第十話 ナナミ・ブレイブ
その日の朝、葛西はカップに注いだコーヒーを片手に、事務所の応接室に姿を現した。
静かにドアを開けると、三人の少女達は既に席についている。
七海はいつも通りのサングラスをかけながら、緊張の面持ちで湯気の立つ麦茶を見つめていた。
「おはようございます、プロデューサー」
先に口を開いたのは梓だった。
彼女の声には不思議と張りがあり、以前よりも随分と落ち着いて聞こえる。
紗良は『やっと来たか』とでも言いたげな目つきで、軽く頷いた。
「ああ、おはよう。早速だが……七海、お前に頼みたい仕事がある」
葛西は声をかけながら、七海の正面に腰を下ろす。
七海は一瞬、サングラス越しに葛西の顔を見つめ、そしてゆっくりと身を引いた。
「……わたしに、ですか?」
「ああ。街ブラ番組のテスト映像だ。配信用の素材にもなる。台本はほぼ無し、歩きながら店を回って要所でコメントしてくれればいい。お前の雰囲気には合う筈だと思っている」
葛西の言葉は穏やかだったが、七海には雷に打たれたような衝撃だった。
これまでのレッスンでも、彼女はあくまで『調和』を重んじてきた。
前に立つこと、カメラを独占することには慣れていない。
「えっと……その、わたし、トークとか得意じゃないし……ロケも、したことないし……」
声が震える。サングラスの奥で、視線が迷っているのが伝わってきた。
「どうだ?」
葛西は、ただそれだけを言った。
背中を押すでも、甘やかすでもなく。ただ、問いかけるように。
配信でさえ緊張して早口になる。何より、一人での仕事なんて考えたこともなかった。
しばしの沈黙のあと、七海は小さく、しかし確かに首を縦に振った。
「……やります。やってみます」
口から出た言葉に、自分でも驚いた。
その時、葛西は何も言わなかった。ただ、七海の目をじっと見つめて、一度だけ頷いた。
梓が小さく拍手をし、紗良も口角をわずかに上げた。
誰かの決意が芽吹く瞬間に、空気が少しだけ暖かくなる。
それが、彼女の「勇気」のはじまりだった。
※ ※ ※
ロケ当日。
七海は、浅草の一角にある昔ながらの商店街の入口に立っていた。
後ろにはカメラスタッフとサポートスタッフ、それと撮影立ち合いのために来た葛西・梓・紗良が控えている。
カメラが回る──たったそれだけの事で、心臓が跳ねた。
七海は薄く汗ばむ手のひらを制服のスカートにこすりつける。
柔らかく整えられたショートヘアの間から、夏の光が差し込む。
サングラスの奥、その瞳はまっすぐに商店街の入口を見据えていた。
(大丈夫、大丈夫。歩いて、話して、笑えばいいだけ……だもん)
でも、言葉ほど簡単ではない。
「大丈夫。七海なら、やれるよ」
後ろから声をかけたのは梓だった。
念のための立ち会い──そして、七海の精神的な支えでもある。
「……ありがとう。うん、大丈夫、きっと」
わざと口角を上げてみる。サングラスに守られている筈なのに、内心はふるふると震えていた。
目の前には、味のある
カメラマンが構えを整え、「5、4、3、2……」と指を折る。
彼女の緊張は、ステージで歌うときとは違っていた。
カウントの声と共に、風が吹き抜けた。七海は一歩、前に出る。
「お、おはようございます……Liminalの、花守七海ですっ!」
第一声は少し上ずったが、笑顔は作れていた。けれど、精一杯だった。
「今日はこの商店街を回って、美味しいもの、楽しい場所、たくさん探していきたいと思います!」
緊張からくる早口を、どうにか誤魔化すように笑う。
そのうち、八百屋の前にいた店主がこちらに気づいた。
「ん? なんだなんだ、撮影か?」
「はいっ、あの……少しだけ、お話しても……?」
スタッフのカメラが回る中、七海はぎこちなく歩み寄る。
「ああ、もちろん」
けれど、店主は笑った。
「それじゃあこれ、こ、このナス! 赤くて美味しそう!」
「お嬢ちゃん、そっちはトマトだよ」
「え? あっ、えっ⁉︎ ま、間違えちゃった!」
