第2話:英語教科書は「読むな、聴け!」
昨夜、胸の内に澱のように溜まった絶望は、一晩眠った程度では消え去ってくれなかった。それは鉛を溶かし込んだ泥のように胃の腑の底へと重苦しく沈殿し、目覚めと共に、不快な重量感となって全身を蝕んでいた。
意識の覚醒は緩慢だった。眠ったのか、それとも泥沼のようなまどろみを彷徨っていただけなのか判然としない。重いまぶたを無理やり押し上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井の染みと、カーテンの隙間から強引に侵入してくる朝の光だった。
その光はまだ、真夏特有の暴力的な白熱を帯びてはおらず、どこか淡く、頼りなげな乳白色をしている。一年の中で七月の早朝だけが許された、ほんの束の間の慈悲のような優しさだった。
ベッドから半身を起こすと、ひんやりとした朝の空気がパジャマの隙間から肌へと滑り込んでくる。昨夜、自室に充満していたじっとりと肌にまとわりつくような蒸し暑さが、まるで幻であったかのように霧散している。
私はのろのろと窓辺に歩み寄り、錆びついたクレセント錠を回してサッシを開け放った。
途端、世界が鮮やかな色彩を持って目に飛び込んでくる。庭の片隅に植えられた紫陽花。その肉厚な葉の一枚一枚に、夜の間に降りた朝露が真珠のように乗っている。それらが朝陽を乱反射させ、視界の端できらきらと無垢な輝きを放っていた。
鼻腔をくすぐるのは、湿り気を帯びた黒土の濃厚な匂い。そして、その土臭さに混じって、近所のどこかの換気扇から吐き出されたであろう、出汁の効いた味噌汁の香ばしい湯気が漂ってくる。誰かの生活。誰かの日常。
それは、あまりにも平和で、そして残酷なまでに完成された「朝」の匂いだった。
平和だ。
そう、この世界は、俺の個人的な事情など歯牙にもかけず、驚くほど平和に、そして精巧に回っている。
俺の模試の偏差値が絶望的な「38」を叩き出そうとも、高嶺の花である白石莉奈が俺の存在など認識すらしていない雲の上の住人であろうとも、太陽は厳粛な規則正しさで東の空を昇り、スズメたちは電線の上でけたたましくさえずり、隣家の飼い犬はいつものように郵便配達員のバイクの音に反応して吠え立てる。
俺ひとりが抱える絶望など、この巨大な世界の営みにおいては、蚊が刺した痕ほどの意味も持たない。
その圧倒的で冷徹な事実を突きつけられ、俺は自分が塵芥のように惨めな存在に思えた。だが同時に、その無関心さが、ほんの少しだけ強張った肩の力を抜いてくれるような気もした。世界が俺に期待していないという事実は、ある種の安らぎでもあったからだ。
「……行くか」
喉の奥で絡まった痰を切るように、誰に聞かせるでもなく呟いた。声はカサカサに乾いていて、自分のものとは思えないほど情けない響きを含んでいた。
重力に逆らうようにベッドから這い出し、洗面所で冷水を顔に叩きつける。鏡の中の自分は、相変わらず生気のない顔をしている。食欲など皆無だったが、胃袋を動かす燃料として、焼きすぎたトースト一枚を無理やり喉の奥へと押し込んだ。ザラザラとしたパン屑が食道を擦り落ちていく感覚に顔をしかめる。
向かう先は、一つしかない。
自室。そこは俺にとって、もはや安息の地ではない。
本棚にずらりと並んだ背表紙の色鮮やかな漫画たち。モニターの電源を入れるだけで無限の虚構世界へ誘ってくれるゲーム機。そして、一度横たわれば二度と起き上がりたくなくなる魔性の柔らかさを誇るベッド。それらは全て、俺の貧弱な集中力を根こそぎ奪い取るために組織された、最強かつ最悪の「敵地」だ。
