第3話
あの日から、僕の世界は再び、完全な灰色に戻ってしまった。いや、以前よりもっと濃い、絶望的な色合いの灰色だった。
会社のデスクに座っていても、頭の中は動物園のことばかりが駆け巡る。来月末。そのリミットが、まるで時限爆弾のタイマーのように、僕の思考の背後でカチカチと音を立てていた。仕事はまったく手につかず、単純なミスを繰り返しては、上司に叱責される。
「斎藤くん、最近集中力が足りないんじゃないか。やる気がないなら、そう言ってくれて構わないんだが」
嫌味の混じった声が、僕の耳を通り抜けていく。反論する気力もなかった。やる気がないわけじゃない。ただ、心がここにないだけだ。僕の心は、町の外れの、あの寂れた動物園に置き去りにされたままだった。
家に帰っても、何もする気が起きなかった。コンビニで買ってきた弁当を半分も食べずにゴミ箱に捨て、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込む。眠りは浅く、何度も目が覚めた。目を閉じれば、ゆずさんのつぶらな瞳と、鈴木さんの寂しそうな笑顔が浮かんでは消える。
無力感。それが、鉛のように僕の体にまとわりついて離れない。僕には何もできない。あのプロジェクトの失敗が、僕からすべての自信を奪い去っていた。何かをしようとすれば、また失敗するんじゃないか。また誰かに迷惑をかけるんじゃないか。その恐怖が、僕の手足を縛り付けていた。
次の水曜日、僕は動物園に行けなかった。行くのが、怖かったのだ。あの場所に行って、閉園までのカウントダウンを肌で感じるのが、耐えられなかった。僕は一日中、部屋のカーテンを閉め切り、ベッドの上で膝を抱えていた。灰色の時間が、ただ静かに流れていくだけだった。
しかし、その次の週。僕の足は、まるで何かに引かれるように、自然と動物園へと向かっていた。会いたい。ただ、ゆずさんに会いたい。その一心だった。
ゲートをくぐると、閉園のお知らせの貼り紙が、以前よりも色褪せて見えた。僕はそれを見ないようにして、足早にゆずさんの元へと向かう。
ゆずさんは、いた。いつものように、そこにいた。僕の姿を認めると、のっそりと近づいてくる。
「……ごめんなさい、先週、来れなくて」
僕は柵越しに、彼の頭を撫でた。変わらない温もり。その温かさに触れた瞬間、僕の目から、また涙がこぼれ落ちた。
「僕、どうしたらいいか、分からなくて……何もできないんです。僕なんかが何かやったって、きっと、またダメになるだけで……」
弱音ばかりが、口をついて出る。情けない。分かっている。でも、そうとしか思えなかった。
ゆずさんは、僕の言葉を聞いているのかいないのか、ただ静かに僕に頭を預けている。その時、ふと、彼の背中に一枚の笹の葉が乗っているのが目に入った。僕は、それをそっと摘んでやる。
その瞬間、頭の中に、電気が走ったような感覚があった。
(そうだ……)
僕にできること。何もないわけじゃない。
僕にできるのは、プログラムを書くことだ。
会社では、クライアントの要求に応えるためだけの、魂のないコードを書き続けている。バグを修正し、仕様変更に対応するだけの、創造性のない作業。僕は、その仕事が嫌いだった。自分のスキルが、憎かった。
でも、もし。
もし、自分のこのスキルを、ゆずさんのために使えたなら?
大それたことじゃなくていい。動物園の経営を立て直すなんて、そんな無謀なことは考えられない。でも、もっとささやかなことなら。
(この場所の、ゆずさんの魅力を、誰かに伝えることなら……できるんじゃないか?)
訪れる人もまばらな、この動物園。きっと、この町の多くの人は、こんな素敵な場所があることさえ知らないだろう。ゆずさんという、こんなにも穏やかで、温かいカピバラがいることを、知らないだろう。
それを、伝えることはできないか。僕の、この手で。
「……ウェブサイト」
ぽつりと、言葉が漏れた。
そうだ、ウェブサイトを作ろう。この動物園の、ささやかなウェブサイトを。ゆずさんの可愛い写真や、鈴木さんの動物たちへの愛情が伝わるような、そんなサイトを。それを見て、一人でも多くの人がこの場所を訪れてくれたら。閉園までの残された時間、少しでも多くの人に、ゆずさんの温もりに触れてもらえたら。
それは、焼け石に水かもしれない。自己満足に過ぎないのかもしれない。でも、何もしないで後悔するよりは、ずっといい。
僕の心の中に、小さな、本当に小さな灯りがともった気がした。それは、何年も前に消えてしまったはずの、「何かを創りたい」という、原始的な欲求の炎だった。
その日、僕は閉園時間ぎりぎりまでゆずさんのそばにいた。いつもよりもたくさん、彼の写真を撮った。眠っている顔、草を食む横顔、水浴びをする姿。ファインダー越しの彼は、どれもが愛おしかった。
家に帰ると、僕はまっすぐにクローゼットへ向かった。その奥から、段ボール箱を引きずり出す。中に入っていたのは、会社で支給された無機質なノートパソコンとは違う、僕が学生時代から使っていた、古い個人用のノートパソコンだった。天板には、傷やステッカーの跡が残っている。
電源を入れると、懐かしい起動音と共に、デスクトップ画面が現れた。壁紙は、昔飼っていた犬の写真のままだった。僕はそのパソコンを丁寧に拭き、深呼吸を一つした。
指が、自然とキーボードの上に置かれる。
テキストエディタを開き、真っ白な画面に、僕は一行のコードを打ち込んだ。
<html>
たったこれだけ。
でも、この一行は、僕が会社で書かされている何千、何万行のコードよりも、ずっと重く、そして温かく感じられた。
それは、誰かに強制されたものではない。納期に追われるものでもない。僕が、僕自身の意志で、大切な誰かのために書く、初めてのコードだった。
埃をかぶっていた僕の心が、ほんの少しだけ、動き出したような気がした。窓の外は、もう真っ暗だった。でも、僕の目の前にあるディスプレイの光は、灰色の世界を照らす、確かな希望の光のように見えた。
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