第6話

扉を開けた瞬間、覚悟していた以上の轟音が私の全身を殴りつけた。狭い空間に反響するギターのフィードバックノイズ、フロアタムを連打するドラムの振動、何人ものスタッフが怒鳴り合うように交わす会話。


それら全ての音が一切の意味を剥ぎ取られ、ただただ暴力的な音圧の塊となって私の鼓膜と脳を直接揺さぶる。世界がぐにゃりと歪んだ。目眩と激しい吐き気に襲われ、立っていることさえままならない。


「やっぱり、無理だったんだ……」


後悔の念が、絶望と共に押し寄せてくる。すぐにでもこの場から逃げ出したい。あの静かな『月影レコード』の、優しい珈琲の香りが恋しくてたまらない。


けれど私の足は、まるで床に縫い付けられたように動かなかった。ここで逃げたらもう二度と、蓮さんの曲と向き合う資格はない。そんな気がしたのだ。


私はなんとか壁伝いに移動し、会場の一番後ろの隅に身を潜めるようにして寄りかかった。ステージの上ではバンドメンバーが最後の音合わせをしている。その中心に、彼女はいた。


HINAこと、小野寺陽菜さん。黒いシンプルなドレスを身に纏い、一本のマイクの前に立つ彼女はひどく張り詰めたオーラを放っていた。


やがて客電が落ち、割れるような拍手と歓声が湧き上がる。その音もまた、私の頭の中ではガラスの破片がぶつかり合うような、耳障りなノイズでしかない。スポットライトがステージ上の陽菜さんを白く照らし出した。


アップテンポなロックナンバーだった。激しいビートと歪んだギターサウンド。陽菜さんはその音の洪水に負けない、力強い声で歌っている。


けれど私の耳には、その歌声も歌詞もメロディもまったく届かなかった。他の楽器の音と混じり合い、輪郭を失い、ただの騒音の一部としてしか認識できないのだ。周りの観客たちの楽しそうな光景が、まるで自分だけが取り残された異世界の出来事のように見えた。


蓮さんが愛した人の歌声。その声を、私は聴くことができない。

蓮さんが愛した人の音楽。その心を、私は感じることができない。


その事実が、ナイフのように突き刺さる。私はなんて無力なのだろう。サウンドエンジニアだったなんて、音の建築家だったなんて、今となっては滑稽な冗談にしか思えない。


二曲、三曲とライブは進んでいく。私はただ壁に寄りかかり、ノイズの嵐が過ぎ去るのをじっと耐えているだけだった。もう帰ろう、これ以上ここにいても意味はない。私がそう決意し、重い腰を上げようとした、その時だった。


バンドの演奏がぴたりと止み、会場が静寂に包まれた。そして陽菜さんが、マイクを通して静かに語り始めた。


「……次が、最後の曲になります」

観客から残念がる声が漏れる。「これは……昔、作った曲です。私の、とても大切な……友人に、本当は聴かせたかった曲です」


その言葉だけが、不思議だった。嵐のようなノイズの合間を縫って、まるで耳元で囁かれたかのようにクリアに私の心に届いたのだ。彼女の声に含まれた微かな震えと、深い後悔の念。私は確かにそれを「聴いた」。


そして始まった。それは今までとはまったく違う、静かな、静かなバラードだった。ステージにはキーボード奏者と陽菜さんだけが残っている。柔らかく優しいピアノの伴奏が、そっと流れ出す。


その、瞬間だった。

信じられないことが、起こった。


私の頭の中に、直接もう一つの「音」が流れ込んできたのだ。それは陽菜さんの歌声でも、ステージ上のピアノの音でもない。聴き間違えるはずもなかった。

あの月影レコードで、私だけに聴こえていた蓮さんのピアノの音だった。


ぽろん、と。澄み切っていてどこまでも透明で、そして信じられないほど悲しい音色。蓮さんのピアノは、陽菜さんの歌声にそっと寄り添うように現れた。


彼女が歌うメロディの隙間を埋めるように、美しい対旋律を奏で始める。それはまるで時空を超えた、奇跡のセッションだった。陽菜さんの歌が問いかけると蓮さんのピアノが答える。


このライブハウスの、他の誰にも聴こえていない。私だけが聴いている二人だけのデュエット。私は息を飲むのも忘れて、その音の対話に聴き入っていた。


そして蓮さんのピアノの音を道標にすることで、私は初めて陽菜さんの歌の「心」を理解することができた。ノイズの壁に閉ざされていた彼女の歌声が、蓮さんのピアノという翻訳機を通して私の魂に直接届いてきたのだ。


彼女の歌は、懺悔の歌だった。蓮さんのもとを去ったことへの深い後悔、彼の才能に嫉妬してしまった自分の弱さへの痛切な謝罪。そして一人になってからも、ずっと彼を想い続けていたという変わらない愛情。


『あなたのいない世界で 私はメロディを探すけど』

『どんな光を浴びても 心はあなたの影の中』


涙が、頬を止めどなく流れていた。それは蓮さんと陽菜さん、二人のすれ違ってしまった想いへの涙だった。そして何よりも、再び「音楽」に、その心に触れることができた、自分自身の感動の涙でもあった。


曲が終わり、会場は万雷の拍手に包まれた。けれど私にはもう、その拍手はノイズには聴こえなかった。一つ一つの拍手が、陽菜さんの歌への賞賛と感動の音として温かく響いていた。


放心状態のまま、私は人波に押されるようにして会場の外に出た。頭の中ではまだ、蓮さんと陽菜さんのデュエットが美しく鳴り響いている。これで、わかった。


蓮さんのあの未完成の曲は、陽菜さんへの返歌(アンサーソング)だったのだ。そしてその曲を完成させるためには、陽菜さんのこの歌が、彼女の心が絶対に必要なのだと。パズルの最後のピースは、彼女が持っていた。


私はどうすれば彼女に接触できるだろうか。この感動と蓮さんの想いを、一刻も早く彼女に伝えなければならない。しかし「死んだあなたの恋人のピアノが聴こえるんです」なんて、言えるはずがない。


焦りと興奮で混乱する頭のまま、私は雑踏の中に立ち尽くしていた。その時ふと視線の先に、ライブハウスの裏口から一人で出てくる黒いドレスの女性の姿が見えた。陽菜さんだった。


彼女は誰かを待つでもなく、ただ夜空を、そこに浮かぶぼんやりとした月をじっと見上げていた。その横顔はひどく寂しそうで、まるで世界にたった一人で取り残されてしまったかのようだった。


私の心臓が、大きく高く鳴った。これは偶然じゃない、蓮さんが引き合わせてくれたのかもしれない。私は震える足に全ての意志を込めて、彼女の方へと一歩を踏み出した。

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