第10話:桜咲く、涙の理由
二月。
その年は、例年になく冬の粘り気が強く、世界は分厚い灰色の雲と、肌を刺すような冷気に閉ざされていた。一年の中で最も夜の闇が深く、そして重く垂れ込める季節。
決戦の日の朝は、まだ世界が泥のような眠りの中に沈んでいる未明から始まった。
窓の外には、インクを流したような漆黒の闇が広がっている。空を見上げても、凍りついたように瞬く弱々しい星が数えるほど張り付いているだけで、月は分厚い雲の向こう側へと姿を隠していた。
風の音すらしない。
まるで、この星に生きるすべてのものが、固唾をのんで来るべき夜明けを、あるいは審判の時を待っているかのような、痛いほどの静寂だった。
午前五時五十五分。
枕元の目覚まし時計が、そのけたたましい電子音で静寂を引き裂くよりも五分早く、俺、佐々木健太の意識は覚醒した。
まどろみなど一切なかった。
瞼を開けたその瞬間から、脳の奥底にあるスイッチが「カチリ」と音を立てて切り替わったかのように、意識は研ぎ澄まされていた。血管の中を流れる血が、いつもより熱く、早く巡っているのがわかる。
昨夜は九時にはベッドに入り、泥のように深く、死んだように眠った。
ここ数ヶ月間、俺の心を蝕み続けていた焦燥感も、胃をキリキリと締め上げる不安も、今日ばかりは夢の中まで追ってはこられなかったらしい。
俺は、温まった布団の誘惑を振り切るようにして、勢いよくベッドから身を起こした。
足の裏がフローリングの床に触れると、氷の上を歩いているかのような冷たさが走り、背筋がゾクッとした。だが、その冷徹な刺激こそが、今の俺には心地よかった。
特別なことは、何もしない。
神棚に祈ることも、極端な気合を入れることもない。
ただ、これまで数ヶ月間、雨の日も風の日も、高熱を出した日さえも、寸分の狂いもなく続けてきた「朝のルーティン」を、機械のように淡々とこなしていくだけだ。
洗面台に向かい、蛇口をひねる。
指先が痛くなるほど冷たい水を手ですくい、顔を洗う。
バシャリ、バシャリ。
冷水が頬を打つたびに、皮膚が引き締まり、視界がクリアになっていく。タオルで水滴を拭い、鏡の中の自分と対峙する。
数ヶ月前、死んだ魚のような目をしていた少年の面影は、もうそこにはなかった。
眼光は鋭く、頬の肉は削げ、少しだけ精悍になった男の顔が、鏡の向こうから俺を見つめ返している。
「よし」
声に出さず、唇の動きだけで確認する。
その後は、英語のシャドーイングだ。
耳から入ってくるネイティブの音声を、脳で咀嚼し、口の筋肉を使って再現する。意味を考えるよりも先に、音が身体に染み込んでいく感覚。
続いて、壁に貼り付けた世界史の相関図を眺める。
無数の矢印と名前、年号が書き込まれたその紙は、もはや単なる学習資料ではなく、人類の壮大なドラマを描いたタペストリーのように見えた。
歴史の大きなうねりが、俺の頭の中で再構築されていく。
一通りの儀式を終え、リビングへと続く階段を降りる。
階下からは、すでにトントントン、というリズミカルな包丁の音と、出汁の香りが漂ってきていた。
母親だ。
俺のために、いつもより早く起きてくれている。
リビングの扉を開けると、湯気とともに、味噌の芳醇な香りと、焼き魚の焦げた匂いが鼻腔をくすぐった。
その、あまりにも日常的な、いつもと変わらない光景と匂いが、張り詰めていた俺の神経を、ふわりと柔らかい綿で包むように和らげてくれた。
「おはよう」
努めて普段通りに声をかける。
「…おはよう。よく眠れた?」
母親が振り返る。その笑顔には、隠しきれない疲労と、それ以上の緊張が滲んでいた。エプロンの紐を握る指先が、わずかに白くなっている。
「ああ、ぐっすり」
嘘ではない。今の俺にできる最大の親孝行は、不安を見せないことだ。
