第十話:呼びと答え


アスイェが目を覚ましたとき、朝はまだ訪れていなかった。
聖堂の壁の隙間から差し込んでくるのは、月光ではなく、湿り気を含んだ冷たい空気だった。
石の床には夜の気配が染み込み、冬の気配はまだ遠のかない。

誰かが傍にいる。――感じるまでもなく。
赤子はアスイェのすぐそば、触れるほどの距離に身を寄せていた。

アスイェは、最も古く、気高き吸血鬼だ。
これほどまでに近づく者は、ただ死を迎えるのみであるはずだった。

それだけではない。
幼い女の子は、アスイェを「見つめて」いた。
いや、正確には「見ている」とも少し違う。
まぶたはわずかに開いていたが、意識はまだ夢の奥に沈んだままだった。

その顔は穏やかではない。
夢の中から戻れず、深くさまよっている者の顔だった。

幼い身体はわずかに熱く、顔色も冴えない。
だが、それでも――アスイェの「呼び」を待っている。

彼はまだ、この子に名を授けていない。

小さな手が、アスイェにしがみついていた。
アスイェはその手をじっと見つめ、
ひとつ、またひとつと指をほどくようにして、そっと離した。

だが、その手が自分の中にあったとき、
幼子の身体は、ますます彼に寄り添っていた。

「もう起きたか?」
その声は、幼子の耳に静かに届いた。

夢の出口がやっと見えたかのように、
幼子は静かに、意識を浮上させる。

目覚めた。
青い瞳が、まっすぐアスイェを見つめていた。

「……俺はどこにも行かない」
アスイェはその小さな手を、優しく握り返した。

幼子がその言葉を理解したのか、
ただ声の響きに導かれたのかは、わからない。

だが――アスイェは気に留めなかった。

「眠ればいい」

少女は、まぶたを閉じた。
その小さな顔と身体は、アスイェの影の中にすっぽりと包まれていた。
まるで、巣に戻った小鳥のように。

***

部屋には、静けさが戻っていた。

夜の深さが、ゆっくりと空間に染み渡る。

その中で、幼子は時折、言葉とも呼べない声を漏らしていた。

それは名ではなかった。

覚えかけの言葉が、夢の底から浮かび上がり、ただかすれた音として滲んでいく。

「……Sia……」

アスイェは応えなかった。

それは彼の名を呼ぶ声ではない。

夢の狭間からこぼれ落ちた、まだ形を持たぬ声。

幼子は目を閉じたまま、彼の胸元に顔を伏せ、眠り続けている。

「……Sia……」

夜がさらに深く、静かに満ちていく。

アスイェがほんの少し身を引こうとしたとき、

小さな手が、まるで何かを確かめるように、彼の手を探し始めた。

「……Sia……」

声は、先ほどより少し慌てていた。

不安がにじむその音に、アスイェは依然として応えなかった。

けれど幼子は、それに気づかず、また彼の名を探すように呼ぶ。

何度も、確かめるように。

熱は、もう戻っていた。

呼吸も浅く、静か。

そして、アスイェは確かに、どこへも行っていない。

子どもの不安に、怒る理由などなかった。

むしろ、無言のまま寄り添うことのほうが、よほど自然だった。

彼は窓辺に腰を下ろし、幼子をその腕に抱いたまま、静かに目を閉じた。

その呼び声はなおも続いていた。

「……シア……」

やがてアスイェはそっと目を開けた。

幼子の頬は、彼の胸に寄せられている。

その位置はちょうど心臓の上。

もちろん、吸血鬼に鼓動などない。

けれど、確かにそこには「重み」があった。

アスイェは動かない。

ただ、沈黙の中で、幼子の気配を受け止めていた。

「……うん……」


幼子は、その声を聞き逃したかのように、ぴたりと止まった。
胸の中で、静かな間が落ちる。
それから、まるで確かめるように、もう一度だけ口を開いた。

「……シア……」

それはアスイェの名ではない。
けれど、彼の名を遠慮なく呼ぶことを許された者は、もうどこにもいない。
名は、与えられた者のもの。奪われれば、二度と戻らない。

「俺の名は、アスイェだ」

低く、短く。
だがその声音に、咎めの色はなかった。
腕の中の小さな生き物に、視線を落としもしない。

久しく耳にしなかった笑い声が、胸元でふっとこぼれた。
その笑いはかすかで、頼りなく、それでいて確かな温度を持っていた。
頬が、胸にぴたりと押しつけられている。
そこから、初めて――「満足」という響きを聞いた気がした。

アスイェは言葉を返さなかった。
ただ、瞼を閉じる。
幼子の小さな手が、ゆっくりと彼の指先をなぞり、探すように動く。
その動きを逃がさぬよう、そっと自分の掌に包み込んだ。

