第13話

夜明けの光が障子を通して、店内に淡い縞模様を描き出す。

私は漆塗りの重箱を丁寧に風呂敷で包み直すと、静かに立ち上がった。

懐の中では、茶筅がもぞもぞと動く気配がする。


『……行くのか』


「うん。約束だから」


短い会話。

けれど、それで十分だった。

二度目に踏み入れた山の道は、昨日よりもずっと優しく私を迎え入れてくれたような気がした。

木々の葉がさわさわと穏やかな音を立て、まるで私のために道を開けるかのように、朝の光が木漏れ日となって足元を照らしてくれる。

昨日出会った一つ目小僧や七色の蝶の姿は見えない。

けれど、山全体が私という訪問者を温かく見守ってくれている。

そんな不思議な一体感を感じていた。


滝の裏の洞窟を抜ける。

目の前に現れた静謐な社の前には、昨日と同じように山の主がどっしりと座っていた。

その巨大な白い体は朝の光を浴びて、神々しいほどに輝いている。

私はゆっくりと彼の前まで進むと、深く、深く頭を下げた。

そして、持ってきた重箱を彼の前にそっと置く。


「お待たせしました。約束のお菓子です」


私の声は少し震えていたかもしれない。

緊張しながら重箱の蓋を開ける。

現れたのは、ガラスの器の中で静かな輝きを放つ水の菓子。

水晶のように透明な球体の中に、黄金色の天桃がまるで閉じ込められた太陽のように浮かんでいる。

我ながら、今まで作ったどんな菓子よりも美しく、そして誇らしい出来栄えだった。

山の主は言葉を発しない。

ただ、その黒曜石のような深い瞳で、じっと器の中の菓子を見つめていた。

長い、長い沈黙。

やがて彼は、満足したように一度大きく頷いた。

そして、その巨大な頭をゆっくりと器に近づける。

食べるというよりは、もっと荘厳な儀式のようだった。

山の主が、ふう、と深く息を吸い込む。

すると、信じられないことが起きた。

器の中の菓子がすうっとその形を失い、金と銀の無数の光の粒子となって舞い上がったのだ。

光の粒子は吸い込まれるように、山の主のその大きな鼻先へと流れ込んでいく。

あっけにとられる私の前で、菓子は跡形もなく光となって消えてしまった。

菓子をその魂ごと味わった山の主は、心地よさそうに目を細めた。


次の瞬間。

彼から温かく、そして力強い優しいエネルギーの波が、ふわりと放たれた。

その波は社を、森を、そして山全体を包み込んでいく。

ざわざわと、全ての木々が喜びに満ちた音で一斉に葉を揺らした。

足元の苔からは、色とりどりの小さな花がまるで魔法のように次々と咲き誇る。

私の鼻は何も感じないはずなのに、なぜか雨上がりの土と花の蜜が混じったような、甘く清らかな香りがあたりを満たしたような気がした。

山の主は満足げに、低く喉を鳴らす。


『うむ。確かに夏の心、そのものじゃ』


その声は昨日よりもずっと穏やかだった。


『春の味とは違う。あのからりとした向日葵のような春の味とは。……だが、これもまた見事な味じゃ。おぬし自身の素直でひたむきな心が、そのまま形になったような澄み切った味がする』


最高の賛辞だった。

私の目から知らず知らずのうちに、涙が一筋こぼれ落ちた。


『約束は果たされた。春もきっと満足しておろう』


山の主はそう言うと、今度は社の奥にそっと前足を入れた。

そして取り出してきたものを、私の前にことりと置く。

それは天桃と同じくらいの大きさの、つるりとした黒い種だった。


「これは……?」


『天桃の種じゃ。だが、ただの種ではない。わしが山の全ての生命の祝福を込めたものじゃ』


山の主は続ける。


『それを、おぬしの店の庭に植えるがよい。まことの心を込めて水をやり育てれば、やがておぬしに不思議な恵みをもたらすだろう』


不思議な恵み。

私はその黒い種をそっと両手で拾い上げた。

ずしりと重く、そして生命そのものみたいに温かい。


「ありがとうございます。大切に育てます」


私がそう答えると、山の主はもう一度大きく頷いた。

そして、ゆっくりと立ち上がる。


『達者でな、春の孫よ。また菓子が食いたくなったら、顔を出すやもしれん』


その言葉を最後に、彼は静かに社の奥の暗闇へとその姿を消していった。

後には咲き乱れる小さな花々と、優しい光だけが残されていた。

私はもう一度、深く、深く社に頭を下げた。

そして温かい種を大切に懐にしまい、山を下り始めた。

足取りは来た時よりも、ずっと、ずっと軽やかだった。

祖母の約束を果たすことができた。

その達成感と喜びが、私の全身を満たしていた。

甘味処『黄昏』の新しい物語が、今、静かにまた一つ動き出した。

そんな予感が私の胸を温かくしていた。

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