第1話:偏差値38の宣戦布告

 視界の端で、アスファルトが溶解しているのではないかと錯覚するほどに、世界は歪んでいた。

 七月。

 校舎を包み込む大気は、もはや気体としての性質を失い、粘着質な液体となって肌にまとわりついてくる。中学三年生の夏は、まるで母親の胎内に「慈悲」という概念を置き忘れてきたかのような暴力的な熱量を伴って、僕たちを圧迫していた。


 窓枠で切り取られた空は、絵の具をチューブから直接絞り出したような暴力的な青色をしている。校庭の片隅に屹立する古びた銀杏の木は、その濃緑色の葉をぐったりと重力に従わせ、光合成という生命維持活動すらサボタージュしているように見えた。風は死に絶え、埃っぽいカーテンは微動だにしない。




 その静止した風景の中で、唯一活動を許されているのは蝉たちだけだった。

 窓の外にある桜並木の樹皮にしがみつき、彼らは腹を震わせる。

 ジジジ、ジジジ、ワシワシワシッ。

 死ぬ気で鳴いているのか、それとも生きるために叫んでいるのか。数千、数万の個体が奏でる不協和音は、音というよりも物理的な振動となって窓ガラスを震わせ、俺たちの鼓膜を蹂躙し、思考回路を焼き切ろうとしていた。そのリズムは、夏という季節が持つ圧倒的な生命力の誇示であり、同時に、あらゆる知性的な活動を停止させるための強力な催眠術のようでもあった。


 五時間目、古典。

 教室の前方から、微睡(まどろ)みを誘う呪文が聞こえてくる。

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて……」

 担当のタナカ先生の声は、長年使い込まれたレコードのように擦れ、抑揚がなく、チョークの粉が舞う澱んだ空気の中に溶けていく。千年前のインフルエンサー、清少納言が綴った情緒あふれる言葉も、この教室では睡眠導入剤の一種でしかなかった。


 俺、佐々木健太の意識は、とっくに成層圏を突破して虚空を漂っていた。

 空腹で萎んだ胃袋が、グウ、と情けない音を立てそうになるのを必死に堪える。俺の脳内翻訳機は、平安文学を勝手に改竄し始めていた。

『腹はペコペコ。だんだん白くなりゆく意識の彼方、すこしばかりの給食の残り香……』

 思考のリソースの九割は活動を停止し、残された僅かな一割の領域で、極めて重大な審議が行われている。

(今日の給食の余ったデザート……あれは冷凍みかんだったか、それともコーヒー牛乳だったか。もしジャンケン大会が開催されるなら、チョキを出すべきか、パーで攻めるべきか……)

 それは、俺の人生にとって国家機密に匹敵する重要事項だった。


 視線を、あてもなく彷徨わせる。

 机の左隣、通路を一つ挟んだだけの、わずか一メートルほどの距離。

 そこに、白石莉奈が座っていた。


 この湿度九〇パーセントを超えそうな蒸し風呂のような教室の中で、彼女の周囲だけ、まるで高原の避暑地のような清涼な空気が流れている。

 窓から差し込む西日が、彼女の艶やかな黒髪を照らしていた。一本一本が絹糸のように繊細なその髪は、風もないのにサラリと揺れ、ふわりとシャンプーのような、あるいは洗い立てのリネンのような、清潔で微かな香りを漂わせている気がした。

 後ろで一つに束ねられた髪の隙間から覗くうなじは、白磁のように滑らかで、汗ひとつかいていない。そこだけが真珠のような光沢を放ち、俗世の汚れを一切寄せ付けない神々しさがあった。


 彼女は背筋を定規で引いたようにピンと伸ばし、少しだけ小首を傾げている。その視線は黒板の文字を一文字たりとも見逃すまいと真剣そのもので、長い睫毛が時折、瞬きに合わせて蝶の羽のように揺れる。

