第2話

 今住んでいるマンションの契約は明日切れる。


 ガランとした部屋に忘れ物がないか確認している。


 ここにあった荷物は、会社の寮に引っ越しをした。


 篤志は篤志が借りているマンションに来ればいいと言ったが、会社の仲間と馴染むために寮に入った方がいいと考えた。


 まず、会社に提出する住所の問題がある。


 篤志と仲がよいからと、いきなり同じ住所では、ゲイだと疑われてしまうと考えた。


 いきなりのカミングアウトでは、他人の目が怖い。


 俺は篤志を愛しているが、他人の言葉に心が不安定になりやすい。臆病者なのだ。


 顔を隠す癖や人の影に隠れる習慣は、幼い頃からあった。


 篤志のように、見るから男らしさがあれば、自信も持てると思うが、見るからに女顔で、声も低くなく、身長も160センチと低いのは、大きなコンプレックスだ。


 大きなコンプレックスを持っていても、性格は負けず嫌いで、人より負けるのは嫌だ。だから努力家だと言われる。


 今の所、他人からの評価はとてもいい。


 電気、ガス、水道を止めてもらい、最後のチェックをして、俺は長く住んだマンションから出た。


 明日、入社式なので、会社の寮に行くつもりだ。


 まだ荷ほどきもしていないので、寮に戻ったらまた片付けが待っている。


 その時、スマホの電話が鳴った。


 知らない番号だった。


 出るか出ないか迷いながら、電話に出た。



『新井真さんの番号で間違いないですか?』


「私が新井真です」


『私は静岡県警の脇田と申します』


「はい」



 警察がどうしたのだろう?



『交通事故が起きまして、お電話差し上げました』



 交通事故?


 父ちゃんか母ちゃんが田圃にでも落ちたのか?


 それなら俺ではなく、兄ちゃんが対応するだろう。



『高速道路で多重事故が起きまして、高速道路から押し出されて、高速道路から地上に落下した事故が起きました。至急、静岡県警まで身元確認に来てください』


「身元確認?病院ではないのですか?」


『取り敢えず、静岡県警交通事故課脇田までお願いします』


「あ、はい。でも、俺、東京にいるんですが」


『お待ちしております』


「分かりました」



 通話が切れた。


 どうして交通事故で病院ではなく、警察に行くのか?


 誰が?


 どうして、俺に電話がかかる?


 俺は財布の中身を確かめて、落胆した。二千円では足りない。途中でATMに寄って、足しないお金を足した。



 +



 新幹線とバスで警察署に到着した。


 胸がドクドクと拍動している。


 怖いのだ。


 誰が死んだの?


 俺が確認するのは誰だろう。


 兄ちゃんだろうか?


 でも、父ちゃんもいるはずだよな?


