第9話 火の記憶と雪の誓い

 電車を三回乗り継いで、さらにバスで山奥へと揺られた。春の陽気が東京を包む中、このあたりはまだ冬の名残が強く、路肩には雪がうっすらと残っていた。


 冷たい空気はむしろ心地よかった。けれど、足取りは妙に重かった。何故なら、これは火野翔真の過去と向き合うための旅だからだ。それは、同時に私自身の未来を決める事になるかもしれないからでもある。


「着いたよ」


 それから、火野が案内してくれたのは山の中腹にぽつんと建つ小さな一軒家だった。古びた木造の建物で屋根には雪が薄く積もっている。


「母さんが昔、一人で暮らしてた家。俺は小さい頃に何度か来たっきり」


 木戸を開けると、ほこりっぽい空気と共に懐かしい温もりのようなものが流れ込んできた。彼の火の記憶が、まだこの家に残っているのだ。


「母さんはね、くれないって名前だった」


 その名前が部屋に響いた瞬間、私の中で何かがふっと溶けた気がした。赤くて、でもどこか哀しげで。炎のようでいて、血のような名前。


「きれいな名前ですね」


「ありがとう。でも、母さんはずっとこの名前を嫌がってた。『私はそんなに派手じゃない』って」


 居間に通されると、彼は棚の奥から古い箱を取り出した。中には、写真や手紙、小さなノートが並んでいた。


「これ、母さんの日記だと思う」


 ページをめくると、そこには丸くやわらかな字で、淡々と日々の出来事が綴られていた。息子が熱を出した日や料理が焦げて失敗した事、そして近所の人に『火女』と囁かれて避けられた日の寂しさなどが書かれていた。


 そのどれもが、普通の母親の記録であり、同時に異端として生きた女性の叫びでもあった。火野は黙って、それを読んでいた。その目がほんの少しだけ潤んでいるように見えた。


「もしかして、母さんは雪女と出会ってたかもしれない」


「え?」


 火野は日記の一節を指差した。そこには、『山の上で出会った白い着物の女の人。すごく冷たい空気だったけど、心だけが温かかった』と書かれていた。


「この人が、もしかしたら……」


 私の心に、かすかな震えが走った。それはもしかすると、私の祖母か、そのまた前の代の雪女なのかもしれない。


「母さんね、その人と話したって書いてる。『あなたも孤独なの?』って聞かれたって」


 私達はしばらく、そのノートを無言で読み続けた。ページのすべてが火野翔真の原点であり、彼の熱の痛みの証だった。


「俺、たぶんさ。ユキさんに惹かれたのって、これが理由なんだと思う」


「理由……?」


「母さんが、冷たい人に救われた記憶を、俺が無意識に覚えてたんだ。君に会った時、この人なら俺を燃やさないって感じたんだよ」


 私は言葉を失った。なぜなら、私もまた、彼と出会った瞬間にこの人なら私を溶かさないと感じたから。しかも、それは火野と同じ無意識だったと今気付く。


 違う温度を持つ二人が、それでも惹かれ合う。それはきっと、前世や記憶なんかじゃなく、ただの選択なんだ。


 帰りのバスは、下り坂をゆっくりと走っていた。車窓から見えるのは、溶けかけた雪と、所々に咲き始めた梅の花。季節の境目は、こんなにも曖昧で、不安定で、でもどこか優しい。


 火野はずっと黙っていた。たぶん、母の事を思い出しているのだろう。私は何も言わず、ただ隣に座っていた。言葉をかける必要がない。そう思える静けさが、むしろ嬉しかった。


 だけどその夜。私は、久しぶりに悪い夢を見た。真っ白な雪原。視界のすべてが白く染まり、遠くで風の唸る音がする。私はひとり、薄い着物姿でそこに立っていた。そして、雪の中から現れた影が、私の前に立った。


「雪代ユキ……」


 その声は、氷のように冷たかった。けれど、私の名前を呼ぶ響きには、どこか懐かしさが混じっていた。


「お前は、雪女の末裔である。火の者に近づく事と言うのは自らの系譜を汚す事なのだ」


「汚す?」


「我らは清き存在。熱と混ざれば、濁る。そうして、お前は雪を失うだろう」


 すると、影の輪郭がゆらぎ、凍てつく風が全身を打った。そして、言葉にしようとした瞬間、夢は途切れた。それから、目を覚ますと、部屋の窓が真っ白に凍っていた。寝汗とは別の冷気が、肌に残っていた。


 それでも私は、もう怖くなかった。誰かの意志で生きるよりも、自分の気持ちに従いたかったからだ。そして、その日の昼に川口くんから連絡があった。


「近いうちに、使者が来ると思う。君に選ばせるために」


「選ばせる……?」


「火野と一緒にいること、それを雪女の一族が正式に拒む場合……。君の血は凍結される」


「それって……。私が、雪女じゃなくなるって事?」


「半分ね。冷気を失い、寿命も人間に近くなる」


 私は、静かに頷いた。それは罰なんかじゃない。ただの、選択だ。私が、何を大切にしたいかだけの話。


 そして、その夜。私は火野に会いに行った。会社の前で待ち伏せしていた私を見て、彼は少し驚いた顔をした。


「え、どうしたの?」


「大事な話が、あるの」


 カフェの窓際の席に座り、私はすべてを話した。夢の事も、一族の事も、選ばなければならないことも。火野は黙って聞いていた。時折、眉を寄せたり、頷いたり。でも最後まで何も言わなかった。そして、私が言った。


「私は、貴方を選ぶ。雪女でなくなってもいい。凍った心で誰かを拒むより、熱くても貴方と笑っていたい」


 火野は、しばらく沈黙したあと、静かに目を伏せた。


「ごめん、ユキさん。俺、今のままじゃ君を守れないかもしれない」


「それでもいい。守ってほしいんじゃなくて、一緒に歩きたいだけだから」


 彼の手が、そっと私の手に触れた。昨日と同じように、少し熱い。でも、今日はもう怖くなかった。その温度が、私の決意を包み込んでくれるようで。とても、やさしかった。

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