食卓には、すでに父親が鎮座していた。
手には新聞が広げられている。だが、その視線は活字の上を滑っているだけだということが、俺には分かった。
ページをめくる手が止まっている。
眉間に刻まれた深い皺。
いつもなら朝のニュースを賑やかに伝えるテレビも、今朝は黒い画面のまま、沈黙を守っている。
家の中全体が、俺という一人の人間の「戦い」を中心に回っている。その重圧が、決して不快ではなく、むしろ背中を支える強固な壁のように感じられた。
食事が終わる頃、母親が台所から戻ってきた。
その手には、いつもより一回り大きく、重厚感のある弁当箱が握られていた。
「カツサンド、作っておいたから。……勝つ、ようにね」
差し出された弁当箱を受け取る。
ずしり、とした重み。
「勝つ」と「カツ」。
あまりにもベタで、使い古された語呂合わせ。
もし普段なら、「なんだよそれ」と茶化していただろう。だが今、そのありふれた言葉に込められた、母の祈るような想いが、熱い塊となって胸の奥にじんわりと染み渡った。
言葉に詰まりそうになる喉をこらえ、俺は短く答える。
「サンキュ」
自室に戻り、使い古したリュックサックを開く。
中に入れるのは、母の弁当と、受験票。
そして、これまで何万文字、何十万文字と書き殴り、俺の指の一部と化した筆記用具だけ。
ボロボロになるまで使い込んだ参考書も、書き込みだらけのノートも、もういらない。
全ては、俺の脳髄に、血肉となって刻み込まれている。
ここで何かを確認しなければならないようなら、最初から勝負になどならないのだ。
玄関で靴紐を結ぶ。
キュッ、と強く締め上げる感触が、足元から気合を注入する。
立ち上がり、扉に手をかけようとしたその時だった。
背後から、ゴツゴツとした硬い手が、俺の肩に置かれた。
父親だ。
振り返ろうとした俺の肩を、親父は、一度だけ、強く、叩いた。
バシン。
言葉はなかった。
「頑張れ」とも「気をつけて」とも言わない。
ただ、その掌から伝わる熱と力強さが、「お前ならできる」「信じている」という無言のメッセージとなって、俺の全身を駆け巡った。
「行ってきます」
俺は振り返り、二人の顔をまっすぐに見つめて言った。
声は、微塵も震えなかった。
「「行ってらっしゃい」」
二人の声が重なり、俺の背中を力強く押した。
重たいドアを開け、外の世界へと踏み出す。
瞬間、肺の中の空気が総入れ替えされるような、凍てつく冷気が身体を包み込んだ。
だが、その寒さは不快ではなかった。むしろ、内側から燃え盛る闘志を、冷静な青い炎へと変えてくれるような、清々しい冷たさだった。
東の空が、わずかに白み始めている。
まだ薄暗く、しんと静まり返った街の中、俺は白い息を蒸気機関車のように吐き出しながら、駅へと向かうアスファルトを踏みしめた。
駅の改札を抜け、ホームへと滑り込んできた電車に乗り込む。
車内の空気は、外気とは対照的に、異様な熱気と湿気に満ちていた。
暖房の生暖かさだけではない。
そこにいるのは、俺と同じような制服を着た、中学三年生たち。
誰もが、参考書や単語帳に視線を落とし、あるいは目を閉じて何かを反芻している。
こわばった表情。貧乏ゆすりをする足。祈るように組まれた指先。
誰もが、それぞれの戦場へと向かう、若き兵士だった。
かつての俺なら、彼らの姿を見て「自分よりも賢そうだ」「負けるかもしれない」と萎縮していただろう。
だが、今の俺は違った。
不思議な連帯感が胸に去来していた。
(みんな、ここまでやってきたんだな)
俺は心の中で、名も知らぬライバルたちに語りかける。
「みんな、頑張ろうな」
それは、自分自身へのエールでもあった。
揺れる電車に身を任せること数十分。