 不安で、不安で。


 凄く怖い。


 交通事故課の脇田さんを呼び出してもらった。


 脇田さんは、兄ちゃんと変わらない年齢だと思った。



「確認をしていただきたく、こちらに来ていただきました」


「死んでるの?」


「残念ながら、病院に搬送する以前に、息絶えておりました。ですが妊婦の女性は、亡くなる前にお子を出産したようで、お子さんは病院に入院しております」


 赤ちゃんは生きていた。


 俺は地下の霊安室に連れて行かれた。


 部屋には二つのベッドが並んでいた。


 線香の匂いがする。


 脇田さんは、顔を覆っている布を外してくれた。


 父ちゃんと母ちゃんが眠るように横たわっている。


 綺麗な顔だ。



「父と母です」


「次はこちらをお願いします」



 まだあるのかよ?と思いながら、脇田さんに付いていく。脇田さんは隣の部屋に入っていった。


 ベッドが二つ並んでいる。


 この部屋も線香が焚かれている。


 脇田さんは、また顔にかけられていた布を外している。


 兄ちゃんは頭に包帯を巻き、顔中にガーゼが貼られている。


 兄ちゃんの横には、奥さんの菜々美さんが横たわっていた。


 菜々美さんも顔にガーゼが貼られていた。


 俺は一人になってしまった。


「兄と兄嫁です」



 身元を確認するのが俺だけだったのだ。



「兄が事故を起こしたのですか?」


「いえ、多重事故が起きまして、前後に挟まれた状態から、横からトラックが車を高速道路の外に押し出す形になり、転落したようです」


「どんだけ、運が悪いんだよ」


「今回の事故は怪我人や死亡者も多く、病院の方もパンク状態だったので、ご遺体を警察署に移動させました」



 俺は頭を軽く下げた。



「あと、死に際に出産し、産まれたお子様の面談もしていただきます。病院まで案内します」


「はい」



 俺は生まれて初めて、パトカーに乗った。


 子供の頃憧れていたパトカーは、普通の車だった。


 病院の新生児室に案内された。


 菜々美さんの赤ちゃんは、女の子だった。


 怪我はないようだ。


 看護師さんに呼ばれて、個室に入った。


 脇田さんも一緒にいる。


 看護師さんが赤ちゃんを連れてきた。


 小さな透明なベッドの中で、眠っている。


 菜々美さんによく似た美人になるだろう。


 目鼻立ちが、菜々美さんによく似ている。


 色白で、小さい。



「この子が車の中で産まれた子です」



 菜々美さんは事故の時、意識があったのだろう。


 必死で赤ちゃんを守ろうとしたに違いない。



「お母さんのご家族はいらっしゃらないのですか?」


「菜々美さんのご家族は、早くに亡くなられたと聞いています」



 施設育ちだと菜々美さんは言っていた。


 高校を出てから、我が家の工場の事務員になっていた。


 兄ちゃんは、菜々美さんに惚れて、直ぐに求婚したと聞いた。



「新井真さん、あなたにこの子をそだてる事は可能ですか?」



 唐突に看護師さんが言った。



「え?」


「養子縁組に出されても、いいと思いますよ」



 生還した赤ちゃんを、俺に捨てろと言っているのか?


 兄ちゃんと菜々美さんの、大切な赤ちゃんだ。


 二人が、産まれてくるのを待っていたのを知っている。



「俺が育てます」



 兄ちゃんと菜々美さんの忘れ形見だ。


 どうして施設に入れなくてはならないのだ?


 俺は兄ちゃんに、小さいときから守られてきた。


 それなのに、兄ちゃんの子を他人にやるのか?


 罰当たりだ。


 俺はまだ一つも恩返しをしてはいない。


 赤ちゃんは、一人になってしまったのだ。


 俺も家族に置いていかれた。


 互いに一人ならば、年長の俺が、この赤ちゃんの成長を見守る責任があると思う。



「俺の家族は、この子だけになってしまったのだから。俺が責任を持って育てて行きます」


「貴方の人生も大切にしていただきたいと思いまして」と看護師さんは言った。


「今日、産まれたので、一週間は病院で様子を見ます。見た目に怪我はありませんが、一応、全身の検査はします。宜しいでしょうか?」


「お願いします」



 何枚かの書類を出された。


 看護師さんは説明をしたが、さっぱり頭に入ってこない。


 書類にサインをして、それをテーブルに置くと、看護師さんは立ってベッドの方に歩いて行って、赤ちゃんを抱き上げた。



「どうぞ抱いてやってください」


「はい」



 看護師さんは、赤ちゃんを抱かせてくれた。


 甘いミルクの匂いがする。


 とても軽くて、フワフワで、壊しそうで不安になる。



「全身に何もなければ、一週間後に退院になります。その時までに準備する物のリストを作っておきました。後で読んでください」


「はい」



 赤ちゃんは、看護師さんが俺の手から奪って、ベッドに寝かされた。


 その途端に、赤ちゃんが泣き出した。


 寂しそうに、不安そうに、甘えた泣き声に、俺は椅子から立ち上がっていた。


 ベッドに横にされた赤ちゃんを抱いていた。


 やはり寂しかったんだね?


 泣き声は消えていた。



「怪我がないか、しっかり検査しておいてください」



 俺は赤ちゃんを抱いたまま、看護師さんに頭を下げた。



「分かりました」



 看護師さんは、優しく微笑んだ。


 その後、赤ちゃんのおしめ交換とミルクを飲ませる練習をして、赤ちゃんを預けてきた。


 赤ちゃんのベッドには『新井真ベビー』と書かれた。


 菜々美さんと兄ちゃんが待ちに待った赤ちゃんだから、大切にしなければならないと思う。


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