Scene2:学園


「あぁ……やっぱりダメだったわ」


教室の机に突っ伏して、結人がうめくように愚痴をこぼしていた。

今日の英語のテストは、昨日の“予言”通り散々な出来だったらしい。

僕と結人は席が隣同士だ。


「このテストって評価に入るかな……補講は嫌なんですけど……」

「俺は、英語はまあまあ大丈夫だと思うよ」

そう答えると、結人が恨めしそうに僕を睨んできた。


「翠。俺が補講になる前に、次のテストは手伝ってほしいです。お願いします」

両手を合わせて僕に頼み込んでくる。


「ええー……単語なんてどう教えんだよ。暗記だよ?」

「俺が寝てるあいだ、ずっと耳元で単語を読み続けてくれ。そしたら自然と覚えるだろ」


「そんなんで覚えられるなら、みんなやってるって。ははは」


教室の窓の外では、運動部の掛け声や、グラウンドでボールが弾む音が風に乗って届いてくる。放課後の学校独特の、ざわついた空気。廊下では誰かが笑い声を上げていた。

たわいのないやり取りをしていると、巳藤和真がやってきた。


「また翠に泣きついてんのかよ」

「悪いかよ。俺にとっちゃ死活問題なんだ。補講なんかやってたら恋愛もバイトもできないじゃないか!」

結人は突然声を張り上げた。


和真は僕の肩に腕を回しながら笑った。


「お前は自業自得だろ。翠がそんなことに付き合うなんて時間の無駄だ。それに結人、お前、恋愛もバイトもしてないじゃん」

「うっ……」

結人が反論できずに口ごもる。


「お前らって……いつも一緒に遊んでるくせに勉強できるってズルくない?」

結人は肩を落として嘆いていた。

僕は苦笑しながら視線を外す。和真は淡々としているけれど、僕にだけはよく笑う。その表情に少し照れて、目を合わせるのを避けた。


そのとき、放課後を知らせるチャイムが鳴った。


一斉に教室がざわめき始め、椅子を引く音や鞄をまとめる音が重なって響く。


「今日は部活だから行ってくるわ」

そう言って、結人は鞄を肩にかけて立ち上がった。

さっきまでの泣き顔がまるで嘘のように、笑顔に満ちている。


彼は小さい頃からサッカーを続けていて、高校一年ながらエース級の実力者だ。

焼けた肌に、バランスの取れた筋肉。まさに絵に描いたようなスポーツ青年だった。

「夏の大会に向けて頑張らないとな。……ま、過ぎたことを気にしても仕方ない。じゃあな!」


すっかり切り替えた様子で、結人は足早に教室を後にした。

さっきまで落ち込んでいたのが嘘みたいな軽快さ。

この切り替えの早さが、彼の強みなんだろうなと、僕は感心していた。


数人のクラスメイトが「お疲れー!」と手を振りながら教室を出ていく。


窓の外には、暮れかけの空と、赤みがかった雲。時計の針は午後四時半を指していた。

日常は、いつもと変わらず流れていく──でも、どこかにわずかな違和感を残したまま。


「ははは。さっきまで泣いてたのに、復活はや」


「俺らも帰るか」


和真に声をかけられ、僕も席を立った。


僕らの教室は、四階建て校舎の最上階の端にある。

夕焼けが校舎を包み込み、窓のガラスには茜色の光が柔らかく反射していた。

足音が、空になった教室にぽつぽつと残響を落とす。


教室の窓の外では、運動部の掛け声や、グラウンドでボールが弾む音が風に乗って届いてくる。

廊下では誰かが笑い声を上げ、放課後の学校特有のざわついた空気が、まだ校舎に残っていた。


──けれど、それも一時のことだった。


グラウンドの声が遠のき、廊下から人影が消えていくと、教室のある四階フロアは急に静寂に包まれた。

今、この階に残っているのは、僕と和真だけだった。

そんな静寂の中で、和真がふいに口を開いた。


「そういえばさ、昨日の“翠の好きな人”って、誰?」


和真がふと顔を覗き込んできた。


──不意打ちだった。


「そっ……そんな奴、いるわけないよ」


咄嗟に答えた声は、情けないほどに上ずっていた。


和真は僕の顔の正面で立ち止まり、静かに、けれど確かな動きで両手を僕の頬に添えた。

温かいはずのその手が、どこか冷たく感じた。


「俺にだけ内緒って、さすがに傷つくんだけど……翠」


和真の顔が、じりじりと近づいてくる。

その瞳に宿る色は、冗談とも戯れとも思えない真剣さだった。


(な、なんだよ、そんな目……)


「ちょ、ちょっと待ってって……!」


思わず顔を背けようとする。でも、逃げ切れない。

和真の視線は、まっすぐ僕を捉えたまま離さない。


その眼差しは、怒っているようにも、どこか悲しげにも見えた。


「違うって……そんなの、いない……」


否定の言葉を絞り出すのが精一杯だった。


本当のことを言いたいのに、喉の奥で言葉が詰まり、声にならない。


──夕陽の光が、色あせた廊下に長い陰を落とす。


誰もいない教室、静まり返ったフロア、風も鳴りを潜めていた。

まるで、世界が一瞬だけ呼吸を止めたように、時間が凍りついた。


和真と僕の間に張り詰めた沈黙だけが、重たく、残されていた。


──そのとき。


「おい、翠! 和真! 結人が階段から落ちて怪我した!」

背後から、サッカー部の部員が大声で駆け寄ってきた。


「えっ、結人が!? どこにいるの?」

「一階の階段下の踊り場!」


和真がすぐに駆け出し、僕もそれを追って走り出す。

一階へ降りると、すでに人だかりができていた。


その中心に、結人がうずくまるように倒れている。

顔をしかめ、左足首を押さえていた。額にも血がにじんでいる。


僕が近づこうとしたそのとき、担架を持った教師たちが駆けつけてきた。


彼らが人垣をかき分け、結人を慎重に担架へ乗せていく。


「結人、大丈夫か!?」

僕は思わず叫ぶが、返事はなかった。

もっと傍へ行こうとしたとき、和真が僕の腕を掴んで制止した。


「今は、先生たちに任せよう」

その言葉に、僕は頷くことしかできなかった。


外から、救急車のサイレンが近づいてくる音が聞こえる。


僕と和真は、ただその場に立ち尽くし、見守るしかなかった。

ついさっきまで、あんなに元気だった結人の姿が、頭から離れない。


ふと、彼が倒れていた場所に目をやる。

床に、スマートフォンが落ちていた。


画面は真っ黒で、蜘蛛の巣のようにひびが広がっている。


僕はそっとそれを拾い上げ、自分の鞄にしまった。



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