 真っ白なノートの上を、高価そうなシャープペンシルの芯が滑っていく。


 カリ、カリ、カリ……。


 蝉の大合唱とタナカ先生の読経のような朗読の合間を縫って、その硬質で律儀な音だけが、俺の耳にクリアに届いた。

 それは、俺のような凡人が土足で踏み入ることの許されない聖域で鳴り響く、清らかな鐘の音のようだった。


 俺と、白石莉奈。

 同じ教室という箱庭に詰め込まれ、同じ成分の空気を吸い、同じ授業を受けている。

 物理的な距離は、手を伸ばせば届くほどに近い。

 だが、俺たちの間に横たわる精神的な距離は、地球と木星、あるいはミジンコと銀河系くらい離れているように思えた。


 俺が教科書を「カップ麺の蓋を閉じるための重し」もしくは「突発的な昼寝のための枕」として認識しているのに対し、彼女はそれを「人類の叡智が凝縮された宝箱」として扱っている。事実、俺の机の上に広げられた古典の教科書では、昨晩食べた味噌ラーメンの汁が跳ねてできた茶色いシミが、菅原道真の額に第三の目のような模様を描いていた。


「――というわけで、この一節に込められた作者の心情を、次の時間までに考察してくるように」


 タナカ先生が教科書をパタンと閉じる乾いた音が、俺の意識を現実へと引き戻した。

 考察? 心情?

 千年も前に死んだ清少納言の気持ちなんて、本人にLINEでも送らない限り分かるわけがないだろう。それともタイムマシンの開発が宿題なのか。

 そんな理不尽な要求に対し、教室のあちこちから、けだるげな呻き声が漏れる。


 だが、莉奈だけは違った。

 彼女は「はい」と、鈴を転がすような凛とした声で短く返事をすると、すでにノートの余白にびっしりと何かを書き付けていた。その横顔には、知的な興奮すら漂っている。もしかしたら、彼女には清少納言の生霊が見えていて、直接対話でもしているのかもしれない。


 そんな非現実的な妄想をしながら、俺は強張った身体をほぐすように、大きく伸びをした。

 背骨がパキパキと音を立てる。

 ようやく、果てしなく長かった一日が終わる。

 この後の放課後、悪友の鈴木や佐藤と連れ立って駅前のゲームセンターへ向かい、百円玉を投入して最新の格闘ゲームのコンボを叩き込むことだけが、今の俺を突き動かす唯一の生命エネルギーだった。


「なあなあ、夏休みの予定どうするよ?」


 終礼を告げるチャイムが鳴り終わると同時に、教室は堰(せき)を切ったように騒がしくなった。

 湿った熱気が渦巻く中、鈴木がだらしない笑顔を浮かべて俺の肩に腕を回してくる。汗ばんだ皮膚の感触が生々しい。


「予定? そんなもん、決まってんだろ。寝て、食って、ゲームして、たまに部活に顔出して、また寝る。黄金のサイクルだよ」


 俺が教科書を鞄に乱雑に放り込みながら答えると、前の席の佐藤が、まるで世界の終わりを目撃したかのような悲痛な表情で机に突っ伏した。


「お前は能天気でいいよなあ、健太は。俺なんか、親に申し込まれた塾の夏期講習地獄だぜ……朝から晩まで缶詰だ」

「まあ、俺たちも受験生だからな」


 鈴木が、らしくもなく神妙な顔つきを作り、声を潜めた。

 そうだ。忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。

 俺たちは、中学三年生。

 一五歳。「人生の岐路」とか「将来の夢」とか、そういう小っ恥ずかしくて重苦しい言葉が、急に現実味を帯びて喉元に突きつけられる、実に厄介な季節のど真ん中に立たされているのだった。