決戦の地、王葉高校の最寄駅で降りる。
人の波に流されるようにして歩き、やがて視界が開けた先に、その「城」は現れた。
王葉高校。
朝の淡い光を浴びて佇む、レンガ造りの壮麗な校舎。
歴史の重みを感じさせる蔦の絡まる壁面、威風堂々とそびえ立つ時計塔。
去年の夏、蝉時雨の中でここを目指すと宣言した時には、それはまるで雲の上に浮かぶ「天空の城」か、あるいは神々が住まう「バベルの塔」のように、あまりにも遠く、非現実的な存在に見えた。
見上げるだけで首が痛くなり、その圧倒的な存在感に押しつぶされそうだった。
だが、今は違う。
俺は一度だけ足を止め、その校舎を真正面から見据えた。
恐怖はない。
あるのは、静かな高揚感と、武者震いだけだ。
(待ってろよ)
ここは、俺が拒絶される場所ではない。
俺が、俺のすべてを懸けて戦い、そして勝ち取るべき「神聖なリング」だ。
俺は深く、肺の底まで届くような深呼吸を一つした。
冷たい空気が、身体の隅々の細胞まで行き渡る。
そして、固く閉ざされた重厚な鉄の校門を、堂々と、胸を張ってくぐり抜けた。
試験会場となる教室。
自分の受験番号が貼られた机を見つけ、静かに腰を下ろす。
木の椅子の硬い感触が、臀部を通して現実感を伝えてくる。
周りを見渡すことはしない。
他の受験生の息遣い、衣擦れの音、鉛筆を削る音、それらすべてを「環境音」として処理し、意識の外へと追いやる。
ただ目を閉じ、精神を内側へと沈潜させる。
暗闇の中で、これまで俺を支えてくれた「武器」たちが、一つ、また一つと浮かび上がってくる。
英語の、リズミカルな音の塊。
数学の、論理的で美しい定理という名の頼れる友達。
社会の、過去から現在へと繋がる壮大な物語。
国語の、言葉の海を泳ぎ切るための冷静なパズル。
理科の、世界の仕組みを解き明かす「なぜ?」という好奇心。
そして何より、田村さんが授けてくれた数々の戦略と、鋼のような心構え。
(大丈夫。全部、ここにある)
自分の胸を、トン、と叩く。
空っぽだった俺の器は、もう満たされている。
キーンコーン、カーンコーン……。
予鈴が鳴り、試験監督が厳粛な顔つきで問題用紙を配り始める。
紙が擦れる乾いた音が、教室中に響く。
そして、長く、どこまでも長く感じる静寂の後、本鈴のチャイムが、戦いの始まりを高らかに告げた。
「始め!」
その号令とともに、俺はゆっくりと、焦ることなく問題用紙をめくった。
最初の科目は、国語。
目に飛び込んできたのは、ページを埋め尽くすような長大な評論だった。
難解な語彙、抽象的な表現、ねじれた論理。
かつての俺なら、この文字の壁を見た瞬間に思考がフリーズし、戦意を喪失していただろう。
だが、今の俺は、それを「敵」ではなく「解剖すべき対象」として見ていた。
右手の赤ペンが、迷いなく走る。
まずは接続詞だ。
「しかし」「つまり」「なぜなら」。
文章の関節部分に、機械のように印をつけていく。
するとどうだ。
難解に見えた文章の骨組みが、レントゲン写真のように鮮やかに浮かび上がってくる。
筆者の感情に寄り添う必要はない。深入りもしない。
俺は冷徹な外科医となって、その論理構造だけを、正確無比に切り出し、抜き出していく。
答えは、自分の頭の中にあるのではない。すべて、この文章の中にあるのだ。
次の、数学。
ページを開いた瞬間、複雑怪奇な図形問題が、牙を剥いて俺を威嚇してきた。
一見、どこから手をつけていいか分からない、難攻不落の要塞。
だが、俺は慌てない。
田村さんの言葉を思い出す。『図形は、嘘をつかない』。
俺は定規を当て、一本の補助線を、スーッと引いた。
その瞬間、世界が変わった。
隠されていた直角三角形が、姿を現したのだ。
(見つけた!)
