第2話「スウィルカールで、勇気をひと巻き」



朝、鏡の前で立ち尽くしていた。


昨日の出来事が夢じゃなかったことを確かめるように、何度も自分の顔を見つめる。変わっていない。当たり前だ。まだ何もしていないのだから。


でも、心の中で何かが動き始めていた。


「おはよう、ひよりちゃん」


教室に入ると、ルカが窓際の席から手を振っていた。朝日を背に受けて、まるで天使みたいに見える。


「お、おはよう」


クラスメイトたちの視線を感じた。転校生の私が、学年一の美少女と呼ばれるルカと親しげに話している。きっと不思議に思っているだろう。私自身、まだ信じられない。


授業中、ノートを取りながらも意識はずっと放課後のことで占められていた。ビューティ・ソーサリー部。魔法。変身。どれも現実離れした言葉ばかり。


でも、アリサ先輩が見せてくれたあの輝きは本物だった。


給食の時間、いつものように一人で食べようとしていると、ルカがトレイを持って隣にやってきた。


「一緒に食べよう」


断る理由もなく、向かい合って座る。周りがざわついているのが分かった。


「みんな、見てるよ」


「見られるのは慣れてるから」


さらりと言うルカ。きっと、生まれた時からずっと注目される側の人間だったんだろう。


「私は……慣れない」


「大丈夫。すぐに慣れるよ」


その言葉の意味が、その時は分からなかった。


放課後、昨日と同じようにルカに手を引かれて旧校舎へ向かう。階段を上りながら、胸の鼓動が早くなっていくのを感じた。


期待と不安が入り混じる。本当に私なんかが変われるのだろうか。


「来てくれたのね」


部室のドアを開けると、アリサ先輩とミオ先輩が笑顔で迎えてくれた。昨日と同じように、部屋は甘い香りに包まれている。


「今日は、最初の魔法を教えてあげる」


ルカが私を大きな鏡の前に立たせた。映った自分の姿を見て、思わず目を逸らしそうになる。


「まず、自分をちゃんと見ること。それが第一歩」


「でも……」


「分かるよ、その気持ち。私も最初はそうだった」


ミオ先輩が優しく肩に手を置いてくれた。温かい手のひらから、励ましが伝わってくる。


「髪から始めましょう。一番変化が分かりやすいから」


アリサ先輩が、小さな杖のようなものを取り出した。透明なクリスタルがついていて、光を受けてキラキラと輝いている。


「これは?」


「ビューティ・ワンド。魔法を使うための道具よ」


ルカが私の手に、同じような杖を握らせた。思ったより軽くて、手にしっくりと馴染む。


「じゃあ、最初の呪文を教えるね」


深呼吸をして、ルカが唱え始めた。


「スウィルカール、風よ、わたしの勇気を巻き上げて」


その瞬間、ルカの髪がふわりと舞い上がった。見えない風が髪を優しく包み込み、綺麗なカールを作っていく。まるで、プロのヘアスタイリストが丁寧に巻いたような、完璧なウェーブ。