「で、お前らどこ受けるつもりなんだよ?」


 佐藤が机に頬を押し付けたまま、上目遣いで尋ねる。

「俺はまあ、安全圏で緑山(みどりやま)工業かな。バイクいじりたいし、手に職つけたいし」

 鈴木があっけらかんと答える。身の丈に合った、現実的で堅実な選択だ。


「健太は?」

「俺? 俺は……」


 言葉に詰まる。

 考えたこともなかった。

 偏差値だの、内申点だの、確約だのといった単語は、俺の脳内辞書にはインク切れで印刷されていない。

 強いて言うなら、家から自転車で十分という理由だけで、南高校あたりだろうか。制服もそこまでダサくないし、何より朝ギリギリまで寝ていられる。


 俺がそう答えようとして、口を開きかけた、まさにその時だった。


「白石さんは、やっぱ『王葉(おうよう)』でしょ?」


 教室の前方、女子グループの華やいだ会話の断片が、ふいに俺の鼓膜を震わせた。


 王葉。

 その二文字が発せられた瞬間、教室の空気の密度が、ふっと変わった気がした。


 王葉高校。

 県内トップ、全国でも有数の進学校。

 そこに通う生徒は、俺たちとは違うDNA配列を持った、何か特別な人種なのだと誰もが漠然と信じている。紺色のブレザーに金の刺繍が入ったあの制服は、選ばれし者だけが纏(まと)うことを許される聖衣(クロス)だ。

 俺が真剣に審議していた冷凍みかんやコーヒー牛乳とは、次元の違うレイヤーにある世界の話。


 視線を向けると、会話の中心にいた莉奈が、少し困ったように眉を下げ、控えめに微笑んでいた。

「まだ、完全に決めたわけじゃないけど……行きたいな、とは思ってる」

 謙遜を含んだ言葉だったが、その声には揺るぎない芯の強さと、確かな自信が滲(にじ)んでいた。

「えー、莉奈なら絶対受かるよー!」

「むしろ莉奈が行かなくて誰が行くのって感じ!」

 取り巻きの女子たちが上げる、尊敬と羨望、そして少しの嫉妬が入り混じった甲高い声。


 それを見ていた俺の心臓が、ドクン、と奇妙で大きな音を立てた。


 なんだろう、この胸の奥底でざらつく感覚は。

 太陽の光を一身に浴びて輝く向日葵のような莉奈と、その影で湿気ている苔のような俺。

 住む世界が違うことなんて、細胞レベルで理解しているはずだった。


 だが、その「違い」が、「高校」という具体的な名称と場所を持って提示された瞬間、俺たちの間に、分厚くて透明なアクリル板が、音もなく、しかし確実に降りてくるのが見えた気がした。

