第10話 雪の掟と火の誓い
その朝、私は異変に気づいた。部屋の窓ガラスが、内側から薄く凍っていた。昨夜はエアコンを切って寝たけれど、部屋の温度は明らかに不自然に下がっていた。吐く息は白く、カーテンの隙間から差し込む光さえ、冷え切って見えた。
(何か……。来る)
心の中で、誰かがそう告げていた。これは夢ではない。現実として、一族が動き始めたのだ。そして午前九時。私のアパートの前に、彼女は現れた。
全身を白の着物で包み、長い銀髪を風に揺らしながら、冷たい微笑を浮かべていた。その存在だけで空気が凍り、通りがかる人々は凍えるように首をすくめて通り過ぎていった。
「ふふふ。お久しぶりですね、雪代ユキ」
その声は、夢で聞いたあの声とまったく同じだった。凍てつくように冷たいのに、どこか懐かしさの混じった声。
「貴方は?」
「名乗る必要もないとは思いますが。私は白銀。雪女の本家より、貴方を迎えに来ました」
白銀と名乗る女は、アパートの前に立ったまま、私を見つめていた。その目には怒りも感情もない。ただ、決定だけがある。
「火の者との関係が続いていると報告を受けました」
「え、報告?」
「すべて、見ています。掟に背くものは、雪女の血脈を剥奪される。それが冷の掟です」
言葉は短く、残酷で、そして静かだった。彼女の周囲の温度が数度、下がった気がする。霜が植木鉢の土を覆い、鳥の鳴き声が遠ざかっていく。
「掟に従い、冷気を返上し、人として生きることも可能です。その場合は雪代姓の抹消と記録の封印が行われます」
私はしばらく黙った。その選択肢は、前にも聞いた。でも、こうして面と向かって告げられると心の奥が軋む。
「あの、考える時間をください」
白銀は、小さく頷いた。
「三日。月が満ちる前までに答えを出してください」
そう言い残し、彼女はふわりと風のように踵を返した。歩き去る後ろ姿を見つめながら、私はようやく息を吐いた。あの冷気の中心で、私は立っていた。凍らずに、砕けずに……。ただ、立っていた。
その日の昼過ぎ、川口くんから連絡が来た。内容は『火野の様子が変なんだ。少し……。焦げ臭いっていうか』って書いてあった。そして、慌てて駆けつけた会社の資料室。そこにいた火野は、確かに熱を帯びていた。息が荒く、シャツの袖口が少し焦げている。
「大丈夫ですか!?」
「ちょっと……。気温が……。高くて……」
火野の手を取ると、じんわりと熱い。このままだと、暴走する。そんな直感が走った。私は周囲を見回し、誰もいないのを確認すると、彼の手を自分の頬に当てて冷気を注ぎ込んだ。
ひやり、とした感触が火野の体から伝わってくる。彼の表情が少しだけ和らいだ。
「ごめん。また、制御が……」
「私の方こそ。こんな時に」
互いに謝りながら、でも目を逸らさずにいた。その目の奥にあったのは、不安と、優しさと、決意の火だった。そして、その日の夜。川口くんが私の部屋を訪ねてきた。
「火野、限界近いよ」
そう言って彼は、少し乱れた髪を指でかき上げた。珍しく、焦っているように見えた。
「彼の炎は、紅さん……。つまり、彼の母親譲りの超高温型なんだ。普通の火属性よりも不安定で、しかも外に出すと誰かを傷つける」
私は、火野の手が時折震えていた事やそれを見せまいと、いつもポケットの中に隠していた事を思い出した。
「彼はずっと、自分の火に怯えてた。誰かを傷つけないように、熱を閉じ込めてた」
川口くんの声は、少しだけ震えていた。それが親友としての怒りか、悲しみかはわからなかったけれど。
「でもな、ユキ。君の冷気なら、あいつの火を和らげられるかもしれない。けど逆に言えば、君は凍れる力を失うかもしれない」
それはつまり、もう雪女ではなくなるという事だと感じだ。人の身になり、歳を取り、普通の命を迎えるという事だと言う事に私は静かに頷く事を選んだ。
「それでもいい。私は、彼と生きていたい」
そして、三日目の朝。私は約束通り、白銀の前に立った。再び現れたその姿は、相変わらず冷たく、無機質だった。
「答えを、聞きましょう」
「私は……。雪女としての力を捨てても、火野さんと共に生きたい」
白銀は微動だにせず、数秒の沈黙ののち、ただ一言。『了解しました』とだけ伝えられた。そして、空気がふっと緩み、温度が少しだけ上がった気がした。
「あなたの記録は本家から抹消されます。代わりに、一人の女として生きなさい。冷たくも、熱くも、自由に」
白銀はそれだけを言い残し、風のように姿を消した。その日の夕方、火野の部屋を訪ねた。
「え、ユキさん……?」
彼は、弱った顔をしていた。でも私の姿を見ると、ほっとしたように笑った。
「どうだった……?」
「もう、雪女じゃなくなった」
そう言うと、彼は何かを決意したような目でこちらを見た。
「なら、俺も変わらなきゃな。絶対に逃げない。自分の火とちゃんと向き合う。君を、焼かないように」
私はその手を、そっと握った。火野の手はまだ熱かったけれど、それでも私の手を焼く事はなかった。
「冷たくなくてもいい。熱くてもいい。ただ、貴方と手をつなぎたい」
「じゃあ、もう離さないよ」
彼は、照れくさそうに笑いながらも握り返してくれた。そうして、私達は初めて本当に向き合ったのだった。
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