昨夜の戦いにおいて、俺はこの甘美な包囲網の前に、わずか三十分という記録的な短時間で白旗を揚げ、無条件降伏を余儀なくされた。怠惰という名の甘い毒に、全身が麻痺させられたのだ。
同じ過ちを繰り返す愚を犯すわけにはいかない。
古の兵法書にもあるではないか。「敵を知り、己を知れば百戦殆うからず」と。
俺は、己がいかに誘惑に弱く、いかに易きに流れるダメ人間であるかを、骨の髄まで痛いほど思い知らされた。
己の意志の力で環境を変えられないのなら、物理的に戦う場所を変えるしかない。
これは逃走ではない。
あくまで、勝利のための戦略的転進である。
自分自身への言い訳を脳内で繰り返し、俺は玄関の隅で埃を被っていた紺色のリュックサックを掴んだ。中には、まるで漬物石のように重たい歴史の教科書、数学の問題集、そして書き込みのない真っ白なノートを乱暴に詰め込む。
目指すは、市立中央図書館。
冷暖房完備の快適な室温、私語厳禁の静寂、そして何より、漫画もゲームも存在しない禁欲的な空間。
そこは、俺のような意志薄弱な人間にとって、この世に残された唯一にして最後の聖域(サンクチュアリ)であるはずだった。
錆びついたチェーンを軋ませながら自転車のペダルを漕ぎ出すと、生ぬるい風が頬を撫でて後方へと流れていく。
住宅街はまだ朝の静けさを保っていた。時折、新聞配達のスーパーカブが独特の乾いた排気音を残して走り去り、その音が遠ざかるにつれて再び静寂が満ちてくる。
アスファルトの上に落ちる電柱の影は、夏の太陽の角度を反映して長く鋭く伸び、俺の進むべき道を無言で指し示しているようだった。道端の花壇では、名前も知らない小さな赤い花が、誰に見られるためでもなく健気に咲き誇っている。その生命力の強さが、今の俺には少し眩しすぎた。
俺の心境は、まるで特攻を命じられた兵士が、悲壮な決意を胸に最前線の戦場へと向かうそれに近かった。
この穏やかで美しい日常の風景も、今日で見納めかもしれん……。
いや、別に死地に赴くわけではない。ただ勉強をしに行くだけだ。そんな自虐的なツッコミを入れながら、俺はペダルを漕ぐ足に力を込めた。
図書館に到着し、巨大なガラス張りの自動ドアがウィーンと音を立てて左右に開く。
その瞬間、極寒の地へ瞬間移動したかのような、ひやりとした冷気が全身を包み込んだ。
外の、肌にまとわりつくような湿気と熱気とは隔絶された別世界。文明の利器たる空調設備が作り出した、人工的な天国がそこにはあった。
一歩足を踏み入れると、鼻腔をくすぐるのは、数万冊の古紙と印刷インクが混じり合った独特の香り。それに、床ワックスの微かな化学的な匂いが混ざり合う。それは「知」の匂いであり、静謐の香りだった。
しん、と静まり返った広大な館内には、大勢の人間がいる気配は濃厚にするのに、話し声ひとつ聞こえない。衣擦れの音や、ページをめくる乾いた音だけが、さざ波のように空間を漂っている。
来た。
ここが俺のエルサレム。
約束の地だ。
俺は湧き上がる勝利への確信を胸に、受付で学習室の利用票を受け取ると、意気揚々と階段を駆け上がり二階へ向かった。
学習室は、防音ガラスの壁で仕切られた、まさに「勉強するためだけ」に特化したストイックな空間だった。
無機質な長机が整然と並び、すでに半分ほどの席が埋まっている。俺と同じような受験生らしき中高生や、分厚い専門書を広げて資格試験の勉強に励む大人たち。彼らの背中からは、近寄りがたいほどの気迫が立ち上っていた。
