第一話:十度目の鐘(かね)

冬の朝、教会の鐘はいつもより長く鳴り響いていた。そのかねの音は重く、にごっていて、どこか遅れて響く。それはまるで、巨大な何かが水底へ沈んでいくときに生じる、濁流だくりゅうの中で反響はんきょうするような音だった。


鐘舌しょうぜつには鉄錆てつさび風雪ふうせつが絡まり、鳴るたびに、寒さそのものを引きずって天頂てんじょうから落ちてくるかのようだった。

教会の高い天窓は、外の冬空と同じ、冷たくくもっていた。石の壁にはひびが入り、窓枠まどわくの隙間から微かな風が忍び込む。光と影が交差こうさするその聖堂は、まるで時が止まったように静まり返っている。


鐘の七つ目が響き終えたとき、襁褓きょうほうの中の幼子おさなごがわずかに身を震わせた。



目覚められず、眉間に皺を寄せ、まるで夢の中でもがいているようだった。白い額には薄く汗がにじみ、布の端に触れた唇は、かすかに震えていた。喉の奥から、震えるような声が漏れる。小さな声――だが、それはもはや、断続だんぞく的で死にぎわする音ではなく、初めて、そこに「せい」のざわめきがあった。不快ふかいで、鐘の音への抗い。

八つ目の鐘が響いた。

そしてその身は、初めて、はっきりと声を上げて泣いた。

その泣き声は、引き裂かれるような音、凍りついた土の深層しんそう突如とつじょ割れる音のようだった。数日前、死に際にあったはずの小さな体から、こんなにも大きく、いきいきとした声が響くことなど、誰も想像できなかった。


重苦しい空気が揺らぎ、聖堂の奥にわずかな気配が走った。


この瞬間、その身は赤子ではなく、運命へあらがうひとりだった。

執事は廊下から慌てて部屋に入った。

「どうしまし――?!」


執事の声はぴたりと止まった。赤子がアスイェの腕の中にいるからだ。「鐘の音が大きすぎる」アスイェは低い声で告げた。「このものは、それを嫌がっている」命じることもせず、赤子の耳を塞ぐこともなかった。


ただ、教会の正殿の奥へと歩みを進め、九つ目の鐘がる前に、あの古びた石の椅子に腰をかけた。

り減った石のゆかに、アスイェの長靴ながぐつの音が淡く響く。聖堂の空気はこおりつき、古びた祭壇さいだんの上の燭台しょくだいすら、薄いしもおおわれていた。

赤子はアスイェの腕の中に泣き続けたが、音は少しずつ静まっていった。

の指先はアスィエの胸元の衣服を掴み、不安げに縮こまり、寒い風の中で温もりを求めているようだった。

十つ目の鐘がった。

最後の鐘のが石壁を通しその振動がおさめる瞬間、赤子の泣き声もおさまった。唇の端には一筋ひとすじの冷たい息が残っていた。赤子は息を吐いてやがてその白い霧は消えた。

アスイェは赤子を見下ろした。

「音が怖い。寒さも、孤独こどくも、痛みも怖い」

「お前、結構怖がりだな」


赤子は目を開けることなく、ただアスィエの腕の中で静かに身を寄せ、顔を彼の胸の中へさらに深く埋めた。まるで生まれつき、この人は怖い音から連れ出すみたいに。

執事はアスィエの遠い後ろの扉の前に立ち、その光景を見て、呟く。


育児いくじとは、育てることではなく、“その時”が訪れるまで、ただ耐え忍ぶことなのです」

「けれど、もし彼が進化せず、牙を剥かず、反撃もせずにいれば――その『時』は、永遠に訪れない」ならば、これは何なのだろう。結末の見えない、終わりなき子守りだとでも言うのか。

執事に問いを発する資格はない。アスイェも答えてあげない。

教会の灰色の天光が、丸窓から静かに差し込み、ふたりの姿を照らしていた。彼らはまるで、生き物とは思えないほど静かだった。それでも、世界のどんなものよりも、「生きている」ように見えた。

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