第8話 泥沼

 家に帰ってリビングで叱られている時、「犯人が捕まった」とニュースが流れた。

教授が意識を取戻して似顔絵が作られ、ホテルの元従業員の三十歳の男が、

「 おばさんが来るたびに違う男を連れてくるから自分も、と思って先客の帰った後監視カメラを停めて部屋へ行って、襲いかかったら反撃され思わず刺してしまった 」と自供したとのことだ。

似顔絵の眉と口元がそっくりだったこと、警察が監視カメラの映像を繰り返し見ていて、その時間だけワープしているのに気付き、そんな操作は従業員しかできないと判断、行方を追って自供へと追い込んだ、そんな風にキャスターは言ってる。

警察は記者会見で、「事件発生当初には早送りで不審人物を捜索していたので十分ほどの飛びには気付かなかった」と苦しい言訳をし、頭を下げたようだ。

―― あーやっと疑いが晴れたんだぁ …… 色んなことが起きて殆ど忘れかけていたけど、やっぱ嫌疑が晴れるという事は嬉しい限りだ。

従業員は東京近郊の土木工事現場で働いているところを発見されたらしい。

気になるのは、父親と教授の関係は報道されてないから、ひょっとすると背後にまだ何かあるんじゃないか?



「ほら、帰ったんなら、お前が散歩へ連れてけ」

玄関で父親が発した第一声だ。「おかえり」でも「しばらくだな」でもない、そんな親、有り得ないだろう?

誰か違うと言えるか?

父親がリードを強引に引っ張って僕の方へ突き出すと、前足を突っ張って散歩を嫌がる素振りのちゃめが廊下を滑るように現れる。そして僕と目が合うと、「クーン」と鳴き尻尾をぶるんぶるんふって飛び付いてくる。

―― なんとも可愛い奴だ ……


 散歩途中の公園のベンチにちゃめと二人で腰掛け、溜まっていたうっ憤をぜーんぶ聞いてもらいすっきりした僕は、家に戻るなり、「顔見たから寮へ帰る」と告げた。途端に父親は、僕が自宅から通勤するものと思い込んでいたようで、僕の説明なんてどこ吹く風、激しい口調で、「親の意に背くのか!」から始まって、過去の失敗やら親不孝の数々を延々と宣い続ける。

―― またかぁ …… 僕の悲愴感は何の努力もしないくせに僕を支配し君臨する。

そうして今の心境にピッタリな、地の底から湧き出る様な木管楽器の重い低音から始まる『悲愴』と副題を付けられた交響曲のメロディーが脳内に浮かんで、心の中で奏でる。 ―― タリラ タリラリ タ―リラ― ……

一方、耳から入る父親の言葉一つひとつが、

「お前なんて要らない」、

「お前なんて死んでしまえ」、

「お前なんて拾わなきゃ良かった」、…… と変換され僕の心に汚れた染みをつくる。

そんな時だ教授殺害事件が解決したとのニュースが流れたのは。


*     


 それでも何とか生きながらえて寮に戻ると、その日に月一度の月例会があるとのメモがポストに……。

僕が主役になるらしいことはわかるが、その準備係にも名を連ねている。

その会という名の飲み会には強制的に出席を求められる。特に独身者はその準備係をやらされる。六名で男と女半々。若い順と決まっちゃってるから着任早々僕がその係に指名されたのはしょうがない?

 その『集い』が始まると、独身男性もみな寮では自炊するのが『しきたり』と聞かされ、僕もチャレンジャーと化すしか生き延びる手立てはないらしい。

それにゴミ出しや夜間の騒音、おまけに近所の挨拶にまでこうるさく決められているのは、曲がりなりにも一端の『都市銀行』という看板をしょった寮だからということなんだけど、まぁ砕いて言えば、『見栄』だね。


 その会を通じて寮のことが色々わかってきた。

その寮は五階建てで五十世帯が入居していて、同様の寮は都内に十カ所程あると聞く。

独身男性と世帯者が混じっているのはわかるが、独身女性が希望するはずないだろうという僕の予想は外れたのだが、「そもそもそんなところを希望するなんて『訳アリ』に決まってる」というのが専らの噂だ。

管理人はいない。課長クラスまでは入居可能で、その上や支店長クラスは戸宅が当たる。

だから、わかると思うがみな課長クラスの夫人に止まらず子供らに、否、ペットに対してまでおべんちゃらやら何やら、見ても聞いてもいられないというのが僕の感想だ。

唯一同じ総務課の上司に当たる人は一般マンションや戸宅に住んでいて救われた。


 ところがやっていてびっくり、そのメンバーに僕の気持ちを惹き付ける可愛い娘がいるではないか。が、『あばずれマドンナ』のトラウマがあって話しかけられない。

しかもその娘を狙う先輩の『独身男』が僕の気持ちを察知し、「手を出すなよ」とばかりにガンを飛ばしてくる。もちろん先輩を無下にはできないから肯いたのだが、何が気に入らないのか僕に嫌がらせを始めたんだ。