野菜の話をするはずがトマトとナスの違いを取り違えるという、緊張しているのが丸わかりな場面も。
「七海……」
「何言ってるの……」
ロケの様子を見ながら、梓と紗良が呆れる。
葛西は、無言で眼鏡を上げた。
「あっはっは、このナスはねぇ──」
それでも、叱られたり、怒鳴られたりする事はなかった。
店主の優しいフォローもあって、八百屋での収録はひとまず終了。
次は少し先にあるパン屋へと入っていく。
「おっ、いい匂いがしますね。こちらは……パン屋さん。そう、パン屋さん! おはようございますっ」
これまたぎこちない語りをしながら、七海とカメラマンがパン屋へ入っていく。
とりあえず、このパン屋おすすめのメロンパンの紹介をすることになったのだが、
「はい、こ、これは、ぱ、パンです!」
と謎の発言をしてしまい、スタッフが吹き出してしまう。
「『パンです!』って! 見れば分かるよ」
「何パンか言って!」
「あっ、そ、そっか。め、め、メリょンパンですっ」
分かりやすく言葉を噛む七海に、再度笑いが起こる。
そして七海もまた、釣られる様に笑ってしまうのだった。
「こんなにぐだぐだなのに、面白いの、ずるいわ……」
「でも、七海らしいと言えば、らしいかな」
紗良が珍しく、口元を押さえて笑いを堪える中、梓はくすっと笑みをこぼす。
その後もロケが続いたが、商店街の人々はみんな優しくて、彼女の拙い言葉を笑って受け止めてくれた。
「がんばってるねぇ、かわいいねぇ」
そんな言葉が、七海の胸の奥にしみ込んでいく。
※ ※ ※
ロケの中盤、スタッフの合図で小休止が入った。
日差しの強さは増しているが、商店街の端にある小さな公園は木陰が心地よく、風が通り抜ける。
Liminalの三人はベンチに並んで腰を下ろし、差し入れの冷たい麦茶を手にしていた。
「ふぅ……歩くだけでも、意外と体力使うね」
梓が額にタオルを当てながらつぶやく。
「七海がハラハラさせるからよ」
紗良は額から一雫の朝を流しながらペットボトルを口に運んだ。
七海はふたりの隣で麦茶を飲みながら、目線を下げたまま静かに息を整えていた。
不思議だった。
カメラの前では、確かに緊張して声も震えた。だけど、それでも逃げずに喋っていられたのは……このサングラスのおかげだったのかもしれない。
その時。小さな足音が砂利を踏む音が近づいてきた。
「おねーちゃんたち、テレビの人?」
声をかけてきたのは、三、四歳ほどの幼い男の子と、その妹らしき女の子。
ふたりとも手をつないで、興味津々といった様子で三人の前に立っていた。
「そうだよ。Liminalって、知ってる?」
梓が答える。
「しらなーい」
「「「っ……」」」
子供特有の純粋で裏表のない言葉に、梓と紗良は思わず表情を暗くし、七海が苦笑いする。
男の子が続けて首を傾げた。
「ねー、なんでサングラスしてるの?」
七海は目を瞬かせた。反射的にサングラスの縁に指を添え、少しだけ俯く。
「えっと……まぶしいから、かな?」
言い訳のような言葉だった。けれど、嘘ではなかった。
サングラス越しの世界は、どこか少しだけ優しくて、自分の心を守ってくれる気がするから。
「おねーちゃん、こわい人みたいー」
女の子が無邪気に言って、兄が「ダメだよそんなこと言ったら」と焦る。
梓が笑いを堪えながら、「でも、七海ちゃんってほんとはすっごく優しいんだよ」とフォローする。
紗良も小さく息を吐いてから言った。
「彼女のサングラスは、『仮面』みたいなものよ。緊張を隠す手段。……でも、それでも笑っていられるなら、それは強いってこと」
「さーらー。それ、この子達にはちょっと難しいよぉ」
梓が笑いながら肩をすくめる。
子どもたちはそんな三人のやりとりを見て、ぱあっと笑った。
「なんか、かっこいい!」
「がんばってねー!」
そう言って、手を振って去っていく子どもたち。
その背中を見送りながら、七海は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