 高校生になったら、俺は彼女とすれ違うことすらなくなる。

 この、通路を一つ挟んだだけの気安い距離が、光年単位の絶望的な彼方へと遠ざかっていく。

 その喪失感の予感が、俺の喉を乾かせた。


 鈴木が、俺の肩を揺する。

「おい、健太? 聞いてるか? お前はどこ受けるんだって」


 その声に、俺はハッと我に返った。

 意識の焦点が戻ると、鈴木と佐藤、そして近くにいた数人のクラスメイトの視線が俺に集まっていた。

 その視線の先で、白石莉奈もまた、会話を中断し、不思議そうな顔でこちらを見ていた。彼女の大きな瞳が、俺の瞳孔を捉える。


 瞬間、何かが、俺の脳内で弾けた。

 それは男としてのちっぽけな見栄だったのかもしれない。

 あるいは、確定した未来という現実から目を背けたいという、ただの悪あがきだったのかもしれない。

 自分でも、なぜそんな言葉が口をついて出たのか、論理的な説明は不可能だった。


「俺? 俺も……王葉行くし!」


 しん、と教室が静まり返った。


 まるで時が止まったかのように、喧騒が消失する。

 窓の外の蝉の声だけが、やけにクリアに、暴力的な音量で響き渡った。


 一秒、二秒、三秒。

 永遠にも思える沈黙の後、最初にその空気を破裂させたのは鈴木だった。


「ぶはっ! お、おい健太、お前熱中症か? 寝ぼけてんのか? 王葉だぞ? あの王様の葉っぱ高校だぞ?」

「お前の成績で行けるわけねーだろ! 逆立ちして日本一周するより無理だわ!」


 佐藤の的確すぎるツッコミが、鋭利なナイフとなって俺の胸に突き刺さる。

 周囲からも、クスクス、ゲラゲラと、遠慮のない笑い声がさざ波のように広がっていった。

「佐々木が王葉だってよ」

「マジか、うける」

「記念受験?」


 顔から火が出るほど熱い。全身の血液が顔面に集中し、沸騰しているようだ。

 穴があったら入りたい。

いや、今すぐ素手で床を掘り進め、マントルを突き抜けてブラジルまで逃亡したい。

 俺は耳まで真っ赤にして、視線を床に落とすことしかできなかった。

 やってしまった。後先考えずに、人生最大級の虚勢を張ってしまった。ただの道化だ。


 だが、そんな嘲笑の嵐の中、一つだけ、違う周波数の声が届いた。


「……そうなんだ。佐々木くんも、王葉を目指すんだね」


 顔を弾かれたように上げると、莉奈が立っていた。

 彼女は驚いたように少しだけ目を見開き、まっすぐに俺を射抜いていた。

 その濡れたような瞳に、周囲の連中が浮かべているような侮蔑や、憐れみ、呆れの色は見当たらなかった。

 ただ、純粋無垢な驚きと、そして微かな好奇心だけがそこにあった。


 その、あまりにも穢(けが)れのない眼差しが、俺に引導を渡した。

 ここで「冗談だよ」と笑って誤魔化せば、俺はただの「口だけ番長」として、彼女の記憶の片隅にゴミのように残るだろう。

 それだけは。

 それだけは、死んでも嫌だった。


「お、おう……! 当たり前だろ! 男に二言はねえ!」


 俺は、もはやヤケクソで胸を張った。

 心臓は、早鐘を打つどころか、警鐘のようにけたたましく全身を揺らしている。

 冷や汗が背中を伝い落ちるのが分かった。

 嘘だ。全部嘘だ。二言どころか、三言も四言も、辞書一冊分くらいの言い訳を並べ立てたい。

 だが、俺は引き返せないルビコン川を、水着一丁で渡ってしまったのだ。


 その日の帰り道は、針のむしろの上を歩くような地獄だった。

 鈴木と佐藤から「王葉の健太様」「ミスター偏差値七〇」「未来の官僚」などと、ありとあらゆる皮肉と風刺を込めたあだ名で呼ばれ続け、俺は死んだ魚のような濁った目で、オレンジ色に染まる夕暮れの道を歩いていた。