部屋には、再び静けさが満ちた。

幼い女の子は、長いあいだアスイェの胸に伏せていた。
重さを感じさせぬほど、静かに。

服は湿っていた。
それが彼女のせいでも、アスイェは離さなかった。
あたかも、その重みを確かめるように。

彼は、本来「頼られる」ことを好まない。
応じれば、簡単には手放せなくなるからだ。

だが、この子はまだ幼い。
「頼る」ことも、「離れる」ことも、知らない。
ただ、小動物のように、本能のまま温もりを求めているだけ。

アスイェの指が、そっと背に添う。
熱はすでに平熱に戻り、呼吸も静かだった。

実験も、病も、この子を奪えなかった。
――間違いなく、生きられる。



子には、まだ名がなかった。
必要とされなかったからだ。
捨てられた名は、捨てられた子とともに消えた。
それ以前、この子はもとより生け贄だった。

呼ぶときは、番号で足りた。

アスイェが初めてその幼い女を見たとき、
救うつもりなど、決してなかった。
――そのはずだった。

だが、この小さな命は、今ここにある。

「……セラフィナ」

冷ややかに、彼は呼ぶ。
それは呪の響きにも似て、静かに落ちる。
血を与えるときと同じように、
その呼び声は、一つの承認だった。

子はわずかに動いた。
魂の底で、何かを聴き取ったように。

拒む術など、最初からなかった。
それでも――その身は、
この名を待っていたかのように、かすかに笑った。

「……セラフィナ」

アスイェは、もう一度呼んだ。


その呼び声は、アスイェのいつもの声と変わらなかった。
低く、静かで、揺るがない。
まるで雪風が二人のそばをかすめて通り過ぎたかのように、淡々としていた。

幼子は悟った。
それが自分の名前であることを。
そして、どうにか応えようとした。
――名を呼び返したいのだろう。
けれど、その小さな口の奥で言葉は回り、形をなさぬまま、ただ一つの吐息に変わった。

アスイェはその子を見つめた。
殻を破りきれぬ雛のように、声を、体を、魂を探し求める存在。
その不完全さごと、まだ命の形を模索する姿を、静かに受け止めた。

彼は手を伸ばし、幼い髪に触れ、腕に力を込めて抱き寄せる。

「……セラフィナ」
三度目の呼びかけは、確認の儀式のように響いた。
その名は、滅びた子と、いまここにある命とを分かつ線でもあった。

風は止み、木々の枝は揺れを忘れ、この地のすべてが静止したかのようだった。

セラフィナはゆっくりと目を開いた。
それは覚醒ではない。ただ瞼が静かに持ち上がったにすぎない。

その瞳は灰青――本来ならアスイェと同じ色。
だが今は血を思わせる赤に染まり、その奥には、果てのない血の海が広がっていた。
光は欠け、虚ろにアスイェを見つめ返す。

アスイェは手のひらを伸ばし、その小さな瞳を覆った。

「閉じろ。まだ目覚める時間ではない」

それは子守唄ではなかった。
けれど、セラフィナには届いた。

微かに震えながら、彼女は瞼を閉じる。
アスイェの掌がすべての光を遮り、幼子はようやく力を抜き、腕の中で小さく丸まり、眠りへと沈んでいった。


***

アスイェが口にしたのが「自分の名」だと悟ったのは、
彼が初めて聞くその単語――「セラフィナ」を発した瞬間だった。

名を与えるということが、
自分を育てようとする深い絆の証なのだと、幼いながらにぼんやりと理解する。
だから、自分も応えなければ、と必死に思った。

――名を呼び返したいのだろう。
けれど、その小さな口の奥で言葉は回り、形をなさぬまま、ただ一つの吐息に変わった。

アスイェはその子を見つめた。
殻を破りきれぬ雛のように、声を、体を、魂を探し求める存在。
その不完全さごと、まだ命の形を模索する姿を、静かに受け止めた。


彼は手を伸ばし、幼い髪に触れ、腕に力を込めて抱き寄せる。

「……セラフィナ」
三度目の呼びかけは、確認の儀式のように響いた。
その名は、滅びた子と、いまここにある命とを分かつ線でもあった。

風は止み、木々の枝は揺れを忘れ、この地のすべてが静止したかのようだった。

セラフィナはゆっくりと目を開いた。
それは覚醒ではない。ただ瞼が静かに持ち上がったにすぎない。

その瞳は灰青――本来ならアスイェと同じ色。
だが今は血を思わせる赤に染まり、その奥には、果てのない血の海が広がっていた。
光は欠け、虚ろにアスイェを見つめ返す。

アスイェは手のひらを伸ばし、その小さな瞳を覆った。

「閉じろ。まだ目覚める時間ではない」

それは子守唄ではなかった。
けれど、セラフィナには届いた。

微かに震えながら、彼女は瞼を閉じる。


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