第九話 サラ・モノクル
冷たい朝の空気を切り裂くように、深見紗良のモノクルが淡く光を反射した。
事務所の小さな会議室、その端の席で、彼女はじっとタブレットを見つめている。
映っているのは、一週間後に出演予定のラジオ番組の台本。
縁起のいいことに、梓のCM出演がきっかけで、少しずつではあるがLiminalにも仕事やメディアへと露出する機会が増え始めた。
テーマは「新人アイドル特集」。軽いトークと自己紹介が中心で、質問も事前に届いている。無理なことは一つもない筈だった。
しかし紗良は……今回の仕事には少し後ろ向きな思いを秘めていた。
それもその筈、予め提示されたトークテーマには、
「音楽への想い」
「歌に込める感情」
「ファンとの距離感」
等といった、曖昧な単語が並んでいる。
「……なんだかなぁ」
ぼそりと呟くと、隣でプリントを眺めていた花守七海が、ぴくりと肩をすくめた。
「え、な、何が……?」
「『音楽に込める想い』って、それ、数値化できるものかしら」
「うーん、わたしにはよく分かんないけど……でもファンの人達って、そういう話意外と聞きたいみたいだよ?」
七海が柔らかく笑う。そんな七海に紗良は何も返さなかった。冷たい目線だけが、彼女の「理解不能だわ」という気持ちを物語っていた。
その様子を、少し離れた場所で見ていた葛西が、ふいに声をかけた。
「逃げるなよ、紗良」
低く、だが確かな声だった。紗良がわずかに眉を動かす。
「逃げてなどいません。ただ、私には向いてないと思っただけです。言語化できないものの話題なんて、無意味だと思いますが」
「無意味かどうかを判断するのはお前じゃない。届ける相手がいて、初めて『意味』ってのは生まれる」
それだけ言って葛西は視線を外した。理由を深く語ろうとはしない。
だがそれは、彼の本気の証でもあると、紗良は知っていた。
紗良は口を閉じたまま視線を落とす。
確かに彼女は、今までも『伝える』ことを拒んできた。歌うことも、踊ることも『正しく』あることが最優先だった。
けれど──
《正しさが、誰かを救えるとは限らない》
その声は、今はもういない祖父のものだった。
帰りの電車で、紗良は小さなモノクルをケースから取り出した。
鏡を覗き込むように、左目にあてる。視界が片側だけ絞られる感覚が、彼女に祖父の姿を呼び起こす。
※ ※ ※
「そこに『感情』を入れようとするな。感情は雑音だ。演奏者は譜面の奴隷でいい」
祖父はそう言って、幼い紗良が弾くピアノを何度も止めた。
和音の構成、指の角度、ペダルの踏み方。
すべてが設計された構造の一部であることを、彼は何度も教えた。
……幼い頃。
深見家は音楽一家だった。
その中でも紗良の祖父──深見
クラシック界の重鎮として知られ、厳格かつ冷徹、何より“音”に対して一切の妥協を許さない人物。
彼の前での演奏は、常に完璧を要求された。
たとえ
その祖父が、演奏の際に必ず身に着けていたのが──左目のモノクルだった。
「視界の片方だけを削ることで、雑念を排する。真理だけを見据えるためだ。音楽とは、ズレた視点を切り捨て、調和と構造を整える『理』なのだ」
何度も聞かされたその言葉。
紗良にとって、音楽とは論理で成り立つ芸術であり、曖昧な感情や共感といった不確かなものは“ノイズ”に過ぎなかった。
音楽に心などいらない。理で支えられた秩序こそが美しさだ。
その思想は、紗良の骨の内に根を張っている。
だが……祖父が亡くなる数日前──弱々しい声で、こんな事も呟いていた。
「でもな、紗良。もし音楽に答えがあるとすれば、それはきっと、心を映す鏡の様な物かもしれん」
その言葉だけが、彼女の中に残っていた。
(本当に、音楽で誰かと『繋がる』なんて事が、あるのだろうか……?)