心の中で叫ぶ。
あとは、三平方の定理という、古くからの親友の出番だ。
計算式が、まるで音楽のようにスムーズに展開していく。
他の問題も、冷静に見極める。
「これは、確実に打てる球」
「これは、時間がかかるから後回し」
「これは、俺には打てない魔球(捨て問)」
取捨選択。
満点を取る必要はない。合格点を取ればいいのだ。
俺は、確実に点を稼げる獲物から、一つ、また一つと、スナイパーのように静かに仕留めていった。
昼休み。
教室の空気は、安堵と不安が入り混じった独特の重さを持っていた。
俺は喧騒を離れ、教室の隅で母親の弁当箱を開けた。
カツサンド。
冷めてしまっているが、ソースの酸味と、分厚い肉の旨味が口いっぱいに広がる。
噛み締めるたびに、咀嚼音が頭蓋骨に響く。
(うまい……)
高級レストランの料理など及ばない。これは、世界で一番、愛のこもった、世界で一番うまいカツサンドだ。
エネルギーが、胃袋から全身へと充填されていくのを感じる。
トイレに行こうと廊下に出た時だった。
灰色の制服の波の中に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
莉奈だ。
彼女もまた、友人と連れ立って歩いていたが、ふと気配を感じたのか、こちらを振り向いた。
目が合う。
時間は、わずか一秒、あるいはコンマ数秒だったかもしれない。
彼女は、小さく、けれど力強く頷いた。
その瞳には、不安の色はなく、ただ強い意志が宿っていた。
俺も、頷き返す。
言葉はいらない。
「午後も、頑張ろう」「絶対に、勝とう」
二人の間には、そんな無言の会話が、確かに交わされた。電波よりも速く、言葉よりも深く。
午後の部。
英語のリスニング。
ヘッドホンから流れる英語は、かつてのような呪文の羅列ではなかった。
意味を持った、クリアな音の塊として、水が砂に染み込むように、すっと頭に入ってくる。
スピーカーの向こう側の話者の表情さえ見えるようだ。
長文読解も、パニックになることなく、論理の道筋を辿っていく。単語の一つ一つが、俺に道を教えてくれる。
社会では、脳内の壁に貼られた巨大な相関図が、その真価を発揮した。
歴史上の人物たちが、俺の頭の中で躍動し、答えを囁く。
理科では、日常の中で感じてきた「なぜ?」という疑問と結びついた知識が、複雑な計算式の鎖を解き放ってくれた。
そして。
最後の科目の終了を告げるチャイムが、長く、長く、校舎に鳴り響いた。
キーンコーン、カーンコーン……。
その音は、どこか祝福の鐘のようにも、審判のラッパのようにも聞こえた。
「やめ!」
試験監督の声とともに、俺は静かにペンを置いた。
カラン、と乾いた音が机上に落ちる。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れ、全身の力がどっと抜けていくのを感じた。
指先はインクと黒鉛で汚れ、肩は岩のように凝り固まっている。
手応えがあったのか、なかったのか。それすら、今の麻痺した頭ではよく分からなかった。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
俺は、自分の手のひらをじっと見つめた。
「……全部、出し切った……」
後悔は、ひとかけらもなかった。
俺の心には、嵐が過ぎ去った後の海のような、不思議なほど静かで、穏やかな達成感だけが広がっていた。
***
数週間後。
三月。
季節は冬と春の境界線を彷徨っていた。風にはまだ冬の名残である冷たさが含まれていたが、降り注ぐ陽光には、確かな春の温もりと匂いが混じっていた。
