第9話:人事を尽くして天命を待つ

一月。

新しい年が明けたばかりの世界は、色彩を失い、凍てついた静寂に包まれていた。

空気を吸い込むだけで、肺の奥がチリチリと痛む。まるで、目に見えない無数のガラスの破片が浮遊していて、呼吸をするたびに気道の内側を鋭利な刃で切りつけられているかのような錯覚を覚える。それほどまでに、この時期の寒気は容赦がなく、攻撃的だった。


朝、洗面台の前に立ち、重たい瞼をこすりながら銀色の蛇口をひねる。

カチリ、という金属音が虚しく響くだけで、水は出ない。

一瞬の間の後、ゴボゴボという低い唸り声と共に、ようやく白濁した水が勢いよくほとばしる。夜の間に、地中深くに埋まった鉄管の中で、水分子たちが身を寄せ合い、凍りついていたのだ。その冷徹な物理現象が、今日という一日の過酷な始まりを告げている。


通学路の途中にある公園の池は、濁った緑色の水面を薄氷が覆い隠していた。

登校中の小学生たちが、吐く息を真っ白に染めながら、道端の小石を拾っては氷に向かって投げている。

カァン、コォン。

石が氷に当たる乾いた音は、冷え切った大気の中では驚くほど高く、澄んだ音色となって鼓膜を震わせた。氷が蜘蛛の巣状にひび割れる様を見て、子供たちは無邪気な歓声を上げる。その声さえも、すぐに寒風にかき消され、冬の底へと吸い込まれていく。


だが、世界が完全に死に絶えているわけではない。

分厚い灰色の雲の切れ間から降り注ぐ陽光に目を凝らせば、真冬の弱々しいそれとは異なる、微かな熱量が混じっていることに気づく。光の粒子の一つ一つが、ほんの少しだけ密度を増し、アスファルトの冷たさを和らげようとあがいている。


校庭の隅、古びた桜の木の隣に佇む梅の木。

その黒々とした、骨のように痩せた枝先をじっと見つめる。

そこには、赤紫色の硬い殻に包まれた蕾が、ほんのわずかに、米粒ほどの大きさで膨らみ始めていた。

指で触れれば弾けそうなほどの生命力を、その小さな体に凝縮させている。

凍てつく大地の底で、目に見えない根が水を吸い上げ、季節という巨大な歯車を、春に向けてゆっくりと、しかし確実に回し続けているのだ。


***


三学期が始まった教室の空気は、以前とは明らかに質が変わっていた。

澱んでいるようでいて、どこか張り詰めている。

湿度を含んだ重たい静寂と、全員の毛穴から滲み出るような焦燥感が混ざり合い、目に見えない粘膜となって空間を支配していた。


休み時間になっても、廊下を走る足音や、下品な笑い声は聞こえない。

聞こえてくるのは、乾燥した紙が擦れる乾いた音と、誰かが苛立ち混じりにシャーペンの芯をノックする音、そして、時折漏れる深いため息だけだ。

三十数名の生徒全員が、自分の机という小さな城に引きこもり、背中を丸め、黙々と単語帳をめくり、問題集と格闘している。

その背中は一様に強張っており、まるで「受験」という名の見えない巨大な敵が、教室の天井から我々を見下ろしているのを感じ取っているかのようだった。

それはある種の連帯感――同じ戦場に放り出された兵士たちが共有する、悲壮な一体感にも似ていた。


俺、佐々木健太の日常は、感情を排した精密機械のように、完璧なルーティンによって構築されていた。

朝六時。目覚まし時計のアラームが鳴るコンマ一秒前に目を覚ます。

洗面所で蛇口をひねり、刺すように冷たい水を両手で掬う。顔に触れた瞬間、肌の細胞が悲鳴を上げ、眠気の残滓が一瞬で吹き飛ぶ。鏡に映る自分の顔は、青白く、目の下には薄い隈ができているが、瞳の奥だけは異様な輝きを放っていた。


朝食までの貴重な三十分。

静まり返ったリビングで、英語のシャドーイングを行う。自分の口から出る発音と、イヤホンから流れるネイティブの音声を、脳内で寸分の狂いもなく重ね合わせる。続いて、壁に貼った巨大な歴史相関図を確認する。指先で人物と出来事をなぞりながら、時代の流れを脳の海馬に焼き付ける。


