第5話
田所さんの沈黙は、長くは続かなかった。けれどその僅かな間に店の空気は張り詰め、珈琲の香ばしい匂いさえもどこか遠のいてしまったように感じられた。
彼が再び顔を上げた時、その目には深い哀惜と何かを懐かしむような複雑な色が浮かんでいた。それは私が今まで見たことのない、彼の内面の深い部分に触れてしまったことを示していた。
「……いましたよ」
やがて彼は重い口を開いた。その声はいつにも増して低く、静かだった。
「彼が心を尽くして愛した女性が。そして……彼を、深く傷つけた女性が」
田所さんは、カウンターの椅子を一つ私のために引いてくれた。「まあ、お座りなさい」という無言の促しだった。私はおずおずと、その飴色の木のスツールに腰を下ろす。
目の前で、田所さんは新しい珈琲を淹れ始めていた。豆を挽く音、湯気の立つ音。それらの生活音が、張り詰めた空気を少しだけ和らげてくれる。
「彼女の名前は、小野寺陽菜(おのでらひな)さん。……蓮くんと同じ音楽大学に通っていた、才能豊かなシンガーソングライターでした」
田所さんは、遠い昔を思い出すようにゆっくりと語り始めた。彼の言葉の一つ一つが、蓮さんの生きた時間の断片を私の目の前に描き出していくようだった。
彼が語る蓮さんと陽菜さんの物語は、まるで使い古された映画のようでありながら、痛々しいほどのリアリティを持っていた。二人は同じ講義で隣り合わせたことをきっかけに、急速に惹かれ合ったらしい。
蓮さんの作る繊細で構築的なメロディと、陽菜さんの放つ天性のきらめきを持った歌声。二人はお互いの才能に深く共鳴し、嫉妬し、そして誰よりも深く愛し合った。彼らは音楽における最高のパートナーであり、かけがえのない恋人同士だったのだという。
「あの頃の蓮くんは、本当に輝いていました。彼の作る曲も、どこか希望に満ちていてね」
田所さんは言う。「二人で一つの曲を作っては、この店で私にだけ聴かせてくれたものです。あのカウンターの隅の写真も、ちょうどその頃に撮ったものですよ」
田所さんの視線の先を追うと、改めてあの写真立てに目が留まる。優しそうに笑う若い蓮さん。私は今まで、彼のこの笑顔の理由を考えたことすらなかった。
あの笑顔は、彼一人だけのものではなかったのだ。レンズの向こう側には彼が愛した陽菜さんがいて、二人の間には幸せな時間が流れていた。その事実に気づいた途端、写真の中の彼の笑顔が以前よりもずっと切なく、儚いものに見えてきた。
「じゃあ、どうして……」
「メジャーデビューですよ」
田所さんは私の問いを遮るように言った。その声には、僅かな苦々しさが混じっていた。
「ある大手レコード会社が、陽菜さんの才能に目をつけた。けれど彼らが契約の条件として求めたのは、陽菜さん一人だけだったんです」
陽菜さんはその話を受けるかどうか、ひどく悩んだという。蓮さんは彼女の夢を応援したい気持ちと、自分だけが置き去りにされることへの恐怖の間で心が引き裂かれそうになっていた。そして長い葛藤の末に、陽菜さんは一つの決断を下した。
「彼女は、蓮くんの前から何も言わずに姿を消したんです。一通の短い置き手紙だけを残してね」
田所さんの言葉が、鋭い刃のように私の胸に突き刺さった。「『ごめんね。私は、一人で行く』と。……それが、二人の最後でした」
蓮さんの音楽にずっと通底していた、あの深い喪失感と孤独。その正体が今、はっきりと形になった。彼は音楽という夢を共有した最も愛する人に、ある日突然、世界の片隅に置き去りにされてしまったのだ。
「それからの蓮くんは……見ていられなかった。音楽を辞めようとさえしていました」
田所さんは続ける。「私が何とか引き留めて、この店で曲作りを続けるようには言ったんですが……。彼の作る曲から、光が消えてしまったんです」
