Scene3:戻れない席
「また泣いてんのかよ、お前」
呆れたような声が降ってきた。
その声の主――翠が俺の顔を覗き込む。少し眉をひそめてはいるけれど、その瞳の奥には、明らかに心配の色が浮かんでいた。
「だって……あいつらが、僕のこと、女の子みたいで気持ち悪いって……」
俺は膝を抱えてしゃがみ込む。
視界が涙で歪んで、足元の影さえぼんやりとしか見えなかった。
「和真も、ちゃんと怒れよ。言い返せっての」
翠は苛立ったように言葉を投げた。口調は強いが、声音にはどこか焦りも混じっていた。
「だって……」
「“だって”はもう聞き飽きた。お前さ、自分で俺の隣にいるって決めたんだろ? だったら、ちゃんと胸張ってろよ」
そう言って、翠は俺の顔を両手で包み込む。
彼の瞳に、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの俺の顔が映っていた。
「……大丈夫、なのかな……俺」
「大丈夫かどうかなんて、自分で決めるんだよ」
きっぱりと言い放つその姿に、少しだけ勇気をもらった気がした。
でも、翠はそのままくるりと背を向け、歩き出してしまう。
俺を置いて、前だけを見て。
――待って。行かないで。ひとりにしないで。
必死に涙を拭い、震える足で立ち上がろうとする。けれど足がもつれて、膝をつき、その場に倒れてしまった。
その音に気づいているはずなのに、翠は振り返ろうともしない。
――転んだの、わかってるよね。なのに、無視するの?
唇を噛みしめる。
悔しくて、情けなくて、胸がぎゅうっと痛んだ。
声にならないしゃくり上げが喉を震わせる。
「待って……待ってよ、翠……!」
かすれる声が、どうか届いてほしいと願いながら、俺は必死にその背中を追った。
遠ざかる距離が怖かった。
その背中が見えなくなったら、二度と戻ってこれない気がして。
俺は無我夢中で走って、翠の背中にしがみついた。
その瞬間――
「……だろ? やればできるじゃん」
翠がふっと笑い、振り向きざまに俺をぎゅっと抱きしめてくれた。
頬を両手で包まれる。
僕より少し背が高くて、動きも言葉もはっきりしていた翠。
でも、その指先のぬくもりだけは、どこか子どもらしからぬ優しさに満ちていた。
「男のくせに泣くな」って、笑いながら言われた。
けれど、僕はどうしても泣き止めることができなかった。
そのぬくもりが、心の奥にじんわりと染みていく。
ぼろぼろだった心が、ふっと軽くなった気がした。
――あたたかい。
そのぬくもりが、心の奥まで染み渡っていく。
ぼろぼろだった心が、ふっと軽くなった気がした。
――やっと、認めてもらえたんだ。
ずっと、こうしていたい。
このあたたかさに包まれていたい。
翠が俺の頬を両手で包んだ。
僕より背が高くて、動きも言葉もはっきりしていた。
でも、指先の温度は、子どもらしからぬあたたかさだった。
「男のくせに泣くな」って笑われたけど、僕はどうしても泣き止めなかった。
……あれ?
これって、俺と翠の――小さい頃の記憶、か?
でも……おかしい。
あの頃の俺が、翠を抱きしめられるほど大きかったか?
違う。俺は、ずっと小さくて、泣き虫で、翠の後ろをついていくしかなかったはずだ。
あたたかさは、たしかにあった。
けれど、それは現実のぬくもりではなかった。まるで、深い水の底に沈んでいくような、鈍く重たい感覚。
その瞬間、掌全体に、ぬらりとした冷たさと、ねっとりとした異物感が絡みついた。
胸元にいるのは、翠――のはずだった。
けれど視線を落とすと、そこには長い髪を垂らした“それ”が、ゆっくりと顔を持ち上げて、俺を見上げていた。
赤黒く裂けた口が、顎の骨が外れたように異常なまでに横へと裂けている。
まばらに残る黒ずんだ歯の間から、ひび割れた舌がだらりとこぼれ、唇を濡らす粘液が糸を引いていた。
ぬるぬるとした皮膚は、剥がれかけた鱗のように斑にただれ、湿った肉がその下からのぞいている。
「……ぁ……」
吐き出された息は、魚が腐ったような生臭さをまとっていた。
鼻腔を突き刺す悪臭に、思わず胃液がせり上がる。
その身体――いや、“肉塊”は、まるで巨大なナメクジか、溶けかけた蛇のようだった。
ぬめりと重量感をもって、俺の腹から胸、首にかけて覆いかぶさっている。
そのとき、耳元でかすかな声が囁いた。
「……くくく……くくく……」
嘲笑うような女の声――けれど、それは人間のものではない。
声の振動が皮膚をすり抜け、骨の内側に直接響いてくる。
……還れ……
かすれたようでいて、どこかねっとりと湿り気を帯びた声。
それは名を告げるのではなく、“思い出させる”ように、俺の記憶をこじ開けてくる。
その声に導かれるように、視線の端――闇の奥に、ひとつの目が浮かび上がった。
青――いや、正確には蒼銀。
光を吸い込むように鈍く揺れながら、縦に割れた爬虫類のような“瞳孔”が、静かにこちらを見ていた。
(……あれは……誰の目だ?)