通学の満員電車。

湿ったコートの匂いと、他人の体温が入り混じる不快な空間。

だが、俺の意識はそこにはない。

昨夜、「アクティブ・リコール」――記憶の想起訓練によって炙り出された自分の弱点のみを抽出した、「最終兵器ノート」だけに視線を注ぐ。

電車の揺れに合わせて揺れる文字。その一文字一文字を網膜に焼き付け、脳の皺の隙間に押し込んでいく。


学校の授業は、もはや受動的に聞くものではない。

先生が黒板に書くチョークの音、言葉の抑揚、そして「ここは出るぞ」という微かなニュアンス。それら全てを獲物を狙う猛獣のような集中力で聞き分け、最高の演習時間として消化する。


放課後。

チャイムが鳴ると同時に鞄を掴み、誰とも言葉を交わさずに教室を出る。

目指す場所は一つ、図書館だ。

暖房が効きすぎた生温かい館内に入ると、古本特有の甘酸っぱい匂いと、インクの匂いが鼻腔をくすぐる。

一番奥の席を確保し、独自の「作戦指令書」を広げる。

閉館のアナウンスが流れるその瞬間まで、俺は世界との接続を断ち、ただひたすらに課題という名の敵をなぎ倒していく。


帰宅し、味などほとんど感じないまま夕食を流し込み、熱いシャワーで凝り固まった筋肉をほぐす。

そして、本当の戦いはここから始まる。

夜の帳が下りた自室。机上のスタンドライトだけが、俺の手元を白く照らし出している。

志望校、王葉高校の過去問演習だ。


これまでの数ヶ月、俺は自分の全てを捧げてきた。

英語は、単なる記号の羅列ではなく、意味を持った「音」として捉える感覚を掴んだ。

数学は、無機質な数字の羅列ではなく、美しい論理で構成された公式との対話だと知った。

国語は、筆者の思考の道筋を分解し、再構築する論理パズルとなった。

社会は、暗記ではなく、因果関係で結ばれた壮大な物語として脳内に描けるようになった。

理科は、日常の些細な「なぜ?」と教科書の知識がシナプスのように接続される快感を得た。


俺の武器は揃った。研ぎ澄まされた剣も、強固な盾も手に入れた。

意気揚々と、俺は過去問の冊子を開いた。


しかし。

そこで俺を待ち受けていたのは、絶望という名の、高く、冷たい壁だった。


「……時間が、全く、足りない……!」


初めて本番と同じ時間制限を設けて挑んだ時、俺の思考はパニックに陥った。

腕時計の秒針が進む音が、まるで時限爆弾のカウントダウンのように耳元で鳴り響く。

解けるはずの問題に手こずり、焦りで計算ミスを連発し、消しゴムを使う手が震えて紙を破いてしまう。

そして、無情にも試験終了を告げるアラームが鳴り響いた。


目の前に広がる解答用紙。

埋まっているのは全体の七割程度。残りの三割は、雪原のように真っ白な空欄のまま、俺の無力さをあざ笑っていた。


血の気が引いていくのがわかった。

指先が冷たくなり、心臓だけが早鐘を打っている。

いくら知識があっても、いくら技術があっても、時間内にアウトプットできなければ、それは「無知」と同じだ。

ゴールテープの目前で、突然レースの中止を宣告されたような、圧倒的な理不尽と徒労感。

「時間配分」という、これまでの勉強では意識してこなかった新たなラスボスが、腕組みをして俺を見下ろし、にやりと笑っていた。


焦燥感が、胃の腑から込み上げてくる。

もっと速く。もっと速く処理しなければ。

そのためには、知識を反射レベルまで高めなければならない。

瞬きすら惜しんで、俺はペンを走らせる。


だが、焦れば焦るほど、思考の歯車は空回りを起こす。

難解な応用問題に真正面から突っ込み、泥沼にはまり込み、時間を浪費する。

ふと時計を見れば、残り時間はわずか。

その結果、落ち着いていれば解けたはずの基礎問題にすら手が回らず、無惨な失点を重ねる。

負のスパイラル。最悪の悪循環。


「くそっ! なんでだよ! なんで解き終わらないんだよ!」


深夜の自室。

答え合わせの赤ペンが、白い紙の上を走るたびに、俺の心は傷ついていく。

苛立ちに任せてペンを机に叩きつけると、プラスチックが弾ける音が静寂を引き裂いた。

自分の不甲斐なさに、涙すら滲んでくる。


***


その週末。

鉛色の空からは、粉雪が舞い散っていた。

頬を刺す冷たい風に逆らいながら、俺は藁にもすがる思いで、最後の砦である図書館へと向かった。

