第8話 夕暮れの入り口、開いたドア

その日は、少しだけ夕暮れが早く感じた。


柔らかな橙色の光が、店の中を斜めに照らしていた。光と影が交じり合って、床にゆらゆらとした模様を描く。


 


「ねぇ、ドアが……少しだけ開いてる」


アイリがぽつりと呟く。


 


いつも閉じられているはずの、店の裏側の小さな扉。


知らないうちにほんの数センチ開いていて、そこから外の風がかすかに吹き込んできていた。


 


「……こんなドア、あったっけ?」


俺は眉をひそめながら近づいて、手を伸ばしかける。


でも——その瞬間、眠り猫がふいに立ち上がって、俺の足元にまとわりついた。


 


「なに? 行くなってこと?」


 


眠り猫はにゃあとも鳴かず、ただじっとこちらを見つめてくる。


その目に映るのは、言葉ではなく、“感じて”ほしい何か。


 


「……でも、アイリが気になってるなら、少しだけ見てみよう」


アイリと目を合わせて、静かに頷く。


眠り猫はしばらくその場を動かなかったけれど、やがて諦めたようにくるりと身を翻し、棚の影へと戻っていった。


 


俺たちはそっと扉に手をかけ、きい、と音を立てて開いた。


その先に広がっていたのは、外とは違う、まるで別の空間だった。


 


薄暗い通路。壁には古いポスターや、どこかで見たことのある風景画。


足元には木の床が続いていて、歩くたびにぎしぎしと小さく軋む。


 


「なんだか……夢の中みたい」


アイリが小さく呟く。


たしかに、現実のようでいて、どこか現実ではない。


空気が少し重たくて、でも懐かしい匂いがした。


 


その奥、ほんの少しだけ開いていた扉の先から、ふいにラジオの音が聞こえてきた。


 


——こちらは、午後のひととき。懐かしの声を、あなたに届けます。


 


「……ラジオ?」


でも、この店にはラジオなんてなかったはずだ。


俺たちは静かに足音を殺して、その扉の先をのぞいた。


 


そこには、小さな部屋があり、ひとつのソファと、ぼんやり光るラジオだけがぽつんと置かれていた。


ラジオの上には、一冊のノート。


その表紙には、ペンでこう書かれていた。


 


「忘れたくなかった時間」


 


アイリが手を伸ばしかけた時、ラジオがふいに切り替わる。


 


「……もし、誰かがこの声を聞いているのなら——

あのときの約束を、まだ覚えていてくれたら。

私は、ここで待っています」


 


「……誰か、ここにいたのかな」


アイリがそう呟いた瞬間、ラジオの音はふっと途切れた。


部屋はまた、静けさの中に沈む。


 


俺たちはラジオの隣に置かれていたノートを開いた。


そこには、日付も名前もないまま、ぽつぽつとした言葉が綴られていた。


 


今日は彼が笑った。

コーヒーが少し苦くて、私は砂糖を二つ入れた。

帰り道、彼は少しだけ寂しそうだった。

……その理由を、私はまだ聞けていない。


 


アイリはそっとページを閉じて、ノートを元の場所に戻す。


「……誰かが、ここに何かを置いていった。忘れたくないものを」


俺は黙って頷いた。


そしてまた、静かに扉を閉じた。


 


戻ると、眠り猫がいつのまにかカウンターに座っていて、じっとこちらを見ていた。


「ただいま」と小さく言うと、眠り猫はふにゃっとあくびをして、また丸くなった。


 


夕暮れの色が、すこし濃くなっていた。


外ではきっと、もう夜が始まっている。


でもこの店では——まだ、“あの午後”の続きのような時間が流れていた。


 


——続く

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