誰もが、まるで獲物を狙う猛獣のような鋭い眼差しを目の前のテキストに落とし、凄まじい集中力を発揮している。
空間全体がピリピリと張り詰め、それでいて心地よい緊張感が支配していた。これだ。この空気だ。この中に身を置くだけで、俺の偏差値も自然と上昇しそうな錯覚すら覚える。
「……勝ったな」
俺は空いていた窓際の席にリュックをドスンと置き、誰にも見えないように小さくガッツポーズをした。
この完璧な環境で集中できない人間がいるだろうか。いや、いない(反語)。
俺はリュックの口を開け、まずは昨日惨敗を喫した日本史の教科書を取り出した。ここからリベンジを開始するのだ。
カリカリカリ……。
自分のシャープペンシルが、滑らかなノートの上を走る微細な振動と音が心地よい。
いいぞ。すごくいい。脳の回路がスムーズに接続されている感覚がある。
俺は織田信長がいかにして旧体制を破壊し、天下統一への道筋をつけたのか、その過程を必死でノートに書き写していく。
本能寺の変の火の色、明智光秀の裏切り、山崎の戦いの喧騒……。歴史の奔流が、俺の脳内を駆け巡る。
――ズズッ。
不意に、その静謐な世界を鋭利な刃物のように切り裂く、湿り気を帯びた不快な音が鼓膜を打った。
思考が強制停止する。
音の発生源は、二つ前の席に陣取っている黒縁メガネの男だった。
彼は、恐ろしいほど定期的なリズムで、鼻水をすするのだ。
それも、単に垂れてきたものを戻すといった可愛いものではない。
一度、肺活量の限界まで大きく息を吸い込み、鼻腔の奥に溜まった粘液を真空ポンプのような吸引力で引き上げ、喉の奥で何かを回転させ、最後に「ズズッ!」と、全ての粘液を食道へと送り込む。
その一連の動作は、もはや呼吸というよりは、一種のグロテスクな儀式のようだった。
気にするな、俺。
集中しろ。
信長は、いちいち部下の鼻水など気にしなかったはずだ。もっと大きな視点で世界を見ていたはずだ。
俺は再び教科書に視線を落とし、文字の羅列を追う。
豊臣秀吉。刀狩り令。太閤検地による石高制の確立。
――ズズズズズッ! ジュルッ。
今度はさっきよりも長く、そして粘度が高い音がした。
しかも、フィニッシュに妙なビブラートと、液体が個体になりかけたような「ジュルッ」という音が混じっている。
なんだ、あの男は。鼻腔を使って未知の楽器でも演奏しているのか。
俺の脳は、秀吉の画期的な政策よりも、メガネ男の鼻腔内で起きている流体力学の分析を勝手に始めてしまった。汚い。あまりにも汚いが、気になって仕方がない。
いかん、いかん。
俺は物理的に頭を振って雑念を追い払う。
よし、気分転換だ。科目が悪い。歴史は一度置いておこう。
次は数学だ。論理的な思考の世界へ逃げ込むのだ。二次関数のグラフ。放物線が描く美しい曲線。y=ax²……。
――カチッ、カチッ、カチカチカチッ!
新たな刺客が現れた。今度の敵は、斜め右前方の席に座る女子高生だった。
彼女が愛用しているシャープペンシルは、ノックするたびに神経を逆なでするような甲高い金属音を立てるタイプらしい。
しかも、彼女は極度の強迫神経症的なこだわりがあるのか、コンマ一秒ごとに芯の長さをミリ単位で調整しているようだった。
カチッ、と一回だけなら許容範囲だ。
だが、カチカチカチッ、と三連打されると、それはもうモールス信号である。
俺の脳は、放物線の頂点を求めることを放棄し、勝手にその信号の解読を試み始める。
「タ・ス・ケ・テ……」いや、違う。「シ・ヌ・キ・デ・ヤ・レ」か?