自動ドアが開くと、温風と共にいつもの匂いが俺を包む。

カウンターの中には、司書の田村さんがいた。

丸眼鏡の奥の細い目をさらに細め、難解な顔つきで手元の数独パズルを睨みつけている。


俺が近づくと、彼は顔を上げ、俺の青ざめた表情と、目の下の濃いクマを見て、「ほう」と面白そうに片眉を上げた。


「どうした兄ちゃん、幽霊でも見たような顔してるぞ」


俺は何も言わず、無惨な結果に終わった過去問の答案用紙と、途中で書き殴られた計算用紙をカウンターに広げた。

そこには、俺の焦りと絶望が、乱れた筆跡となって刻まれていた。


田村さんは、俺の答案を手に取り、しばらく無言で眺めていた。

紙をめくる音だけが、静かな館内に響く。

やがて、彼は顔を上げ、拍子抜けするほど軽い口調で言った。


「兄ちゃん、まだ勘違いしてるな。受験ってのは、満点を取るゲームじゃないんだぜ」


「……え?」


予想外の言葉に、俺は間抜けな声を上げた。


「これはな、合格最低点っていうボーダーラインを、いかに効率よく、確実に超えるかっていうゲームなんだ。満点なんて、取る必要はどこにもない。誰もそんなこと期待しちゃいない」


田村さんは、俺の答案の、特に空白が目立つ後半部分を指差した。


「兄ちゃんは、律儀すぎるんだよ。出された料理を、前菜からデザートまで、一品残らず完食しようとしてる。だがな、相手はフードファイター並みの量を出してくるんだ。普通の胃袋じゃ、パンクするに決まってる」


彼は、俺の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、ふざけた雰囲気の中にも、鋭い理性の光が宿っていた。


「プロボクサーに、素人が喧嘩を売るようなもんだ。相手のパンチを全部正直に受け止めてたら、そりゃあ、時間切れでマットに沈むに決まってる」


「じゃあ、どうすれば……どうすれば、勝てるんですか」


俺の声は震えていた。


「選球眼を磨くんだ」


「選球眼? ……野球の?」


「そうだ。バッターボックスに立った時、ピッチャーが投げてくる球(問題)を、瞬時に見極めるんだ」


田村さんは、空中で見えないバットを構える仕草をした。


「『これは、ど真ん中のストレート。俺でも打てる、甘い球(基本問題)か』

『これは、キレのあるカーブ。ちょっと難しいが、粘ればヒットにできる球(標準問題)か』

そして……

『これは、どう足掻いてもバットに当たらない、消える魔球(捨て問)か』ってな」


彼は、指を三本立てて見せた。


「兄ちゃんがやるべきことは、ただ一つ。

確実に打てる甘い球から、順番に、確実にスタンドに運んでいくことだ。魔球には手を出さない。見送るんだ」


田村さんの言葉は、俺の凝り固まった脳味噌に、雷のような衝撃を与えた。コペルニクス的転回だった。


「難しい問題、時間がかかりそうな問題は、一度、綺麗さっぱり見送るんだ。勇気を持ってな。

そして、簡単な問題を全部解き終わって、それでもまだ時間が余っていたら、そこではじめて、バットを振ればいい。

意図的に『捨てる勇気』を持つこと。それが、この理不尽なゲームを制する、最後の、そして最強の戦略だ」


「捨てる勇気」……。


その言葉を口の中で反芻する。

それは重かった。

今まで積み上げてきた努力を、一部とはいえ放棄しろと言われているような気がしたからだ。

それは、自分の未熟さ、無力さを認め、敗北を受け入れることと同義に思えた。

だが、今の俺にはもう、それ以外の道は残されていないことも、痛いほど理解できた。


***


その日から、俺の過去問演習の風景は一変した。

机に向かう俺の姿勢は、以前のような悲壮感に満ちたものではなく、獲物を狙う狩人のように静かで、鋭いものになっていた。


「始め」の合図と共に、俺はペンを持たない。

まずは深呼吸をし、問題冊子全体をざっと見渡す。

そして、自分の磨き上げた「選球眼」を信じ、問題番号の横に印をつけていく。


◎(絶対に解ける、甘い球。数秒で解答方針が見える)

◯(時間はかかるが、解けるはずの球。計算や思考のプロセスが必要)

△(難しい、後回しにする球。解法がすぐには浮かばない)

×(魔球、捨て問。今の俺のレベルでは手も足も出ない)