「じゃあな、王葉様。せいぜい頑張って勉強してくれよ」

「明日から赤本持ち歩けよなー!」


 いつもの分かれ道で、二人がニヤニヤしながら手を振って去っていく。

 彼らの背中が見えなくなり、一人になった途端、ずしり、と鉛のような現実の重力が両肩にのしかかってきた。


「はあ…………」


 肺の中の空気をすべて吐き出すような、深く、重いため息をつく。

 どうするんだ、俺。

 言ってしまった。莉奈本人にも、クラス中の前でも。

 これから卒業までの半年間、俺はピエロとして生きるのか。


 電柱の影が長く伸びるアスファルトを見つめながら、とぼとぼと歩き出した、その時だった。


「佐々木くん」


 背後から、聞き慣れた、しかし普段は絶対に俺に向けられることのない美声が鼓膜を叩いた。

 心臓が跳ね上がる。

 恐る恐る振り返ると、燃えるような夕日を背負って、白石莉奈が立っていた。

 逆光で表情はよく見えないが、茜色の光が彼女の輪郭を柔らかく縁取り、まるで女神の後光が差しているように見える。風が彼女のスカートと髪をふわりと揺らした。


「し、白石さん……。なんで……」

「さっき、教室で言ってたこと……本気?」


 彼女は、少し首を傾げ、まっすぐに俺の目を見る。

 夕日に照らされたその瞳は、宝石のように澄んでいて、嘘や偽りを見透かす力があるように思えた。

 その真剣な問いに、俺は激しく狼狽(うろた)えた。

 視線が泳ぐ。喉がカラカラに乾く。

「いや、あれは勢いで言っただけで、本当は南高志望です」と白状し、土下座するのが、生物としての正しい生存戦略だ。

 正しいのだが、目の前の彼女の、一点の曇りもない瞳を見ていると、その言葉が喉の奥に引っかかって、どうしても出てこない。男としてのちっぽけなプライドが、最後の抵抗を見せる。


「……本気、だとしたら?」


 かろうじて、震える声でそう聞き返すのが精一杯だった。


 すると、莉奈は少し考えるそぶりを見せた後、ふわりと表情を緩めた。

「そっか。……もし本気なら、すごいことだと思う。私、応援するよ」


 応援。

 その温かい言葉は、全くの予想外だった。

 馬鹿にされるか、冷たくあしらわれるか、そのどちらかだと思っていたのに。胸の奥がじわりと熱くなる。


「でも」と、彼女は一拍置いて続けた。


「王葉を目指すなら、まず教科書からだと思うけど……。佐々木くん、教科書、ちゃんと『読んだ』ことある?」


 その瞬間、俺の脳裏に、走馬灯のように様々な光景がフラッシュバックした。


 カップ麺の蓋として重宝され、熱と蒸気でふやけて波打つ数学の教科書。

 昼寝の枕として酷使され、よだれの跡が地図のように染み付いた歴史の教科書。

 退屈な授業中、壮大なパラパラ漫画の舞台と化した英語の教科書。

 落書きのしすぎで、フランシスコ・ザビエルがファンキーなアフロヘアとサングラスを装着している社会の教科書の写真。


 読んだこと、あるか……?