静寂は、時として暴力になる。
家で勉強している時は、リビングから聞こえるバラエティ番組の笑い声も、母親が皿を洗う音も、それほど気にならなかった。それらは生活音として背景に溶け込んでいたからだ。
だが、この図書館という極限まで研ぎ澄まされた静寂の中では、どんな些細な音も、増幅され、鋭利な凶器となって鼓膜に突き刺さってくる。
隣の席の男がページをめくる音。
向かいの席の老婆の乾いた咳払い。
誰かが椅子を引く時の摩擦音。
床に落ちた消しゴムが弾む、トントンという小さな音。
そのすべてが、俺の集中力をピラニアのように食い荒らし、削り取っていく。
さらに恐ろしい敵が、俺自身の内側に潜んでいた。
それは、「思考の暴走(マインド・ワンダリング)」という名の制御不能な魔物だ。
静かすぎる環境は、外部からの刺激がない分、自分の内側から湧き上がる思考を、どこまでも遠く、脈絡のない場所へと飛ばしてしまう。
(……そういえば、昨日のテレビに出てた若手芸人、面白かったな。あのネタの構成、どうなってるんだ? ボケのタイミングが絶妙だった。あれは計算なのか、天然なのか……)
(……腹減ったな。今日の夕飯、なんだろう。カレーの匂いがしてた気がする。もしカレーなら、福神漬けは必須だ。俺はらっきょう派ではなく、断固として福神漬け派だ。あの赤い着色料こそが食欲をそそる……)
(……白石さん、今頃なにしてるのかな。彼女もどこかで勉強してるんだろうか。彼女の部屋はどんな感じなんだろう。きっと、モデルルームみたいに綺麗で、すごくいい匂いがするに違いない。ラベンダーの芳香剤? いや、彼女はもっとこう、人工的じゃない、洗い立ての石鹸のような清潔な香りが……)
ハッ!
俺は我に返り、慌てて左手首の腕時計に目をやった。
図書館に来てから、すでに二時間が経過している。短針が無慈悲に進んでいる。
恐る恐る視線を落とした先のノートは、驚くべきことに、ほとんど白紙のままだった。
歴史の用語が数行、数学の放物線が一本、途中まで引かれているだけ。
まるで、砂漠に残された瀕死の虫の這い跡のようだ。
二時間。120分。7200秒。
その膨大な時間の中で、俺が本当に勉強に集中していた時間は、一体どれくらいだっただろうか。
細切れの断片を全部かき集めて繋ぎ合わせても、おそらく20分にも満たないだろう。
残りの100分間、俺は、メガネ男の鼻水サウンドと、女子高生のノック連打と、そして自分の脳内で繰り広げられるカオスな思考の暴走と、誰にも評価されない壮絶なバトルを繰り広げていただけだったのだ。
絶望。
自室という敵地から決死の覚悟で逃れ、聖地・図書館に辿り着いたはずだった。
なのに、ここもまた、形を変えただけの魔境だった。いや、逃げ場がない分、こちらの方が質が悪い。
俺は、糸が切れた操り人形のように、がっくりと机に突っ伏した。
もうダメだ。
俺は、勉強という高尚な行為そのものに、遺伝子レベルで適性がないのだ。
魚が陸で呼吸できないように、鳥が海の中で羽ばたけないように、俺は机の前では生きられない生物なのだ。
諦めよう。
南高校でいいじゃないか。
バイクいじりしか能のない友人の鈴木と、ファミレスでダラダラ過ごす三年間も、それはそれで青春かもしれない。きっと楽しいはずだ……そう思うことにしよう……。
「……兄ちゃん、死んだ魚みたいな目をしてるな」
不意に、頭上から、気の抜けた、それでいて妙に芯のある声が降ってきた。
弾かれたように顔を上げると、そこに一人の初老の男が立っていた。
年の頃は、五十代後半、あるいは六十代だろうか。
襟元のよれたくたびれたポロシャツに、何度も洗濯して色褪せたベージュのチノパン。
図書館の職員が首から下げるプラスチックの名札には、「田村」という文字だけが素っ気なく書かれている。
白髪混じりのボサボサの頭は寝癖がついたままで、瞼は重く垂れ下がり、やる気のなさそうな瞳が、どんよりと濁っている。
全体的に、「定年間近の窓際族」という哀愁漂うオーラを、全身の毛穴から発散させている男だった。
「いや……その……」
突然のことに言葉に詰まる俺を見て、田村さんは口の端を歪めた。
「まあ、無理もない。人間の集中力なんてものはな、もって15分。最高に調子が良くても25分だ。二時間もぶっ通しで机にかじりつこうなんてのは、土台無理な話なんだよ。人間の脳みそは、そんなふうに出来ちゃいない」
田村さんは、俺の惨憺たる白紙のノートを一瞥すると、こともなげに言った。
え? そうなの?