シャーペンの先が、紙の上をリズミカルに叩く。

カツ、カツ、カツ。

仕分けが終わると、俺は迷うことなく◎の問題から着手する。

ペン先が滑らかに走り、思考が淀みなく紙の上に記述されていく。

確実に得点を積み上げているという実感が、指先を通じて脳に伝わり、さらなる集中力を生む。


この作業を繰り返すうちに、俺の心境に、不思議な変化が訪れていた。

以前は、解けない問題にぶつかると、悔しさで視界が歪み、腹が立ち、自分の頭の悪さを呪った。心拍数が上がり、呼吸が浅くなっていた。

だが、今は違う。


難問に出会っても、俺の心は凪いだ湖面のように静かだ。

「これは、今の俺には解けない問題だ。だから、捨てる」。

そう、客観的に、冷徹に判断できるようになったのだ。


自分の「できること」と「できないこと」の境界線を、感情を挟まずに見つめ、静かに受け入れる。

それは、諦めではなく、ある種の「悟り」に近い境地だった。


一問一問の正誤に、一喜一憂して心が揺れることはなくなった。

ただ、今の自分の持てる力の全てを出し切り、制限時間という枠の中で、獲得できる点数を一転でも多く積み上げる。

その、機械のように正確で、淡々とした作業に没頭する。


周囲の雑音は消え、視界には問題用紙と自分の手元だけが映る。

もはや、俺の心の中に、合否への不安や恐怖といった泥臭い感情は、ほとんど残っていなかった。


人事を尽くして、天命を待つ。


かつて、歴史の教科書の片隅で見た、古臭いその言葉の意味が、今、腑に落ちる感覚があった。

俺は、やるべきことは、全てやった。

この数ヶ月、俺は、これまでの十七年間の人生の中で、最も濃密で、最も純度の高い時間を過ごした。

その事実が、たとえどんな結果が待ち受けていようとも、決して揺らぐことのない、鋼のような自信を俺の背骨に通してくれていた。


***


自分自身の内面が変わると、不思議なことに、周囲の世界との関わり方も、少しずつ、しかし確実に変化していった。


図書館の帰り道、凍えるような寒さの中、白い息を吐きながら莉奈と並んで歩く。

以前であれば、彼女の横顔を直視することすらできず、心臓の音が聞こえないか心配していた。

だが今は、彼女とは本当の意味での「戦友」になっていた。

街灯のオレンジ色の光が、マフラーに顔を埋めた彼女を柔らかく照らしている。


「佐々木くん、なんかすごいね。最近、顔つきが変わったよ」


彼女が、ふと立ち止まり、真っ直ぐな瞳で俺を見た。


「そうか? 白石さんこそ……なんというか、もう手の届かないガラスケースの中のアイドルじゃなくて、ちゃんと血の通った人間なんだなって、思えるようになったぜ」


俺が少し照れ隠しにそう言うと、彼女は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに顔を真っ赤にした。

