第十一話:名前
聖堂の外は荒れていた。 風が途切れず吹き抜け、重い雲が空を覆っている。 アスイェはこの空を知っていた。 ――神罰が下る前に広がる、あの色。
彼は眠らない。 石の座に身を預け、腕の中でセラフィナを抱いていた。
幼きその身は温かい。 だが、もはや人ではない。 この熱は病の残滓ではなく、生そのものの証だった。
脈がある。 皮膚の下で確かに打ち、ドクン、ドクンと響く。 アスイェには、それが音楽のように、美しかった。
セラフィナはまだ眠る。 けれど血は、すでに目覚めている。 言葉でも、仕草でもなく、さらに深い次元で。
その応えは、皮膚に浮かぶ契印とは異なる。 形もなく、色もなく。 ただ気配の底に沈み込み、共鳴として広がっていた。
アスイェは目を閉じる。 初めての感覚が、胸を満たしていた。
彼は誰とも契約を結んだことはない。 吸血鬼にとって、それは命と同じ重みを持つ認定だからだ。
血は器。思いは鍵。 一方が認め、一方が受け入れる。 その瞬間にだけ、証が結ばれる。
幼い彼女は、何も知らない。ただ、彼に身を預け、深く眠った。
ただ信頼するアスイェに身を任せ、深い眠りについた。
この信頼の深さが、儀式も呪文もなく、契約を結ばせた。
儀式はなく、呪文なして成立する契約より深い何かを。
アスイェはセラフィナのうなじにそっと指を添える。
セラフィナは感じ――わずかに身をすくめた。
*
アスイェはセラフィナを抱いた時はまるで霧を手にしている様だった。
セラフィナは元々体重があまり感じない。起きている時は少し動いて、アスイェにとってそんなセラフィナは子猫と同じだった。
今、セラフィナはまた寝落ちしていて、その静けさは息づかいすら奪われたかのようだった。
動かぬ今は、子猫よりも頼りなく、霧のように腕の中で揺れていた。
アスイェはまるで形がある霧を腕に持ち上げていたようだった。
その時、彼は別の感覚を覚えた。 最初は気に留めることもなかった。 体から何かが引き出されていく――そんな感覚だった。 寒さでも、飢えでもない。痛みでも、裂かれる苦しみでもない。
一本の糸が、静かに優しく引かれていく。
アスイェは、ただ見つめていた。 セラフィナは動かない。顔を胸に預け、羽のように軽い呼吸を繰り返している。まつ毛がかすかに震え、夢の底に繋がれているようだった。
力は、静かに、少しずつ抜けていく。 その力はわずかで、アスイェにとって害はない。 だが――セラフィナにとっては、それは幼い吸血鬼が初めて血を啜るのと同じだった。
幼い吸血鬼の最初の摂り方は、たいてい抑えが効かない。 今がまさにそうだった。
アスイェは止めなかった。 この子がこの力を必要としていると、知っていた。
セラフィナは元より死にかけの身。
目の前に「食べ物」があるのに口にしない者こそ、愚かだ。 アスイェが与えるものこそ、セラフィナにとって新しい「もと」だった。
そのとき、胸の奥で騒ぎが起きる。 吸血鬼には心臓はない。 だが、この体の奥で沸き立つざわめきは確かだった。 それは騒音ではなく、むしろ静かな共鳴。
やがて、幼い吸血鬼の騒ぎは鎮まっていく。 セラフィナの体温は落ち着き、呼吸はさらに静かに。 小さな鼓動が、彼自身の脈とひとつに重なっていくようだった。
言葉はまだない。 だが、それは古い宣言のように響いていた。
──私は、ここにいる。
セラフィナはなおも食み続けていた。 アスイェは止めなかった。
しばらくして、彼は低く言った。
「ほどほどにな……」
その声は緩やかで、責める響きはなかった。 ただ、幼い吸血鬼に教えている。
与えたものは贈り物ではない。 信頼の証だと。
セラフィナは彼を必要としている。 そして、彼もまた、この子が自分を傷つけないと知っていた。 だから与え続けた。
返事はない。 だが、アスイェはわかっていた。 子供の耳に、その声が届いていることを。
体の熱が静かに冷えていく。 やがて、二人の体温はひとつに揃っていく。 冷やされた温もりを、セラフィナは好んでいるようだった。
アスイェは、彼女をさらに近くへと引き寄せた。
*
幼い子が目覚めたのは翌日の夜明けだった。
日の光はまだアスイェの部屋に入ってこない。
外の風はまだ強く、時よりその風が窓枠を叩く。
それでもその音が怖い幼い子は音も立てず、アスイェの腕の中に彼を見つめた。
彼を起こさないように、その仕草はゆっくりで、優しかった。
しかしアスイェはもう起きっていった。
アスイェはベットが必要ないしセラフィナは揺籠よりアスイェに抱いて寝てる方がお好みだった。
ただいま、アスイェは窓枠に座り、セラフィナを抱いてあげている。
セラフィナはどんなにそっとをしてもアスイェは感じられる。
彼は上からセラフィナを見た。
「腹、減ったか?」
返事はなし。
アスイェはセラフィナの返事は期待していないが、今日は何かと違う。
「……フィ……」
アスイェは待っていた。
「……フィナ」
あの声は軽く震え、まるで夢の底から引き上げられた残響のようだった。
アスイェの目つきが少し変わったが、当然セラフィナはわからない。
「……セラ……」
その次の声が出る前にセラフィナは何かに息が一瞬詰か、疲れたか、
アスイェの肩で小さく咳を漏れた。
幼きセラフィナはまだ自分の名前が言えない。
アスイェは笑って、セラフィナの頭が肩に乗せるまま、赤子の背中を軽く叩き、赤子をおちつけされた。
やがてアスイェは呼んだ。
「……セラフィナ」
説明はない、ただセラフィナは答えた。
その名はセラフィナの血と魂の中に刻まれた。
セラフィナは抱き上げられ、目線を合わされた。
「おはよう」
それは一つの確認──お前は、ここにいる。
今からセラフィナはもうボロボロの聖堂から拾った子供ではないし、恐れべき化け物でもなかった。
その日の夜、アスイェはセラフィナを連れて聖堂に離れた。
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