第4話

あの夜、僕の世界で何かが確かに変わった。

テキストエディタの白い画面に打ち込んだ<html>という、たった一つの単語。

それがまるで魔法の呪文のように、僕の心を縛り付けていた灰色の霧を少しだけ晴らしてくれたのだ。

会社で書かされる意味を見出せない何万行のコードよりも、そのたった六文字の方が、僕にとっては遥かに重く、そして希望に満ちていた。


それからの毎日は、劇的に変わった。

相変わらず朝は無機質なアラームで目覚め、満員電車に揺られて会社へ向かう。

上司の嫌味や、終わりの見えない仕様変更の要求も昨日までと何も変わらない。

僕を取り巻く灰色の世界は、依然としてそこに存在している。


けれど、僕自身の心の中の色がほんの少しだけ違って見えた。

以前はただ耐え忍ぶだけだったその時間を、「夜の作業のための準備運動」だと思えるようになっていたからだ。

早く家に帰って、あの温かいサイトの続きを作りたい。

その一心で、僕は日中の仕事を驚くほどの集中力で片付けていくようになった。


「斎藤くん、最近仕事が早いじゃないか。どうした、何か良いことでもあったのか?」

上司が、少しだけ目を丸くして言った。

僕はただ「いえ、別に」と短く答えるだけだったが、心の中では「ええ、ありましたよ。あなたには到底理解できないでしょうけどね」と、少しだけ得意げに呟いていた。


家に帰ると食事もそこそこに、埃をかぶっていた古いノートパソコンの前に座る。

起動音と共に現れる、昔飼っていた愛犬の写真が貼られたデスクトップ。

それが僕を「会社の駒」から「一人の創造者」へと引き戻してくれる、大切なスイッチだった。


まず考えたのは、サイトの全体的なデザインだ。

僕は、ゆずさんに触れた時の、あの「ひだまりのような温もり」をどうにかして画面越しに伝えたいと思った。

僕はデザインの専門家ではないけれど、今の僕には伝えたい明確なイメージがある。

メインカラーは、温かみのあるアイボリーと、ゆずさんの毛の色に近い優しいブラウン。

アクセントには、新緑を思わせるような穏やかなグリーンを使おう。

フォントは、角の取れた丸ゴシック体を選んだ。

無機質で冷たい明朝体は、今の僕たちの物語には似合わない。


僕は夢中でキーボードを叩いた。

HTMLで骨格を作り、CSSで色と形を整えていく。

プレビュー画面に、少しずつ自分のイメージが形になって現れるのがたまらなく楽しかった。

学生時代、初めて自分の書いたコードがブラウザ上で動いた時の、あの胸のときめきを思い出す。

そうだ、僕はものを作るのが好きだったんだ。

誰かに言われたからじゃない、僕が作りたいから作る。

その単純な事実を、僕はすっかり忘れてしまっていた。


何日か夜なべをして、サイトの基本的な形が出来上がってきた。

トップページには、僕が撮った写真の中でも一番のお気に入り、目を細めて気持ちよさそうにしているゆずさんの写真を大きく配置した。

その下には、こんな言葉を添えた。

『ここには、特別な何かはありません。でも、ここにしかない温もりがあります。』

我ながら少し気障だろうか。

でも、これが僕の正直な気持ちだった。


サイトの骨格はできた。

でも、肝心の中身がまだ空っぽだ。

ゆずさんの魅力、動物園の持つ独特の空気。

それを伝えるには、もっとたくさんの写真と言葉が必要だった。

次の定休日、僕はなけなしの貯金をはたいて買った少しだけ性能の良い中古のミラーレスカメラを片手に、ふれあいミニ動物園へと向かった。

心なしか、いつもより足取りが軽い。


ゲートをくぐると、鈴木さんが箒で落ち葉を掃いていた。

僕の姿を認めると、いつものように柔和な笑顔を向けてくれる。

「やあ、お兄さん。先週は来なかったから、どうしたのかと心配しとったよ」

「すみません、ちょっと……色々と考えていることがあって」

「そうかい。まあ、元気ならそれでいいんだ」


僕は少しだけ逡巡してから、思い切って切り出した。

「あの、鈴木さん。僕、この動物園のウェブサイトを作ろうと思うんです」

鈴木さんは、きょとんとした顔で僕を見た。

箒を持つ手が、ぴたりと止まる。

「うぇぶさいと……? あの、ぱそこんで見るっていう、あれかい?」

「はい。この動物園にはゆずさんをはじめてして、たくさんの魅力があるのに、それが全然知られていないのがもったいないと思って。僕、こういうのを作るのが仕事なので。何か僕にできることはないかと考えたんです」


