第14話
山から戻った私は、店のカウンターに山の主から授かった黒く輝く種をそっと置いた。
それはただの種とは思えない、不思議な存在感を放っている。
見ているだけで心が穏やかになるような。
『ほう。これが山の主の置き土産か』
懐から出てきた茶筅が、興味深そうに種の周りをくるくると回る。
『凄まじい力じゃな。山の生命そのものと言っても過言ではあるまい。これをどうするつもりじゃ?』
「庭に植えようと思う」
私は店の裏手にある小さな庭を思い浮かべた。
手入れもされず雑草が生い茂る、忘れられたような場所。
でも、そこにはあの椿の精が宿っていた立派な椿の木が、今も静かにたたずんでいる。
『ふむ。それがよかろう。椿の木のそばなら、寂しがることもないだろう』
茶筅の言葉に私も頷いた。
その日の午後、私はスコップと鍬を持ち出し、庭の草むしりから始めた。
長い間放置されていた庭は、想像以上に荒れていた。
けれど、不思議と作業は苦ではなかった。
額に汗を浮かべ、無心で土をいじっていると、東京での息の詰まるような日々が嘘のように遠い過去のことに思えてくる。
数時間後、私は庭の一番日当たりの良い場所を綺麗に整地した。
椿の木が優しい木陰を作ってくれている絶好の場所だ。
そこに小さな穴を掘り、山の主の種をそっと置く。
そして、優しい土の布団をかけてあげた。
「元気に育ってね」
まるで我が子を寝かしつけるように、私はその小さな膨らみに声をかけた。
これから毎日水をあげるのが、新しい日課になるだろう。
楽しみがまた一つ増えた。
店を再開した翌日の夕暮れ。
ちりんと、あやかしの来店を告げる鈴の音が鳴った。
格子戸の向こうに現れたのは、今までのお客さんとは少し毛色の違う気配だった。
じっとりとした湿り気。
そして、どこまでも しょっぱい潮の香り。
私の鼻はそれを感じない。
けれど、店内の空気がきしむようにそう告げていた。
カウンターの前にぬるりと現れたのは、半透明の人型の影だった。
ぼろぼろの船乗りのような服を着て、その身体からは絶えずぽたぽたと塩水が滴り落ちている。
床に小さな水たまりができていた。
『おやおや。今度は船幽霊か。ちと厄介なのが来たものだな』
茶筅が、やれやれといった口調で呟いた。
船幽霊は不機嫌そうな顔で、ぎろりと私を睨めつけた。
その顔には深い、深い絶望と退屈の色が浮かんでいる。
「……ここか。最近、美味い菓子を食わせるという噂の店は」
その声はがさがさに嗄れていて、長い間誰とも話していなかったことをうかがわせた。
「いらっしゃいませ」
私がそう言うと、彼はふんと鼻を鳴らした。
「どうせ甘ったるいだけの代物だろう。わしはな、もう何百年も海の上だ。甘いものなんぞ、とうの昔に飽き飽きしとるわい」
すごい剣幕だ。
私は少したじろいでしまう。
「わしが欲しいのはただ一つ。故郷の海の味だ。あのどこまでも しょっぱくて懐かしい潮の味。それ以外はいらん」
彼はそう言うと、深い、深いため息をついた。
そのため息だけで、店内の湿度がまた少し上がった気がする。
「塩辛いだけの菓子か。そりゃまた難題だな」
茶筅も困り果てたように首を傾げている。
確かに甘味処で塩辛いものというのは、矛盾している。
けれど、彼のあの全てに絶望しきったような目を見ていると、何とかしてあげたいという気持ちがむくむくと湧き上がってくる。
しょっぱいお菓子。
海の味。
私の頭の中で、いくつかのキーワードが結びついていく。
そうだ。
海と言えば海斗さん。
彼のような漁師たちが仕事の合間にほっと一息つけるような。
甘さと塩辛さが絶妙なバランスで共存しているような、そんなお菓子。
作れるかもしれない。
「……少しお時間をいただけますか。あなたのために特別なお菓子をお作りします」
私の言葉に、船幽霊は訝しげな顔をこちらに向けた。
『小娘、正気か? 下手なものを出せば、この店ごと塩水に沈められんこともないぞ』
茶筅が小声で警告してくる。
でも、私の心はもう決まっていた。
厨房に立った私は、まずもち米を蒸し、柔らかい求肥の生地を作ることから始めた。
次に、取り掛かるのはこの菓子の心臓部となる餡だ。
鍋に生クリーム、砂糖、バターを入れて火にかける。
そう、作るのはキャラメルソース。
パティシエだった頃、私が最も得意としていたものの一つだ。
味は見えなくても、鍋の中で砂糖が焦げて美しい琥珀色に変わっていくその全ての工程が、私の頭の中に完璧にインプットされている。
甘く香ばしい香りが、きっと厨房を満たしているのだろう。
完璧な色合いになったキャラメルに、私はとっておきの素材を加えた。
それは、この間海斗さんに頼んで分けてもらった、この土地の職人さんが作った手作りの天然塩。
粒が大きく、ミネラルを豊富に含んだ力強い塩だ。
それを惜しげもなく熱いキャラメルの中に投入する。
じゅわっという音と共に、甘さと塩辛さが鍋の中でせめぎ合う。
ほとんどの塩は溶けてキャラメルと一体になる。
けれど、一部の大きな粒は溶けずに残り、これが後で味のアクセントになるはずだ。
仕上げに、香ばしく煎った胡桃をたっぷりと加える。
胡桃の大地を思わせる素朴な風味と食感が、海の味である塩キャラメルと、きっと最高の相性を見せてくれるだろう。
これで特製の「塩キャラメル胡桃餡」の完成だ。
出来立ての餡を、まだ温かいもちもちの求肥で丁寧に包んでいく。
ころんと丸い真っ白な大福。
見た目はごく普通だ。
けれど、この中には甘さと塩辛さ、そして優しさと懐かしさ、その全てが詰まっている。
私は完成したばかりの「塩キャラメル胡桃餅」を一つ、素朴な木の皿に乗せた。
そして、それを不機嫌な顔で待ちくたびれたように座っている船幽霊の前に、そっと差し出した。
彼は真っ白な餅を一瞥すると、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
『ふん。やはりただの甘い餅か。だから言ったのだ。わしには無駄だと……』
そう呟きながらも、彼はどこか自暴自棄になったように、その餅をひょいとつまみ上げた。
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