 ない。断じて、ない。

 正確に言えば、そこに書かれた日本語の文字列を、視覚情報として網膜に映したことはあるかもしれない。

 だが、その内容を噛み砕き、意味を理解し、自分の知識として吸収しようと「読んだ」ことは、生まれてこの方、一度たりともなかった。


 彼女の質問は、何の悪意も皮肉もない、純粋な確認だった。

 だが、だからこそ、その言葉はどんな罵詈雑言よりも鋭利な刃物となって、俺の核心をえぐり、内臓をかき回した。


 俺は、何も答えられなかった。

 ただ、「あ、う……」と、壊れたラジオのように意味のない音を発することしかできない。

 そんな俺の硬直を見て、莉奈は「ごめん、変なこと聞いちゃったね」と小さく苦笑した。

「じゃあ、また明日」

 そう言って、彼女は軽やかに踵を返し、夕闇の中へと消えていった。


 一人残された俺は、長く伸びる自分の情けない影を、ただ茫然と見つめていた。

 カナカナカナ……と、ひぐらしの鳴く声が、やけに悲しく、胸に沁みた。


 教科書。

 そうだ、まずはそこからだ。

 俺は、何かに取り憑かれたように拳を握りしめ、家路を急いだ。


 数日後。

 夏の全国模試の結果が、容赦なく現実という名のコンクリートブロックを頭上から落としてきた。


 放課後の教室。タナカ先生が、事務的な手つきで答案の束を返却していく。

 教室には、紙が擦れる乾いた音と、安堵のため息、そして絶望の呻き声、稀に聞こえる小さなガッツポーズだけが響いていた。


「佐々木」


 名前を呼ばれ、俺はビクリと肩を震わせた。

 恐る恐る席を立ち、答案を受け取る。

 三つ折りにされたその薄い紙は、まるで地獄からの召喚状のように重く感じられた。指先が微かに震える。

 自分の席に戻り、意を決してそれを開く。


 まず目に飛び込んできたのは、「志望校判定」の欄だった。


 第一志望、王葉高校。

 その横には、冷徹なゴシック体で、アルファベットが一文字だけ記されていた。


『E』


 E? ABCDEのEか。

 なんだ、思ったより悪くないじゃないか。Aが一番上で、Zが一番下だとしたら、Eなんてかなり上位だぞ。

 一瞬、本気でそう思いかけた自分の脳みその楽観主義ぶりには、我ながら呆れ果てる。


 だが、その下に書かれた小さな注釈の文字が、俺の淡い期待を粉々に粉砕した。


『合格可能性:極めて低い(20%未満)』


 極めて低い。

 なんと丁寧で、そして残酷な日本語だろうか。


 俺は視線を彷徨わせ、もう一つの、より根本的な数字を発見した。


『あなたの偏差値:38』


 さんじゅう、はち。


 その数字が何を意味するのか、すぐには脳が処理を拒否した。

 隣の席の鈴木が結果を見せびらかしてくる。「おー、俺52! 平均より上じゃん!」

 偏差値50が平均。

 つまり、俺は、日本全国の中学生の平均という地平線よりも、遥か下方の、深海のような場所に生息しているということになる。


 震える指で、答案の裏側にあった「志望校別合格者平均偏差値」の表を見る。

 王葉高校の欄を探す。あった。


『王葉高校 合格者平均偏差Gランク(偏差値70以上)』


 70。


 俺の偏差値は、38。


 その差、32。


 もはや、その数字の羅列がどれほどの絶望を意味するのか、想像の翼すら折れるほどだった。

 例えるなら、俺が竹槍を持って突撃し、相手はイージス艦と核ミサイルを装備しているようなものだ。

 ミジンコが、光の速さで飛び去っていく宇宙船を追いかけようとするようなものだ。

 それは、努力とか根性とか、汗と涙とか、そういう美しい精神論で埋められる溝では、到底なかった。


 頭が、真っ白になった。

 血の気が引き、指先の感覚がなくなる。

 教室のざわめきも、窓の外の蝉の声も、遠い世界の出来事のように聞こえた。

 ただ、「38」と「70」という二つの数字だけが、ネオンサインのようにチカチカと明滅し、頭の中でぐるぐると回り続けていた。


 あの日の放課後、俺が声高らかに宣言した言葉。

「俺も王葉行くし!」


 今思えば、それは人類が初めて火星に生身で行くと言い出すよりも、無謀で、滑稽で、救いようのない狂言だったのだ。恥ずかしさで、内臓が裏返りそうだった。


 その夜、俺は生まれて初めて、本気という名の覚悟を持って机に向かった。


 部屋は、昼間の熱気がまだ残っていて、じっとりとした空気が肌にまとわりつく。エアコンの設定温度を下げても、体の内側から湧き上がる焦燥感という名の熱は冷めない。

 窓を開けると、もわっとした生ぬるい夜風と共に、草いきれの匂いと、遠くで鳴く虫の声が入ってきた。


「やってやる……やってやるぞ……!」


 俺は自分自身を鼓舞するように、呪文のように呟き、新品のキャンパスノートと、ほとんど使われた形跡のない教科書を机に広げた。

 まずは、何から手をつければいいのかすら分からない。

 とりあえず、一番マシそうな歴史の教科書を開いてみた。

 太字で書かれた人名や出来事を、ノートにひたすら書き写していく。


 五分後。

 なんだか、シャープペンシルの芯の出が悪い気がしてきた。

カチカチ、という音が耳障りだ。

 俺はペンを分解し、内部構造の解析を始めた。

なるほど、スプリングがこうなって、芯を送り出すのか。


日本の文房具メーカーの技術力は素晴らしいな。

感心している場合か。


 一五分後。

 ふと、机の隅に積もった灰色のホコリが気になった。

 勉強する環境は、まず清潔で神聖でなければならない。禅の精神だ。俺はティッシュを取り出し、机の上から本棚の隙間まで、徹底的な清掃活動を開始した。うん、綺麗になった。これなら集中できるはずだ。


