Scene8:雨のなか

和真が言い終えるよりも早く、僕は飛び出していた。


息を切らせて駆け寄ると、そこにいたのは由奈だった。


目は開いていたが、焦点が合っていない。まるで抜け殻のようだった。


「おい、由奈。大丈夫か?こんなとこで……」


僕は彼女の両肩を揺さぶった。


反応はない。ただ、頭がグラリと揺れるだけだった。


和真も駆けつけ、息を呑む。


濡れた地面に崩れるように座り込んだ由奈は、髪を振り乱し、蒼白な顔で動かない。まるで魂が抜けた人形のようだった。


「おい、翠……これは……」


和真の声が曇る。


チリーン……チリーン……


ーーー雨音の中、確かに聞こえた。


澄んだ鈴の音。


直後、校庭中に響き渡るように、無数のカラスが一斉に鳴き出した。


カァーーーー、カァーーーー!


その瞬間、目の前の由奈がゆっくりと立ち上がった。


髪は濡れて顔に張り付き、肌は真っ赤にただれている。


血を流しながら、彼女は頭を掻きむしり始めた。


「うわぁぁぁぁ……いやぁぁぁぁ……!」


絶叫と共に、由奈は自分の髪を引きちぎるようにして掻き乱した。


足元には切れた髪の毛が雨に濡れて散らばっていく。


ーーーこんな姿、さっきまでは……。


「やめろ、由奈!」


僕はその腕を掴もうとした。


だが、予想外の力で跳ね返され、バランスを崩す。


「くっ……!」


その隙に、由奈は僕の首に両手をかけた。


細いはずの指が、あり得ない力で僕の喉を締め上げてくる。


「やめろッ!」


和真が背後から彼女を羽交い締めにしようとしたが、由奈は微動だにしない。


どこにこんな力があるのか。僕の呼吸が浅く、苦しくなっていく。


ヒュウ……ヒュウ……


気管が鳴る音が自分でも聞こえた。


ーーーやばい、意識が……。


その時、ふっと身体が軽くなった。


空気が変わった。足元から柔らかい霧が、まるで“誰か”が歩いてきたように這い上がってきた。


和真が僕の顔を見て、目を見開いた。


「……翠……?」


右頬が熱い。


焼き印のような熱さに、思わず顔をしかめる。


そこに、誰かの声が響いた。


低く、重く、そしてはっきりとした言葉。


ーーーやめろ。


僕の顔を見た由奈が、恐怖に染まった表情を浮かべた。


「いやぁぁぁ……!」


悲鳴を上げて僕の手を放し、後ろへ逃げるように駆け出していった。


僕はその場に崩れ落ちた。


和真が慌てて駆け寄る。


「翠、大丈夫か!?」


息がうまくできず、朦朧とした意識のまま頬に触れた。


そこには、鳥居のような形が浮かび上がっていた。


ーーー紺の……?いや、僕は……誰?


混濁する思考の中、何かが揺らいでいた。


「翠……お前、本当に翠か……?」


和真が、言葉を飲み込むように僕を見つめている。


けれど次の瞬間、その印はすっと消えた。


あれほど焼けつくように痛んでいた感覚も、消え去っていた。


「だ、大丈夫……だから……」


ようやく出た声はかすれていた。


和真は黙って僕を抱きとめるように支えていた。


その足元に、ひとつの鈴が落ちていた。


僕がそれを拾い上げた瞬間。


カァーーーーカァーーーー!


頭上から、無数のカラスが僕たちに向かって急降下してきた。


鋭い爪と嘴が雨粒を切り裂きながら迫ってくる。


「なんだ、こいつら!」


和真は僕を庇い、傘を振り回して応戦する。


だが、群れは次々と現れ、止まらない。


「チッ、埒が明かない……!」


和真は傘を投げ捨て、両手を合わせて口元に持っていく。


小さく何かを唱えるような声が、雨音に混ざった。

手のひらの間に、淡くゆらめく光が浮かび上がった。


そして、強く吹き込まれた息が光を一気に膨張させる。


バンッ!


轟音と共に、白くまばゆい閃光が辺りを包み込んだ。


目が開けられないほどの光。けれど、不思議と怖くはなかった。


ぎぎぎぃぃぃ……!


耳を劈くような悲鳴。


そして、気づけばカラスたちの姿は消えていた。


和真は僕をしっかりと抱きかかえていた。


その目には、今まで見たことのない厳しい光が宿っていた。


「とりあえず、一旦帰ろう。話はそれからだ。」


僕は小さく頷いた。


雨はまだ、止みそうにない。

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