(わたし、本当にアイドルになれてるのかな……)
そんな不安と、小さな喜びが同居する心の中で、確かに何かが変わり始めていた。
それは、ただ人前で喋る『勇気』だけではなく──「見られる自分」として、誰かの記憶に残るという事の、覚悟だった。
※ ※ ※
ロケの最後は、商店街の端にある展望広場でのコメント撮影。
七海は、広がる空を背景にカメラの前に立った。
風が強く、髪がふわりと舞う。
「今日一日、わたしが歩いたこの場所には、たくさんの優しさがありました」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「言葉が詰まって、うまく話せなくても……みんな、笑ってくれて、待ってくれて、話しかけてくれて……」
サングラスの奥の瞳が、ほんの少し潤んだ。
「……だから、わたしも、そんなふうに笑顔を届けられる人になりたいって思いました」
一呼吸置き、真っ直ぐにレンズを見る。
「『勇気』って、自分だけじゃ持てない時もあるけど……優しさの中で、少しだけ出せた気がします」
それは、自分の中にあった小さな強さとの出会いだった。
※ ※ ※
その夜、事務所のミーティングルーム。
モニターの前で映像を見ていた葛西は、ロケ終わりのコメント映像を観終えると、黙って腕を組んだ。
「……悪くない」
「なんだ、偶には素直に褒めてもよいではないか」
隣で腕を組んでいた西園寺がにやりと笑う。
「顔はひきつってたが、あの子はあの子の言葉で、ちゃんと話しておったろ?」
葛西は頷いた。
「『勇気』ってのは、見えにくいですが、ちゃんと伝わるものですね。あれなら誰かの心に残りますよ」
「ならば、次は花守七海を前に出すことも検討せねばな。お披露目に値する存在になってきた」
葛西は小さく笑い、立ち上がった。
「じゃあ、本人にもそう伝えます。少しだけ、次の景色を見せてやりましょう」
※ ※ ※
控室のソファに、七海はすとんと腰を下ろしていた。
モニターには、たった今撮り終えたばかりの街ブラロケの映像が流れている。
撮影チームが編集した仮のテロップがところどころ入り、簡単なBGMも差し込まれていた。
自分の声が、スピーカーから聞こえる。
いつもより少し高めに響いていた。表情はぎこちなく、手の動きも硬い。それでも──カメラの前に立って、言葉を紡いでいる自分がいた。
野菜の名前を間違えて、パンの前で妙なコメントをして、それでも笑ってくれたお店の人たち。
照れながら手を振ったおばあちゃん、恥ずかしがりながら話しかけてくれた小学生。
そして、公園で出会ったあの子の言葉──「なんでサングラスしてるの?」──
その一言が、自分の胸にずっと残っている。
うまく答えられなかったけれど、確かに何かが動いた。
笑顔でいようと思った。誰かの前だからではなく、自分の為に。
それはたぶん、演技じゃない。本当の、気持ち。
モニターの中の『わたし』が、最後に言っていた。
「『勇気』って、自分だけじゃ持てない時もあるけど……優しさの中で、少しだけ出せた気がします」
その言葉が、自分の声とは思えないほど、大きく聞こえた。
声が、胸の奥に響いていた。
(ああ、ほんの少しだけど、わたしはアイドルになれたのかもしれない)
思わず、サングラスを外した。
レンズ越しで見ていた世界が、少しだけクリアになる。
けれど、そこには緊張も不安もない。
代わりにあったのは、胸の奥で静かに灯る、小さな火だった。
「ちょっとだけでも、わたしもMio♪さんに、近づけたかな……?」
ぽつりと零れた言葉は、誰に聞かせるでもない呟きだった。
でも、確かにそれは、今の七海自身の決意だった。
少しだけ背筋を伸ばし、胸を張る。
鏡に映る自分に、そっと微笑みかけてみる。
それは、『仮面』越しの笑顔ではない──本物の、勇気ある笑顔だった。
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