わからない。けれど、胸の奥が、恐怖ではなく、妙な懐かしさに震えていた。
そして――。
長い髪の隙間から、青白い腕がするりと伸び、俺の首に絡みついた。
「……っぐ……!」
圧迫感。喉が潰され、息が詰まる。
必死に腕を振っても、掴めるものは何もない。
触れているのは、自分の首。
けれど、それでも“確かに何かに締めつけられている”という感覚だけが、喉を這い回っていた。
指先から力が抜けていく。
視界が揺れ、周囲の色がどんどん白黒に滲んでいく。
――このままじゃ、本当に、死ぬ。
そう思った瞬間、目の前の世界が音もなく断ち切られ、暗闇に呑み込まれた。
……
……
瞼が重い。
それでもゆっくりと開けると、白くぼやけた天井が視界に入った。
――ここは……保健室?
蛍光灯の「じ……」という微かな音。消毒液の匂い。
誰もいない静かな空間の中で、胸の奥だけが、まだ異様な早さで脈打っていた。
身体は動く。けれど、喉の奥に何かが絡みついているような違和感が残っている。
“あれ”は夢だったのか、それとも――
指先を見る。
そこには何もない。ただ、どこかに“痕跡”だけが残っているような、そんな気がした。
*
放課後、保健室を出てからも、俺は教室の自分の席に戻る気になれず、ずっと机に突っ伏していた。
部活の掛け声やボールの音が遠くから聞こえていたはずなのに、耳にはほとんど入ってこなかった。
今日一日で起こった出来事――
結人が突然、階段から転落し、担架で運ばれていった事故。
その直後、自分が呑まれた、“夢”とも現実ともつかない異常な体験。
全身を縛りつけていた悪寒と、粘着するような気配。
あれが幻覚で済むはずがない。
そして、あの目――
爬虫類のように縦に裂けた、蒼銀の瞳が、今も頭の奥に焼きついて離れない。
(……あれは……翠じゃなかった)
似ているけど、違う。
冷たい腕、腐臭、呻くような声。
あの存在は、俺にとって“懐かしく”もあり、“禍々しく”もあった。
おそるおそる手を首元に当てる。
――そこにあった。
指先に触れた、くっきりとした赤黒い痣。
まるで、細く長い指が実際に俺の喉を掴んでいたかのように。
「……やっぱり、夢じゃなかったんだ……」
そのとき――
ガタガタ、と窓が鳴った。
「っ……!」
反射的に肩が跳ねる。
夕方の光がカーテン越しに差し込み、ゆらりと揺れた。
風……だろうか。
だが、それにしては妙に湿っていた。
生温く、まるで誰かの息づかいのような気配が、背中にぴたりと貼りついてくる。
俺はそっとカーテンをめくり、窓の外を覗いた。
グラウンドには誰もいない。
体育倉庫の陰から覗くような黒い影も見当たらない。
見えるのは、揺れる木々と、赤く染まりかけた空だけ――
けれど、何もいない“はず”なのに、胸の奥がざわついていた。
じんわりと背筋を這い上がる、冷たい視線の感覚。
声なき“何か”が、確かにこの校舎のどこかで息をひそめている。
……そんな、言葉では説明のつかない“確信”だけが、残っていた。
やがて、放課後のざわめきが静寂に変わっていく。
校舎全体が、少しずつ夜の色に沈んでいった。
世界から取り残されたような、底冷えする孤独感だけが、俺の中にじわじわと染みこんでいく。
気づけば、俺は帰宅していた。
記憶は曖昧で、どうやって帰ったのかも思い出せない。
制服を着たまま、ベッドの上で仰向けになっていた。
天井が、じわじわと迫ってくるように見えた。
*
翌朝。
気怠い身体を引きずるようにして、洗面所へ向かう。
鏡に映った自分の顔は、ひどい有様だった。
目の下のクマは深く、顔色は土気色で、髪は寝汗でぺたりと額に張りついている。
早めに寝たはずなのに、全身が鉛のように重い。
夜を越えたはずなのに、何ひとつ癒えていない。
顔を洗い、タオルで雫を拭ったとき――
ふと、視線が首元に落ちた。
……そこに、長い髪の毛が数本、貼りついていた。
(……なんだよ、これ……)
記憶がフラッシュバックする。
あの舌の感触。締めつける腕。腐臭。ぬめる肌。
ぞわり、と全身が粟立つ。
痣は、まだ残っていた。
赤黒く、指の跡のように、くっきりと皮膚に刻まれている。
「……あれは、一体……誰だったんだ……?」
声に出しても、何の答えも返ってこない。
けれど――どこか遠くで、あの湿った笑い声が、また響いた気がした。
「くくく……」
鏡の中の自分が、今にも笑い出しそうで、思わず目を逸らした。
それでも、痣はそこにあった。
――昨夜、俺に触れた“何か”は、まだどこかにいる。
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