これまでに受けた『虐め』に比べたら屁みたいなもんだが、嫌は嫌だ。

例えばと聞かれると困るが、……そう、参加数を知らされてその分のドリンクを用意しテーブルに並べ終えると、それを待っていたかのように、「おい、言った数よりふたつ少ないぞ。俺の話をちゃんと聞け! ドジ臭い奴ださっさと買ってこいや」とか、逆に余ったら、「その分お前の個人負担だからな」、……

てな具合だ。

でも「嫌だ」、「違う」、「断ります」などと言えないのが、僕の僕たる所以。じっと我慢。

 そんな様子を見かねて心優しい『その娘』が僕を庇うようになる。と、『独身男』の虐めはエスカレート。それはしだいに僕を庇う『その娘』にも及ぶ。

ほかの男女は見て見ぬふり、関わって来ない。

 僕の悩みが深まりつつあるそんなある日、準備係の別の男が『独身男』のことを、

「彼は推進部で部長からハラスメントを受けていて君を虐めてストレス解消をしているんだ」と語るのだ。

そして、「悪いとは思っても止められないと悩んでいるらしい」と聞かされて驚いた。

だからって、「じゃ、僕はどうしたら良いの?」と強く言いたい。

『独身男』もまた『その娘』を好きなのだが素直に言えず悪戯をして気を引こうとするタイプの、そう、真に『ガキ』なのだ。

 やがて『独身男』は『その娘』を準備係の時ばかりでなく、平日の退行後に尾け回し始めたらしく、怖いと感ずるようになった『その娘』は僕に、「ストーカーなの助けてくれない?」と訴えてきた。

が、しかしそんな人を助けるなんて事がどうして僕にできると思ったのか?

当然のように『その娘』に何もしてあげられずにずるずると日にちだけが過ぎて行き、突然、「『その娘』が退職したよ」と会の準備の時に聞かされ、唖然とした。

『独身男』は泣いていたが、僕はその姿を見て陰で憎しみを込めてせせら笑ってやった。

僕は僕自身何もしなかったことを恥て責めた。後悔を山のように築き上げてきた僕、また新たな『悔い』を積み上げてしまった。 

―― 僕は何を言われても、何をされても、ずーっと我慢しかしてこなかったけど、みな同じじゃないんだ ……

その退職は淡い僕の想いに終止符を打つことにもなって、悲しい、寂しい、辛い、……

―― どうして僕は『独身男』にも『その娘』にも何も言えなかったんだろう? ……

そんな僕は、「ダメな奴」、やっぱ死んだ方が良かった。そうしたら『その娘』にも会わずに、『その娘』が虐められずに済んだはずだ。

―― 僕が生きてることが悪い事なんだ ……

―― どうせ何もできやしない ……


 僕は銀行をさぼって実家に帰りちゃめに相談した。

「どうやって死んだら良い?」

ちゃめはちょっと悲し気な顔をしてそっぽを向いてしまった。

仕方が無いので寮へ戻ろうとすると、父親に呼び止められ、

「長男なんだから、毎月十万円の仕送りをしなさい」と命じられた。

―― 手取りの半分近くを持って行かれるぅ …… お洒落とかにも少しは興味を持ち始めた僕にとって、「そんな趣味は捨てろ!」と断じられたようなもの、反抗心はあってもいかんともしがたく泣きの涙で肯いたんだ。

加えて、『長男なんだから』という接頭語がついて、先祖の墓と寺への『年三回のお参りの日』とお坊さんの『お盆の檀家回りの日』には、休みを取って一日いなければならなくなった。そうしなければ父親の雷鳴が轟くのだ。

課長にそのまま伝えたら、「ろくに仕事もできないくせに、休みだけは一丁前にとるんだな」だって。

母親は弟と妹が夫々北海道と九州の大学へ行ったまま、盆正月も帰って来ないと零すんだけど、なんで父親はそんな自由を許すんだろう? 僕の時とは随分違うと思わないか?

―― それもやっぱり僕が『拾われっ子』だから …… そう思うしかないだろう。



 銀行の『花形』である営業マンはもてる。それは至極当たり前のこと。逆に本部行員は専門性の高い職種以外は『窓際族』とバカにされる。その中の一人になったと総務部の歓迎会で知らされ、

「だから肩の力を抜いてじっくり仕事してくれ」

励まされてるのか、期待されてないよと言う事なのか、何か別の理由があるのか、はたまた酔っ払いの戯言なのか、皆目見当が付きかねる。

 本部へ異動しても色々あって、精神的に軽くなったとか、穏やかだとか、健康的だとかはまったく無く、辛い、苦しい、恐ろしいの三拍子そろった泥沼にはまって抜けだせそうにない。

そんな日々でも生きながらえている僕は『生命力が強い』ということ?

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