俺は、クラスのマドンナである莉奈や、この学習室にいる他の受験生たちが、何時間も微動だにせず、石像のように集中しているように見えていた。彼らは特別な脳みそを持っている超人ではないのか。
「彼らは、ずっと集中してるわけじゃない。集中と、弛緩を、波のようにうまく繰り返してるだけさ。自分の脳みそを騙してるんだよ」
「騙す……?」
「そう。これから25分だけ、死ぬ気で頑張るぞ、と脳に宣言する。すると脳は、『なんだ、たった25分か。それなら耐えてやるか』と油断して、おとなしく言うことを聞く。で、25分経ったら、5分間、徹底的にサボるんだ。窓の外の雲を眺めるもよし、トイレに行くもよし。脳を完全にオフにする。そしてまた、25分だけ頑張る。その繰り返しだ」
田村さんは、まるで長年連れ添った悪友に酒場で語りかけるように、飄々とした口調で言った。
その言葉には、妙な説得力があった。
「兄ちゃん、スマホ持ってるだろ。タイマー機能、あるだろ。25分でセットしてみな。世界が変わるかもしれんぞ」
そう言うと、田村さんは「まあ、気楽に頑張りな」と俺の強張った肩をポンと軽く叩き、乱雑に積まれた本の整理をするために、足音もなく去っていった。
その背中は、やはりどこか頼りなかったが、不思議と大きく見えた。
25分。
その数字が、呪文のように妙に頭に残った。
騙されたと思って、やってみるか。他に打つ手もない。
俺はポケットからスマホを取り出し、タイマーを25分00秒にセットした。
ターゲットは、一番の強敵であり、俺の偏差値を底なし沼へと引きずり込んでいる元凶、英語だ。
よし、この25分間だけは、あの鼻すすり男が鼻で交響曲を奏でようが、ノック連打女子がモールス信号で世界を救おうが、晩飯のカレーの具材が何であろうが、白石さんの石鹸の香りが幻臭として漂ってこようが、全て無視する。
俺の世界に存在するのは、俺という意識と、この英語の教科書という物質だけだ。
スタートボタンを、親指で強く押す。
画面上の数字が、24:59、24:58と減り始めた。静かな、しかし確実なカウントダウン。
教科書を開く。Unit 3、"A Trip to London"。
最初の文。"I have been to London twice."
いきなりだ。冒頭から巨大な壁が立ちはだかる。
アイ・ハブ・ビーン……?
ハブは「持っている」。ビーンは……なんだ、豆か? ジェリービーンズのビーンか?
俺は二回、ロンドンに豆を持っていた? あるいはロンドンへ豆を運びに行ったのか?
意味不明だ。文脈が崩壊している。
これはきっと、何か特別な、俺の知らない高尚な言い回しなのだろう。
熟語というやつか。
俺は電子辞書を開く。「have been to ~」と入力する。
「~へ行ったことがある」。
なるほど。豆は関係ないのか。一つ賢くなった。しかし、なぜ「持っている」と「~である」の過去分詞が合体すると「行ったことがある」になるのか、理屈がさっぱり分からない。
次の文。"It is one of the most exciting cities in the world."
イット・イズ・ワン・オブ・ザ・モスト・エキサイティング・シティーズ……長い。単語が多すぎる。
モスト? エキサイティング? 辞書、辞書……。
俺は、一語一語、外科手術のように慎重に意味を調べては、ノートに書き込み、それをパズルのように日本語の語順に並べ替えていく。
「それは、世界で、最も、興奮する、都市の、一つです」
……なんとか、意味は通じる日本語になった。
だが、ふと顔を上げてページ全体を見渡す。文字が蟻のように密集している。
この緻密な解読作業を、この教科書一冊分、全部やるのか?