「え、それ、褒めてるの? けなしてるの?」

と言いながら、俺の肩をバンと叩く。

その衝撃と、彼女の手袋の感触が、分厚いコート越しに伝わってくる。

その他愛のないやり取りが、胸が締め付けられるほど愛おしく、嬉しかった。


かつて、教室で俺を「王葉様」と呼び、嘲笑の対象にしていた鈴木や佐藤。

彼らも今では、俺の最大の応援団に変わっていた。


「おい、健太! これ、やるよ!」


昼休み、鈴木が俺の机に放り投げたのは、湯島天神の合格祈願鉛筆だった。

「わざわざ行ってくれたのか?」と聞くと、彼は「たまたまだよ」とそっぽを向いたが、その耳は赤かった。


佐藤は、「お前、図形苦手だろ」と言って、ボロボロの参考書のコピーを渡してくれた。そこには、俺がいつも詰まるパターンの、鮮やかな解法が記されていた。


「お前が受かったら、マジで俺たちの伝説になるからな。頼むぜ、ヒーロー」


彼らの言葉は、もう空虚なからかいではなく、魂のこもった本物のエールだった。


そして、家族。

当初、俺の部屋の壁を埋め尽くす相関図や付箋を見て、狂気を感じて呆れ果てていた母親。

彼女は今、毎晩十一時になると、音もなくドアを開け、夜食のおにぎりや、湯気の立つコーンスープを置いていってくれるようになった。

言葉はない。だが、海苔の香りやスープの温かさが、「頑張れ」という母の声を代弁していた。


無口で不器用な父親。

ある日、机の上に、見慣れない黒い箱が置かれていた。

開けると、重心バランスが計算された、製図用の高級なシャーペンが入っていた。

俺が百円ショップのシャーペンを、手垢で汚れるまで使い倒しているのに気づいていたのだ。

その重みのあるペンの冷たい感触を確かめながら、俺は父の不器用な愛情を噛み締めた。


みんなが、俺を見ていてくれた。

孤独だと思っていた俺の戦いを、背後から支え、応援してくれていた。

その事実が、俺の心臓に熱い燃料を注ぎ込み、最後の力を振り絞る原動力となった。


***


入試を三日後に控えた日。

空は抜けるような青さだったが、風はカミソリのように冷たかった。

これが最後の図書館訪問になる。

俺の鞄の中には、いつもの重たい参考書ではなく、菓子折りの小さな箱が入っていた。


カウンターに向かう足取りは、不思議と軽かった。

田村さんは、いつものようにそこにいた。


「田村さん。今まで、本当に、ありがとうございました」


俺はカウンター越しに、腰を九十度に折り、深く、深く頭を下げた。

床のワックスの匂いが鼻をつく。


「俺、田村さんのおかげで、勉強が、生まれて初めて、面白いって思えました。

正直、受かるかどうかは、分かりません。確率は五分五分かもしれません。

でも、どんな結果になっても、俺、この数ヶ月のこと、後悔だけは絶対にしません」


顔を上げると、田村さんがじっと俺を見ていた。

その視線は、数独を解く時の鋭いものではなく、孫を見るような、どこか慈愛に満ちたものだった。

やがて彼は、口の端を吊り上げ、いつものニヒルな笑みを浮かべた。


「よせやい、兄ちゃん。俺は、何もしてないさ。目の前に、ちょっと面白いおもちゃがあったから、いじって遊んでただけだ」


彼は照れくさそうに頭を掻いたが、すぐに表情を引き締め、真剣な眼差しで俺を射抜いた。


「俺が教えたのはな、ドアノブの、ちょっとした回し方だけだ。

錆びついて、固く閉ざされていたその重い扉を、自力でこじ開けたのは、紛れもなく、兄ちゃん自身の力だ」


彼の言葉一つ一つが、俺の胸の奥深くに染み渡っていく。


「英語の戦い方も、数学の友達の作り方も、歴史の物語も、国語のパズルも、理科の冒険も。

全部、お前さんが血と汗を流して手に入れた、一生使える武器だ。

それは、高校でも、大学でも、社会に出てからも、必ずお前を助けてくれる。

だからな、胸を張って、自信を持って、行ってこい。

お前はもう、十分に強い」


田村さんからの、飾り気のない、しかし最高のエールだった。

視界が潤み、田村さんの顔がぼやける。

鼻の奥がつんと痛み、喉が熱くなる。

俺は、溢れそうになる涙をこらえ、もう一度深く頭を下げると、踵を返した。

背中で、田村さんがページをめくる音が聞こえた気がした。

もう、振り返る必要はなかった。


***


入試前夜。

時計の針は午後九時を回っていた。

俺は、参考書、問題集、ノートの全てを閉じ、本棚に整然と並べた。

手垢で黒ずんだ表紙、ボロボロになった背表紙、マーカーで極彩色に彩られた相関図。

それらは単なる紙の束ではない。

俺の戦いの軌跡であり、汗と涙の結晶であり、共に戦った戦友たちだ。


「ありがとう」


俺はそれらに向かって、心の中でそっと別れを告げた。

そして、いつもより早く、ベッドにもぐりこんだ。

冷たいシーツの感触が心地よい。


不思議なほど、心は穏やかだった。

あれほど恐れていた夜が来たのに、俺の精神は、嵐の前の静かな海のように凪いでいた。

心拍数は一定で、呼吸も深い。


窓の外を見上げる。

カーテンの隙間から、冬の冴え冴えとした夜空が見えた。

空気が澄み切っているせいで、満天の星が、まるで宝石箱をひっくり返したように瞬いている。

その中心で、オリオン座の三つ星が、ひときわ強く、青白い光を放っていた。


あの星の光が地球に届くまでにかかる時間を思う。

それに比べれば、俺の悩みなど、なんとちっぽけなものだろうか。


窓ガラスの向こう側、漆黒の闇の先には、春が、もうすぐそこまで来ている気配がした。


俺の人生で、最も長く、最も苦しく、そして何よりも、最も濃密だった数ヶ月間が、今、終わろうとしている。

俺は、瞼の裏に、関わってくれた全ての人々の顔を思い浮かべた。

照れ屋の莉奈、お調子者の鈴木と佐藤、静かに見守ってくれた母さん、不器用な父さん、そして、導いてくれた田村さん。


胸の奥から、温かいものが込み上げてくる。

心の中で、一人一人に「ありがとう」と呟く。

その感謝の思いが、不安を塗りつぶし、勇気へと変わっていくのを感じた。


そして、俺は静かに、目を閉じた。

意識が、深い眠りの底へと沈んでいく。

決戦の朝は、もう、間もなくだ。

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