「彼が事故に遭う直前まで作っていたあの未完成の曲も、おそらくは……陽菜さんに向けた、届くことのない手紙のようなものだったんでしょう」
私は言葉を失っていた。蓮さんの抱えていた痛みが、自分のことのように感じられる。音の世界から突然突き放された私と、愛する人から突然突き放された彼。その根底にある絶望と孤独は、きっと同じ色をしていたはずだ。
「陽菜さんは……今、どうしているんですか?」
私はか細い声で尋ねた。彼女を憎む気持ちと、彼女の気持ちを知りたいという気持ちがない交ぜになっていた。
「今も、歌ってはいるようですよ」
田所さんはカウンターの引き出しから、一枚のライブのフライヤーを取り出した。「HINA」というアーティスト名。そこに写っていたのは、写真立てで見た女性よりもずっと大人びて、どこか物憂げな表情を浮かべた女性だった。
「大きなレコード会社との契約は、結局うまくいかなかったようです。今はインディーズで、ああして小さなライブハウスを回りながら自分の音楽を続けている」
田所さんは言った。「……彼女もまた、自分の選択によって何かを失ってしまったのかもしれませんね」
このフライヤーに書かれたライブハウスの名前と日付が、私にとっての唯一の手がかりだった。来週の金曜日、都内の小さなライブハウス。彼女に会わなければならない。
彼女に会って話を聞かなければ、蓮さんの曲は永遠に完成しない。蓮さんの心残りは未完の曲そのものではなく、陽菜さんとの間に横たわる途切れてしまった対話。それこそが、彼の魂をこの場所に縛り付けている本当の理由なのではないだろうか。
決意を固めた私に、しかし現実という名の巨大な壁が立ちはだかる。音楽ライブ。それは今の私にとって、最も過酷な環境の一つだった。
たくさんの人間の話し声、割れるような拍手、そして大音量で鳴り響くバンドの演奏。そのすべてが意味を持たない暴力的なノイズの洪水となって、私に襲いかかってくることは想像に難くない。そんな場所で、私はHINAこと陽菜さんの歌を、きちんと聴き分けることができるのだろうか。
不安が、黒い霧のように心を覆い尽くしていく。カフェ『月影レコード』の静寂だけが、私の唯一の避難場所だった。そこから一歩踏み出してノイズの渦の中に飛び込んでいくのは、清水の舞台から飛び降りるような行為に等しかった。
ライブ当日までの一週間、私はまるで死刑執行を待つ囚人のような気分で過ごした。キーボードに向かっても蓮さんの曲はうまく弾けない。指先は不安で震え、メロディは輪郭を失っていく。
そして運命の金曜日がやってきた。
私は何度も行くのをやめようかと思いながらも、気づけばライブハウスの前に立っていた。古い雑居ビルの地下。重い鉄の扉の向こう側から、ドラムのバスドラムの音が地響きのように断続的に漏れ聞こえてくる。
駄目だ、やっぱり無理だ。
私が踵を返そうとした、その瞬間だった。
ぽろん、と。
頭の中に、確かに聴こえたのだ。いつもの、あの蓮さんのピアノの音が。それはただの一音だったが、いつも聴こえてくる悲しい響きではなく、まるで私の背中を強く押すような力強い意志のこもった音だった。
「行けよ」と、彼が言っている。そんな気がした。彼の声が、彼の魂が、私の臆病な心を叱咤激励している。
幻聴かもしれない。ただの思い込みかもしれない。けれどその一音は、私に勇気をくれた。
私は大きく一度深呼吸をした。そして震える手で、ライブハウスの重い鉄の扉をゆっくりと押し開けた。その先にあるのが地獄のようなノイズの渦だとしても、もう逃げるわけにはいかなかった。
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