気が遠くなる。スプーン一本で砂山を移動させるような、途方もない作業に思えた。
脳の血管が焼き切れそうだ。
それでも、今は25分の集中タイムだ。
俺は歯を食いしばり、脂汗を垂らしながら、次の文に取り掛かった。
関係代名詞の which が出てきたあたりで、俺の脳はプスンと音を立てて、本格的に思考を停止し始めた。
もう、日本語に翻訳することすらできない。
ただ、アルファベットという記号の羅列が、意味を持たないまま目の前をスルスルと滑っていくだけだ。
(ああ……腹減った……カレー食いたい……チーズトッピングで……)
ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。
無情にも、25分の終了を告げるアラームが鳴った。
俺は、フルマラソンを完走したかのように精根尽き果てて、再び机に突っ伏した。
進んだのは、たったの三行。
しかも、その三行の日本語訳すら、本当に合っているのか自信がない。
25分に区切ったところで、そもそも基礎能力がなければ、何も進まないじゃないか。
時間は区切れても、俺の頭の悪さは区切れない。
絶望が、先ほどよりも高く冷たい波となって、第二波として押し寄せてきた。
「……だから、言ったろ。目で追うから分からなくなるんだって」
いつの間にか、再び田村さんが背後に立っていた。
この人、気配を消す特殊訓練を受けた忍者か何かなのか。
「だって、読まないと意味、分からないじゃないですか……」
俺は涙目になりながら反論した。
「じゃあ聞くが、兄ちゃんは赤ん坊の頃、分厚い日本語の文法書を読んで、主語と述語の関係を理解してから、初めて『ママ』って言ったのか?」
「え?」
「違うだろ。周りの大人が話す『音』を、意味もわからずひたすら聴いて、それをオウム返しに真似して、口にしてるうちに、脳みそが勝手にルールを見つけ出して、日本語を覚えたんだ。言葉ってのは、本来そうやって肉体的に覚えるもんなんだよ」
田村さんは、俺の英語の教科書を無造作に手に取ると、裏表紙に付属している未開封のCDを指差した。
「英語も同じだ。読むな。聴け。そして、真似しろ」
「真似……?」
「そう。シャドーイングって言うんだがな。CDから流れてくる音声の、ほんのコンマ数秒後を、影(シャドウ)のように追いかけて、そっくりそのまま真似して発音するんだ。意味なんて考えなくていい。発音も、最初はめちゃくちゃでいい。ただひたすら、音をコピーすることだけに集中するんだ。音楽を聴いて歌うのと一緒だ」
意味も分からん異国の呪文を唱えて、何になるというのだ。
俺は、その提案が、あまりにも非科学的で、受験勉強という神聖な場において不謹慎で馬鹿げているように思えた。
勉強とは、眉間に皺を寄せて理解し、論理的に考え、そして暗記する、苦痛を伴う知的な作業のはずだ。
そんな猿真似のような行為に、何の意味がある。
俺の顔に浮かんだあからさまな懐疑的な表情を読み取ったのか、田村さんは顔中の皺を深くして、にやりと笑った。
「騙されたと思って、やってみな。一ヶ月、毎日30分でいい。脳みそが、バラバラのジグソーパズルのピースを勝手にはめるみたいに、英語の語順とリズムを組み立て始めるから。その方が、辞書と首っ引きで暗号解読みたいな和訳をするより、百万倍早いぜ」
そう言い残し、田村さんは今度こそ自分の定位置であるカウンターへと戻っていった。
シャドーイング。
俺はその聞き慣れない言葉を、口の中で飴玉のように転がして繰り返した。
馬鹿げてる。
でも、あの田村さんの、すべてを見透かしたような達観した目には、妙な説得力と引力があった。
その日の帰り、閉館を知らせる「蛍の光」のメロディが流れる時間ぎりぎりまで粘った俺は、疲労困憊でとぼとぼと図書館の階段を降りていた。
その時、ふと、学習室のガラスの向こうに、見慣れたシルエットがあることに気づいた。
白石莉奈だった。
夕焼けのようなオレンジ色の西日が差し込む窓際で、彼女もまだ、ここに残って勉強していたのか。