合格発表の日。
俺は、誰にも告げず、一人で王葉高校へと向かった。
電車に揺られながら、俺の心臓は、まるで胸の中から飛び出してしまいそうなほど、激しく、痛いくらいに高鳴っていた。
ドクン、ドクン、ドクン。
血流の音が、耳の奥で轟音のように鳴り響いている。
口の中はカラカラに乾き、何度唾を飲み込んでも潤わない。
校門の前に設置された、巨大な白い掲示板。
その前には、すでに視界を埋め尽くすほどのおびただしい数の受験生と、その保護者たちが、黒山の人だかりを作っていた。
歓声。絶叫。ため息。嗚咽。
喜びと絶望が入り混じった、混沌とした感情の渦が、そこにはあった。
俺は、その重たい空気の壁を、必死でかき分けた。
「すみません、通してください」
震える声で呟きながら、前へ、前へと進む。
そして、掲示板の前に立った。
そこに貼り出されているのは、無機質な数字の羅列。
幾千もの人生の分岐点が、ただのインクの染みとして並んでいる。
自分の番号は、分かっている。
受験票を握りしめた手が、汗でじっとりと濡れている。
探すのが、怖かった。
もし、なかったら。
俺の、あの血の滲むような数ヶ月間は、一体何だったのか。
あの努力は、あの涙は、全て無駄だったのか。
恐怖が、冷たい手で俺の足首を掴む。
だが、見なければならない。
俺は、震える目で、数字の海を彷徨った。
上から、一列ずつ、ゆっくりと。
息をするのも忘れていた。
1300番台……。
1340……1345……。
心臓の音が、世界中のあらゆる音を掻き消していく。
視界が狭まる。トンネルの向こう側を見るように、視野の中心だけが明るくなる。
1350……1351……。
そして。
その瞬間。
時間が、止まった。
物理法則が崩壊し、俺の周りだけ重力が消えたような浮遊感。
視界の中の、その一点だけが、まるで神のスポットライトを浴びたように、白く、神々しく輝いて見えた。
『1352』
あった。
俺の番号が、そこにあった。
間違いなく、そこに存在していた。
「……あった」
誰に言うでもなく、喉から空気が漏れた。
その言葉を、自分の耳が認識した瞬間。
これまで、必死でダムのように堰き止めてきた、全ての感情が、決壊した。
恐怖も、不安も、プレッシャーも、全てが濁流となって溢れ出し、目頭を熱く焼き尽くした。
涙で、目の前の掲示板が、ぐにゃりと歪む。
何度も、何度も、目をこすって、確認する。
幻覚じゃない。
1352。
紛れもない、俺の番号だ。
俺が、勝ち取った証だ。
「…う…っく…うわあああ…」
俺は、その場にへなへなと、膝から崩れ落ちた。
アスファルトの硬さが、膝に伝わる。
周りの視線も、プライドも、何も気にならなかった。
ただ、子供のように顔をくしゃくしゃにして、声を上げて泣いた。
嬉しさとか、安堵とか、そんな単純な言葉の引き出しには、到底収まりきらない。
ただひたすらに、熱いものがこみ上げてきて、止まらなかった。
***
そして、四月。
あの長く、厳しく、永遠に続くかと思われた冬は、嘘のように過ぎ去った。
世界は今、柔らかな光と、爆発的な生命力に満ちていた。
王葉高校へと続く坂道。
道の両脇に植えられた桜並木は、これ以上ないというくらい、見事に咲き誇っていた。
視界いっぱいの薄紅色。
春風が吹くたびに、花びらが雪のように舞い散り、アスファルトをピンク色の絨毯へと変えていく。
甘く、切ない春の匂いが、鼻腔をくすぐる。