 二五分後。

 綺麗に整理整頓された本棚が、俺を誘惑し始めた。

 背表紙が整然と並んだ漫画たちが、「一巻だけなら……一巻だけパラパラと見るだけなら、脳のリフレッシュになって記憶力アップに繋がるかもしれないよ……」と、悪魔のような甘い囁き声をかけてくる。

 俺はその抗いがたい誘惑に屈し、震える手でそっと漫画に手を伸ばした。


 三〇分後。

 気づけば俺は、ベッドの上で大の字になり、スマホのブルーライトを顔面に浴びていた。

 友達のどうでもいいSNSの投稿――ラーメンの写真やゲームのスクショ――に、無意味な反射神経で「いいね」を連打している。




 ハッとして我に返った時、壁掛け時計の針は、勉強を始めてからきっかり三〇分が経過したことを無慈悲に示していた。


 慌てて机に戻る。

 ノートに書かれていたのは、たったの五行。

 それも、ただ教科書の文章を右から左へ書き写しただけの、何の意味も持たないミミズのような文字の羅列。


「…………………」


 声も出なかった。

 絶望というよりは、虚無だった。


 俺は、自分自身のどうしようもなさに愕然とした。


 三〇分。

 たったの三〇分すら、俺は椅子に座って、一つの目的に集中することができないのか。

 偏差値38。

 その数字は、単なる知識量の不足を意味しているのではなかった。

 目標に向かって、地道な努力を継続する能力。誘惑に打ち勝つ自制心。

 その、人間として最も基本的で重要な力が、俺には絶望的に欠如している。

 その残酷な事実を、鏡のように突きつけていた。


 俺はスマホをベッドに放り出し、再び机に向かう。椅子に座り直す。

 だが、もうダメだった。

 一度切れた集中力の糸は、どこか遠い宇宙の果てに飛んで行ってしまったようだった。

 教科書の文字は、意味を持った言葉ではなく、ただの黒いインクの染みにしか見えない。脳が情報の受け入れを拒絶している。


 窓の外を見上げると、生ぬるい闇がどこまでも広がっているだけだった。

 遠くに見える街の灯りの一つ一つに、人々の生活があり、営みがある。

 白石莉奈も、今頃、あの光の海の中のどこかで、静かに、そして凛と背筋を伸ばして机に向かっているのかもしれない。

 カリ、カリ、カリ……と、あの清らかな音を立てながら。


 俺と彼女を隔てている、分厚くて、透明な壁。

 その正体が、今、はっきりと分かった気がした。


 それは、生まれ持った才能とか、環境の違いなんかじゃない。

 「当たり前のことを、当たり前に積み重ねることができるか」。

 その、もっと根源的で、どうしようもない人間としての「格」の差だ。


 途方もない絶望感が、コールタールのようにじわじわと心を侵食してくる。

 涙すら出てこない。ただ、惨めだった。


「でも……」


 俺は、消え入りそうな、か細い声で呟いた。


「宣言しちまったんだよな……」


 瞼を閉じると、あの日の夕暮れ、莉奈のまっすぐな瞳が脳裏に焼き付いて離れない。

「応援するよ」と言った、あの優しい声がリフレインする。


 笑えるほどにダメで、情けなくて、集中力のかけらもない自分。

 そして、笑えないほどに遠く、高く、霞んで見える目的地。


 無謀な挑戦を宣言してしまった中学三年生の夏は、こうして、壮大な絶望と、ほんのわずかな意地と共に、静かに、しかし熱く幕を開けたのだった。


 俺は、再びシャーペンを握りしめた。

 まずは、あと五分。あと五分だけ、机に向かおう。

 そう心に決め、俺は教科書の一行目を、もう一度目で追った。

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