「すごい……」


「次は、ひよりちゃんの番」


緊張で手が震えた。杖を持つ手に汗が滲む。


「大丈夫、力を抜いて。魔法は心の状態と連動してるから」


「でも、私なんかができるわけ——」


「その『私なんか』をやめること」


ルカの声が、いつもより少し厳しかった。


「自分を否定する言葉は、魔法を弱めるの。だから、今この瞬間だけでも、自分を信じてみて」


言われた通り、目を閉じて深呼吸した。心を落ち着けて、呪文に集中する。


「スウィルカール、発動——」


声が震えた。でも、最後まで言わなければ。


「世界でいちばん、かわいい私へ」


何も起こらなかった。


目を開けると、鏡の中の自分は相変わらずストレートヘアのまま。期待していた分、落胆も大きかった。


「やっぱり、私には無理なんだ」


「待って」


ミオ先輩が私の髪に触れた。


「ほら、見て。少しだけど、動いてる」


言われて良く見ると、確かに毛先がほんの少しだけカールしていた。本当に小さな変化だけど、確実に魔法は発動していた。


「すごいじゃない!初めてでこれだけできれば十分よ」


アリサ先輩も褒めてくれた。でも、私にはその小さな変化すら、信じられなかった。


「これは偽物だ」


心の中で、そんな声が聞こえた。魔法で作った変化なんて、本当の自分じゃない。


そんな私の心を読んだかのように、ルカが言った。


「このままの私を、魔法にかけてあげる」


「え?」


「魔法は、ないものを作り出すんじゃない。今ある可能性を引き出すだけ。ひよりちゃんの髪だって、本当はこんな風になれる力を持ってる」


ルカが私の髪を優しく撫でた。


「看板の『ビューティ・サロン・シエル』みたいな高いお店に行けば、プロの技術でこういう髪型にできる。でも、それってお金も時間もかかるでしょ?」


確かにその通りだった。


「魔法は、その過程をショートカットするだけ。可能性を形にする、近道みたいなもの」


「でも……」


「最初は誰でも疑う。私もそうだった」


アリサ先輩が、昔の写真を見せてくれた。そこには、地味で大人しそうな女の子が写っていた。今の華やかな先輩とは別人のよう。


「これ、一年前の私。信じられないでしょ?」


「先輩が……?」


「魔法を使い始めて、少しずつ変わっていった。最初は髪だけ。次はメイク。そして、心も」


写真と今の先輩を見比べる。確かに、顔の造形は同じだ。でも、雰囲気がまるで違う。


「変わったのは外見だけじゃない。自信がついて、笑顔が増えて、友達もできた。魔法がくれたのは、きっかけだけ」


ミオ先輩も頷いた。


「私も昔はニキビだらけで、人と目を合わせられなかった。でも今は——」


先輩たちの言葉が、少しずつ心に染み込んでいく。


もう一度、鏡の前に立った。さっきの小さなカールを見つめる。


「もう一回、やってみる」


今度は、否定的な気持ちを押し込めて、呪文に集中した。


「スウィルカール、風よ、わたしの勇気を巻き上げて」


すると、さっきより強い風が髪を包んだ。毛先から徐々に、緩やかなウェーブが広がっていく。


「やった!」


思わず声が出た。まだ完璧じゃない。ルカのような美しいカールには程遠い。でも、確実に魔法は効いている。


「私、できた……」


「そうよ、できたの!」


みんなが拍手してくれた。たったこれだけのことで、こんなに喜んでもらえるなんて。


「明日の朝、この魔法を使って登校してみない?」


ルカの提案に、心臓が跳ねた。


「え、でも……」


「小さな一歩でいいの。誰も気づかないかもしれない。でも、ひよりちゃんは気づく。それが大事」


帰り道、何度も髪を触った。魔法は既に解けていて、いつものストレートヘアに戻っている。でも、あの感覚は覚えていた。


髪が風に舞う感じ。ふわりと軽くなる感じ。そして、少しだけ違う自分になれた感じ。


家に帰って、部屋で一人練習した。最初は上手くいかなかったけど、三回目でさっきと同じくらいのカールが作れた。


「明日……」


制服を見つめる。明日の朝、本当に魔法を使って登校できるだろうか。


怖い。でも、同時にわくわくしている自分もいた。


「泣きながらでも、進んでる。それがいちばん強い」


ルカが言っていた言葉を思い出す。


携帯にメッセージが届いた。ビューティ・ソーサリー部のグループチャットだった。


『明日、楽しみにしてる♡』——ルカ

『応援してるよ!』——ミオ

『絶対できる!』——アリサ


みんなの言葉に背中を押される。


鏡に向かって、もう一度呪文を唱えた。今度は、さっきより上手くできた。


「明日は、きっと——」


窓の外を見上げる。星が瞬いていた。


明日の朝、初めて自分の意志で魔法を使う。それは、新しい私への第一歩。


「かわいくなりたいは、弱さじゃなくて、強さだった」


自分に言い聞かせるように呟いて、ベッドに入った。


夢の中でも、髪がふわりと風に舞っていた。

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