俺は、少しだけ体に馴染まない、糊の効いた真新しい制服に身を包み、その桜のトンネルをくぐり抜けていた。
ワイシャツの襟が首元に触れる感触が、こそばゆい。
だが、その違和感こそが、俺が「王葉高校の生徒」になったという証だった。
もう、かつての、お調子者で、自信がなく、逃げてばかりだった俺は、どこにもいない。
胸の中には、静かな自信と、これから始まる新しい生活への、眩いばかりの希望が満ちていた。
靴底が地面を叩く音さえ、軽やかで誇らしげだ。
入学式の式典が、滞りなく終わる。
体育館から出ると、校庭は新入生と保護者たちの喧騒に包まれていた。
記念撮影をする親子、久しぶりの再会を喜ぶ友人たち。
その極彩色の景色の中で、俺は、一人の女生徒の姿を探した。
いた。
桜の木の下。
同じ、真新しい制服を着て、友達と楽しそうに笑っている、莉奈の姿があった。
ブレザーの濃紺が、彼女の白い肌を際立たせている。
舞い散る花びらが、彼女の髪にふわりと舞い降りる。まるで一枚の絵画のような光景。
俺が、声をかけようか、一瞬迷っていると。
まるで磁石に引かれるように、彼女の方が、俺に気づいた。
彼女は、驚いたように、少しだけ目を見開いた。
そして、次の瞬間。
満面の、まるで雲間から差す太陽のような、眩い笑顔になって、俺の方へ駆け寄ってきた。
「佐々木くん! やっぱり、いた! 本当に、合格したんだね!」
弾むような声。
彼女は、自分のことのように、いや、自分のこと以上に嬉しそうに言った。
「すごいよ! 本当に、すごい! あの夏の日、教室で宣言した時、正直……無理だと思ってた。ごめん。でも、君は、本当に、やり遂げたんだね!」
その、言葉。
彼女の、心からの祝福の笑顔。
背景に広がる、夢にまで見た桜吹雪。
俺が、あの偏差値38の絶望の淵から這い上がり、血の滲むような努力をして手に入れたかった「全て」が、今、目の前にあった。
その瞬間。
俺の目から、また、涙が、静かに、しかし止めどなく溢れ出した。
それは、合格発表の時に流した、激流のような感情の涙とは、少し違っていた。
もっと穏やかで、温かく、透き通った涙だった。
走馬灯のように、過去が駆け巡る。
30分も椅子に座っていられなかった、情けない自分。
問題が解けなくてペンを投げつけた夜。
田村さんの飄々とした、けれど温かい笑顔。
励ましてくれた友人たち。
何も言わずに夜食を作ってくれた母。
不器用に背中を押してくれた父。
そして、俺がこの道を選ぶきっかけをくれた、目の前の彼女。
すべてのピースがハマり、今の俺を形作っている。
この涙は、ただ合格できたことへの嬉し涙じゃない。
失われた時間は、もう取り戻せない。
でも、未来は、自分の手で変えることができる。
そのことを、誰の力でもなく、自分自身の力で証明できたことへの、誇りの涙だ。
あの、どうしようもなくダメだった自分と決別し、新しい自分に生まれ変われたことへの、感謝の涙だ。
「……ありがとう」
震える声で、ようやくそれだけを伝えた。
これは、俺の人生で、最も長く、最も苦しく、そして最も濃密だった戦いの終わり。
そして、輝かしい第二章の始まりを告げる、万感の涙だった。
一陣の風が吹き抜け、桜の花びらが、そっと俺の濡れた頬に舞い落ちた。
春は、確かに、すぐそこまで来ていたのではない。
今、まさに、ここにあったのだ。
物語は、ここで一つの終わりを告げる。
そして、新しい物語が、ここから始まっていく。
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