俺は思わず足を止め、吸い寄せられるように、彼女の様子を物陰から盗み見た。
彼女は、細いコードのついた小さなイヤホンを耳につけ、英語の教科書を開いていた。
そして、周りには聞こえないくらいの、本当に小さな、吐息のような声で、何かを口ずさんでいる。
窓から差し込む光が彼女の横顔を照らし、神々しいほどの美しさを際立たせていたが、俺が注目したのはそこではなかった。
彼女の唇の動きだ。
よく見ると、それは日本語の動きではない。
もっと複雑で、滑らかな動き。
英語だ。
彼女の口から、途切れることのない、流れるような英文が紡ぎ出されていく。
まるで、お気に入りの洋楽を口ずさむように。
リズムに乗り、抑揚をつけ、感情を込めて。
それはまさしく、先ほど田村さんが言っていた「シャドーイング」そのものだった。
雷に打たれたような衝撃、とはこのことだろうか。
俺は、その場に釘付けになり、指一本動かせなくなった。
そうか。
「できる人」は、そうやって勉強していたのか。
俺が、一語一語、辞書を引き、日本語の文法という型枠に無理やり英語を押し込め、チマチマと解読作業をしていた、その同じ時間に。
彼女は、英語を英語のまま、音とリズムの塊として、脳に直接インストールしていたのだ。生きた言葉として、身体に取り込んでいたのだ。
俺が見ていたのは、無数のアルファベットという無機質な「点」。
彼女が見ていたのは、意味と感情を持つサウンドの「線」。
見えている世界が、捉えている景色が、根本から違っていたのだ。
俺の中で、ガラガラと、何かが音を立てて崩れ落ちていく音がした。
それは、これまで俺が「勉強」だと信じ込んでいた固定観念が崩壊する音だった。
俺がやっていたのは、ただの、非効率で、無意味な、自己満足の苦行でしかなかったのかもしれない。
帰り道、自転車のペダルがやけに重く感じた。
太ももの筋肉が悲鳴を上げている。だがそれは、単なる疲労のせいだけではなかった。
新しい世界への扉が、ほんの少しだけ、数ミリだけ開いたような、そんな期待と不安が入り混じった、実体のある重さだった。
家に帰り着き、俺は夕食のカレーの匂いにも目もくれず、自分の部屋へと駆け込んだ。
部屋の隅、雑誌の山の下から、ホコリをかぶっていた古いポータブルCDプレーヤーを発掘する。
そして、英語の教科書の裏表紙に挟まったまま、一度も光を浴びることのなかったCDの透明なフィルムを、震える指先で破った。
プレーヤーにディスクをセットし、ヘッドホンを耳に押し当てる。再生ボタンを押す。
ディスクが回転するウィーンという駆動音が響き、やがて、クリアな、ネイティブスピーカーの女性の声が、直接脳髄に響くように流れ込んできた。
"Unit 3. A Trip to London. I have been to London twice..."
俺は、大きく深呼吸を一つすると、恐る恐る、その音の影を追いかけ始めた。
「あ、あい……はぶ……びーん……とぅ、ろんどん……とぅわいす……」
自分の口から発せられたカタコトの英語は、リズムも抑揚もなく、あまりにも拙く、情けなくて、思わず吹き出してしまいそうになった。
だが、もう笑う気力もなかったし、笑ってごまかすつもりもなかった。
呪文でも、猿真似でも、なんでもいい。
騙されたと思って、続けてみよう。
あの、図書館の主のような不思議な老人、田村さんと。
そして、俺とは違う高みから世界を見ている少女、白石莉奈を、信じてみよう。
ヘッドホンから流れる、滑らかな英語の音の波に耳を澄ませながら、俺は固く、そう決意した。
不思議と、胸の内の澱は消えていた。
窓の外では、昼間の熱気がすっかりと引き、湿り気を帯びた涼しい夜風がカーテンを揺らしている。
虫の音が響き始める夜。
長く、長く、そして熱い夏は、まだ始まったばかりだ。
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