※ ※ ※
翌日のレッスン。ダンスの動きが揃わないまま、曲の中盤で不意に曲が止まった。
「あ、ごめんっ。やっぱ、振り付けのここ、わたしだけ遅れてる?」
「……ううん。七海ちゃんじゃないと思う」
梓が汗を拭きながら言うと、七海はほっとしたように笑った。
だが紗良は、そのまま無言で二人を見つめた。
「ズレがあったのは、私の感覚から見て、二人共。0.3秒ずつ、拍の入りが遅い」
ピリ、と空気が張る。
「またそれ? 感覚の違いでしょ、そんな言い方……!」
梓が眉をしかめた。その視線に紗良は動じない。
「違いを無視して進めるのは効率的じゃない」
「効率じゃなくて、呼吸とか……リズムって、感情も混ざるものでしょ?」
「感情で揃うわけがない。可変性のある要素で一致を取ろうとするから崩れる」
葛西が黙って見ているのは分かっていた。けれど、止める気配はない。
言い合いはすぐにやんだ。七海が笑って場をなだめ、練習は再開された。
だが、心の奥に
彼女たちと自分は、根本的に違うのかもしれない──そんな考えが、胸を重くする。
その夜。紗良は眠れなかった。
机にモノクルを置き、祖父の残したスコアブックを取り出す。
ベートーヴェン、バルトーク、ストラヴィンスキー。そこには何十年も祖父が書き込み続けた、構造の迷宮があった。
──でも、最期の数年。祖父は変わった。
引退の年、紗良が見舞いに行った際の事。
祖父は病床で、ふいに言った。
「……人の手でしか出せない音が、あるらしい。私はずっと否定してきたがな。でも、心が震えてしまう音があるんだよ。構造だけでは、決して作れない物が」
そのときの目は、どこか寂しげだった。
あれは、信念の崩壊だったのだろうか。
それとも──理解の到達だったのか。
※ ※ ※
そして収録当日。
Liminalの控室。七海がスマホを見ながら「やっぱ緊張する~」と呟き、梓は珍しく黙っている。
葛西が小さく言った。
「出番はもうすぐだ。大丈夫か?」
「……やれるだけの事は、します」
モノクルを静かにかけて、紗良は頷いた。
スタジオに入り、マイクの前に座る。
照明。
スタッフのカウント。
赤いランプの点灯。
──録音、開始。
「はーい始まりました、ミュージック・フィーバー! DJはワタシ、マイコでーす! 本日は、最近話題沸騰中のアイドルユニット『Liminal』から、深見紗良さんにお越しいただいていまーす!」
軽快なBGMと共に発される明るい女性DJの声。
「こんばんは。深見紗良です。お招きいただき、ありがとうございます」
落ち着いた声質と、クールな言い回し。
「はいありがとうございます! ナマで見ると……その左目のモノクル、すごくかっこいいですね!」
「ええ。ライブの時とか、集中したい時は必ずかけるんです」
「そうなんですねぇ。巷の噂だと、女の子から人気が高まってるとか?」
「あはは。ちょっと複雑ですけど……もしかしてあの子かな? このモノクルで、いつも見えてるよ。……なんてね」
「おお〜、この落ち着きっぷり、ラジオ初めてとは思えませんね!」
「いえ、緊張はしてますよ。話すより、歌う方が慣れてますから」
台本通りに自己紹介をこなし、事前に準備した言葉を並べていく。
ここまでは、事故無し。
「ふふ、そうですね。さっそくですが、今日はリスナーさんからの質問もたくさん届いてるの。《紗良ちゃんの歌で救われた》っていう子もいて……どうですか? そういう声を聞くのは」
その瞬間、紗良は言葉を詰まらせた。
(救われた──自分の、歌で?)
「……私の歌は『救う』ものではありません。ただ、『正しい音』を追求しているだけです」
いつものように、答える。でも、喉の奥が少しだけ詰まった。
少し、曇りがかった回答。
しかしDJもプロだ。明るい方向に、なんとか軌道修正してくれる。
「でも、その正しさが誰かの心に届いたのかもしれませんよ? 紗良さんがどんな気持ちで歌っているのか、少し教えてもらえませんか」
紗良が言葉を失う。
気づけば、左目のモノクルに指先が触れていた。
(おじいさまは、音楽は『鏡』だと言った。……なら、私は何を映している?)
「……論理では、心が読めない時もあるんです」
沈黙の後、不意に言葉が零れた。紗良は自分でも驚いたように、僅かに目を見開いた。
「正しい、かは分かりません。でも……舞台で歌っていて、Liminalの他の二人と音が重なったとき、何かが合った様に感じた事が、ありました」
声が震えそうになるのを抑えながら続けた。
「理屈では説明できません。ただ、あの瞬間……自分の出した音に、他人が答えてくれた気がして。……歌っている時、ふと、分かる気がする。誰かと……繋がれる瞬間が、あるって」
それは、祖父の言葉の続きを、今になってようやく理解できた気がした瞬間だった。
DJは、優しく笑って言った。
「いいですね。音って、人と人の間にも橋をかけるものですから。素敵なお話ありがとうございます」
収録が終わったあと、スタッフの一人がぽつりと呟くのが聞こえた。
「……あの子の話、なんか心に来たな」
紗良は答えなかった。ただ、胸の奥に小さく波紋が広がっていた。
※ ※ ※
収録後。控室で待っていた七海と梓が駆け寄ってきた。
「紗良ちゃん! 聴いてたよ〜! あのコメント……すっごく良かった!」
七海がぱっと手を握ってくる。梓も、少し恥ずかしそうに頷いた。
「まさか、あんな風に話せるなんて。紗良さん、すごいと思います」
「あれは、思わず出ただけよ。黙ったままだと、放送事故とか言われちゃうし」
いつも通りの冷たい口調。けれど、二人の手の温かさを感じていた。
自分の中に、確かに誰かを想って歌う気持ちが生まれていた。
……帰り際、紗良はモノクルに触れながら、ふと葛西のところに足を向けた。
「さっきの放送、聴いてた?」
「もちろん」
「感情を理解するのに、少しは近づけたかしらね。……ありがとう、プロデューサー」
葛西は、それにただ一度、静かに頷いた。
言葉では何も返さない。けれど、それで充分だった。
紗良はもう一度、左目のモノクルを指でそっと押し上げる。
(おじいさまが見た真理。今の私には少しだけ違う形で見えているかもしれない)
(それでも、構わない)
(だって今、私は「誰かのために歌いたい」と思えているのだから)
夜。部屋の明かりだけをつけて、スコアブックをめくる。
ふと、何かが光った。
最後のページの端。薄く書かれた文字。
《心の震えは、理より強い。──だが、両方を持った演奏者は、きっともっと先へ行ける》
紗良は、手元のモノクルをそっと磨き、左目に当てた。
「……おじいさま。少しだけ、感情と向き合ってみるね」
ページの上で、音符たちが静かに揺れているように見えた。
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