僕の言葉を聞いているうちに、鈴木さんの目尻がじわりと赤くなっていくのが分かった。

彼は何も言わず、ただこくこくと何度か頷くと、皺の刻まれた手でぐいっと目元を拭った。

「そうかい、そうかい……。そんなふうに思ってくれる人がいたなんて……わしは、もうそれだけで嬉しいよ」

鈴木さんは、僕の手をぎゅっと握りしめた。

その手は、思ったよりもずっと大きくて温かかった。

「ありがとう、お兄さん。本当に、ありがとう。わしに協力できることがあったら、何でも言ってくれ」

「はい。じゃあ、お言葉に甘えて……ゆずさんや他の動物たちのこと、もっと詳しく教えてもらえませんか? サイトに、紹介ページを作りたいんです」


その日、僕は一日中、鈴木さんの「特別ガイド」付きで園内を巡った。

今までただのヤギ、ただのウサギだと思っていた動物たちに、それぞれ名前とユニークな個性があることを知った。

頑固者で、気に入らないことがあるとすぐに頭突きしてくるけど、本当は寂しがり屋。鈴木さんが撫でてあげないと夜も眠れないヤギの「テツオ」。

人参よりも、なぜかパセリが大好物だという食いしん坊なウサギの「大福」。

そして、この動物園の主役である、ゆずさん。


「ゆずはね、もともと別の大きな動物園にいたんだよ。でも体が少し小さくて、他のカピバラたちとの競争に負けて、いつも隅っこで小さくなってたんだ。餌もろくに食べられなくてね。それで、見かねたそこの飼育員さんが、わしに相談してくれて、うちで引き取ることになったんだよ」

鈴木さんは、柵の向こうで気持ちよさそうに日向ぼっこをしているゆずさんを見ながら、目を細めた。

「ここに来たばかりの頃は人間不信というか、なかなか心を開いてくれなくてね。でも、毎日毎日わしがここで話しかけて、ゆっくり時間をかけていたら、いつの間にかあんなふうに甘えてくれるようになったんだ。お兄さんが初めてここに来た時、ゆずがすぐに懐いたのを見て、わしは本当に驚いたんだよ。あいつは、優しい人間が分かるんだな」


僕は、その話を聞いて胸が熱くなった。

僕と同じだ、と思った。

社会という群れの中でうまくやれず、隅っこで小さくなっていた僕。

そんな僕を、ゆずさんはただ静かに受け入れてくれた。

僕たちは、どこか似た者同士だったのかもしれない。


僕は夢中でシャッターを切った。

鈴木さんの話を聞きながら、動物たちの今まで気づかなかったような豊かな表情をカメラに収めていった。

テツオのふてぶてしいけど、どこか愛嬌のある顔。

大福が、一心不乱にパセリを頬張る姿。

そして、ゆずさんの悟りを開いたような穏やかな寝顔、水の中で気持ちよさそうに目を細める表情、僕の手に鼻先をすり寄せてくる、愛らしい瞬間。

ファインダーを覗いていると、世界がキラキラと輝いて見えた。

灰色だった僕の世界に、次々と新しい色が足されていくようだった。


閉園時間間際、僕は撮った写真を確認しながら、ふとあることに気づいた。

写真は、たくさん撮れた。

動物たちの魅力的な表情も、たくさん切り取れた。

でも、何かが足りない。

この動物園のもう一つの大きな魅力。

それは、動物たちを見守る鈴木さんの優しい眼差しだ。


「鈴木さん、一枚写真を撮らせてもらえませんか?」

「ええ? わしをかい? いやいや、わしみたいな爺さんを撮っても誰も喜ばんよ」

「そんなことないです。鈴木さんがいるから、ここの動物たちはこんなに幸せそうなんです。そのことを、サイトを見る人に伝えたいんです」


僕の真剣な眼差しに、鈴木さんは照れくさそうに頭を掻きながらも、こくりと頷いた。

「じゃあ……ゆずと一緒になら」

鈴木さんが柵の中に入ると、ゆずさんは待ってましたとばかりにのっそりと近づき、彼の足元に体をすり寄せた。

鈴木さんが、愛情のこもった手つきでその背中を優しく撫でる。

夕暮れのオレンジ色の光が、二人を柔らかく包み込む。

僕は息を飲んで、その光景をファインダーに収めた。

それは、僕が今まで撮ったどんな写真よりも、温かくて優しい一枚になった。


帰り道、僕はバスの中で、カメラの液晶画面に映し出されたその写真を見つめていた。

僕にできることは、ただプログラムを書くだけじゃない。

この温かい光景を、この物語を、一人でも多くの人に届けることだ。

無力だと思っていた自分のスキルが、誰かの心を温めるために使えるかもしれない。

その可能性に、僕は胸が高鳴るのを抑えきれなかった。


しかし同時に、新たな課題も見えてきていた。

僕にはデザインの知識も、写真を撮る技術も、そして人の心を動かすような文章を書く才能も、圧倒的に足りていない。

今の僕の力だけでは、この動物園の魅力を半分も伝えきれないかもしれない。

もっと、魅力的なサイトにしたい。

もっと、たくさんの人にこの場所を知ってほしい。

僕の心の中に、会社では決して感じることのなかった前向きな「欲」が芽生えていることに、僕は気づいていた。

それは、焦りや不安とは違う、温かくて力強い感情だった。

僕はその感情を大切に抱きしめながら、夜の街を走るバスの窓に映る自分の顔を、久しぶりに悪くないな、と思った。


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