先生は「まあ」と悪戯っぽく微笑み、持っていた革の鞄から、何枚かの便箋を取り出して見せてくれた。

便箋には、まるで印刷されたかのように美しい、流麗なアルファベットが綴られている。

これが、カリグラフィーというものか。


「嗅いでごらんなさい」

促されるまま、僕は便箋にそっと顔を近づけた。

すると、インクが乾いた文字から、ふわりと薔薇の香りが立ち上ったのだ。


「すごい……文字から、花の香りが……」


「これは、フランス製のインクなの。薔薇の他にも、ラベンダーや、スミレの香りもあるのよ。手紙を受け取った人が、封を開けた瞬間に、どんな気持ちになるか。それを想像しながらインクを選ぶのが、私の楽しみなの」


書くことの、もう一つの楽しみ方。

僕はまた一つ、新しい世界を知った気がした。

香月先生は、僕が熱心にメモを取っているのを見て、「あなたも、書くことが好きなのね」と嬉しそうに言った。

僕が言葉に詰まると、志筑さんが「彼は、子供たちのために、手紙の書き方を教えているんですよ」と助け舟を出してくれた。


「まあ、素敵!じゃあ、今度私の教室にもいらっしゃいな。きっと、子供たちが喜ぶような、面白い書き方を教えてあげられるわ」

その思いがけない誘いに、僕はただ頷くことしかできなかった。

小説家として挫折した僕が、文字の達人に認められた。

その事実が、じんわりと胸に広がっていく。


香月先生と志筑さんと、三人で文房具談義に花を咲かせていると、あっという間に夕暮れ時になった。

先生に丁重にお礼を言い、僕は月詠堂を後にした。

心が、ぽかぽかと温かい。

この町に来てよかった。

心の底から、そう思った。


すっかり暗くなった道を歩き、自分のアパートに戻る。

階段を上り、郵便受けを覗くと、一通の封筒が入っていた。

見慣れないものではない。

むしろ、見覚えがありすぎる、白くて無機質なビジネス封筒。

左上には、僕が逃げ出してきた場所の名前が印刷されている。


『株式会社 玄光社』


僕の唯一の小説を出版した、あの出版社の名前だった。

封筒を持つ手が、微かに震える。

心臓が、嫌な音を立てて脈打ち始めた。

なぜ、今になって。

僕が住所を教えた覚えはない。

おそらく、実家に連絡が行き、そこから転送されてきたのだろう。


温かかったはずの心が一気に冷えていくのを感じた。

ポケットの中では、子供たちとの約束事を書いたネタ帳が、急に重たい石のように感じられる。

封筒の裏には、見覚えのある筆跡で、元担当編集者の名前が書かれていた。


開けるのが、怖かった。

中には、何が書かれているのだろう。

『在庫の処分について』という事務的な連絡か。

あるいは、僕の才能のなさを改めて突きつけるような、残酷な言葉か。


僕は、過去からの手紙を握りしめたまま、部屋のドアの前で立ち尽くした。

月詠堂で過ごした穏やかな時間も、子供たちの笑顔も、香月先生の優しい言葉も、全てが遠い世界の出来事のように思える。


『そらちゃんへ』と書かれた、あの宛名のない手紙を拾った日から、僕の世界は静かに動き出したはずだった。

だが今、目の前にあるこの一通の手紙は、僕を再び、あの六畳一間の、息の詰まる世界に引き戻そうとしている。


アパートの廊下の冷たい空気が、僕の首筋を撫でた。

遠くから、公園で遊ぶそらちゃんたちの声が、微かに聞こえてくるような気がした。

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