落ちた軍手
王都ダカラナニの裏通りは、いつも乾いた沈黙に包まれている。誰が通るわけでも、店が立ち並ぶこともない。かといって荒れているわけでもない。掃き清められた石畳が、静かに朝の光を跳ね返している。
その中に、あまりにも自然にそれは落ちていた。しなしなになった軍手の片方。指が五本、やる気なく開かれている。
ひどく平凡で、目に留める価値すら感じさせない存在。灰色とも白色ともつかぬ色合いで、全体が薄汚れていた。
だが、不思議と場に馴染みすぎているのだ。まるで、ずっとそこに居たかのように。
「右手⋯⋯じゃなくて、左手」
ルナは立ち止まった。誰もいない通りの真ん中で、不自然なほどまっすぐ軍手を見下ろす。落とし物か、それとも設置された“何か”か。
風が王都の朝を撫でていく。軍手の指がわずかに揺れる。まるで何かを訴えようと言わんばかりに。
ルナは膝を折った。そして軍手をじっと見つめながら、報告すべきかどうか考える。けれど、迷いは一瞬。スパイは情報を選ばない。どんなにくだらなく見えても、その背後に何が潜んでいるか分からない。
◆極秘情報No.013
『王都ダカラナニの裏通りで片方だけ落ちた軍手を発見』
左手用を単独で発見。素材は綿とポリエステルの混紡。
→劣悪な労働環境に対する地下労働者の無言の抗議か?
ルナはペンを止め、視線を再び軍手に戻す。考えれば考えるほど、この軍手が不気味なほどに平凡だという事実に引き戻される。危険も異常もない。
しかし、だからこそ報告に値する。世界は異常なものよりも、異常に見えない異常でできている。例えば、軍手が片方だけ落ちているという、それだけの光景に誰も違和感を覚えないように。
立ち上がろうとして、迷いが生じた。
(拾うべき? 放っておくべき?)
拾えば何かが変わるだろうか。誰かが戻ってくるだろうか。あるいは、自分の痕跡をこの場所に残してしまうかもしれない。
しばらく考えたのち、ルナは民家の軒先にあった洗濯バサミを一つ拝借し、軍手をぶら下げる。それは哀れみでも、慈悲でもない。スパイとして、整合性を求めただけだ。
彼女は一歩後ろに下がり、距離を置いて軍手を見つめた。しなびた布地が、ぱたぱたと揺れる。適度に陽が差し込み、少しの湿気を含んだ王都の空気が、軍手の繊維の間を通り抜けていく。
ふと頭の中に問いが浮かぶ。もし自分が軍手だったら。そんなばかばかしい仮定。
使われ、擦り切れて、いつのまにか片方だけになり、気づけば誰にも見つからず道に落ちる。そして魔族のスパイに拾われ、吊るされる。
滑稽だ。でも、少しだけ羨ましい。使い道を失ったあとでさえ、誰かの気まぐれに拾われるという運命。捨てられっぱなしじゃないだけで、それは少しの救いかもしれない。
「⋯⋯戻ってきたら、ちゃんと褒めてあげて」
誰に向けたのか分からない言葉を残して、ルナは静かに通りを離れた。風が背中を押す。歩幅を小さく、呼吸も浅く。軍手の存在感のなさに合わせるように。
翌朝。
「⋯⋯これは“軍”の“手”という意志の示威か」
低く、独り言が響いた。紙の上の文字に視線を這わせながら、魔王の思考は加速する。
「右手は攻撃。左手は防御。左手を破棄したということは、敵は防御を捨て、攻勢に転じる気だな」
⋯⋯違う。全くもって違う。
にも拘らず魔王は、誰も仕掛けていない策を見破り、誰にも立ち向かわれていないのに、防衛線を強化しようとしていた。
スパイごっこを続けたことで生まれてしまった勘違いが、新たな勘違いを生む負の連鎖。話にならない。
今日もまた、世界は少しずれた方向へと動いていく。
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