私、ホームレス拾いました
きぬごま
第1話 ホームレス拾いました
残暑の厳しい日々も終わりが近づき、朝晩はひんやりと心地いい風が吹く。
10月も半ば、いつも通る道からは何処からともなく、金木犀の香りが漂っていた。
「はぁ、やっと眠れる」
ぼんやりと歩いていると、不意に足がもつれて躓いてしまう。夜勤明けの帰り道はいつもフラフラだ。
私、黒沼奈美子。歳は32歳。一人暮らしの看護師だ。
看護学校を卒業後、今の総合病院で働くようになってもう10年。忙しさには慣れても、体は年々ついていかなくなる。
30歳を越えるとあっという間だなんて、中年の先輩に言われたけれど。正直働き出した時から時間が経つのが早すぎる。1日があっという間なのだから、それも当然なのか。
そんなしょうもない事をぐるぐると考えていると、私のアパートに帰ってきた。
「ん? 何あれ、人?」
アパートの傍のゴミ捨て場を通りかかると、まるでごみ袋をベッドのようにしてうつ伏せに人が倒れていた。
身なりは薄汚れたグレーのスウェット上下。見た感じ男性。嫌な予感にサーッと全身の血の気が引く。
「……生きてる、よね」
しばらく立ち竦んでしまったが、意を決して声をかける。
「す、すみません、大丈夫ですか?」
近づいて声をかけると、「うぅ」と僅かに呻き声が聞こえた。
良かった、生きてる。とりあえず事件にはならなさそうで、ホッと胸を撫で下ろした。
それでも、このまま放置って訳にもいかないし、119番? 嫌だな。ここからだと絶対勤務先に搬送されそうだし、付き添って行ったら気まずいしな。
どうしたものかと頭を悩ませていると、急に何かに足首をガシッと捕まれる。
「ひゃあ!」
「アイタっ」
驚いて足を振り払った反動で、男の頭を蹴ってしまったらしい。
どうやら、男が私の足を掴んできたみたいだ。
「あぁ、ごめんなさい!」
「うぅ、痛い」
情けない言い方にやけに申し訳なく思えてくる。すると直後に〈ぐぉぉぉぉ〉と大きな地響きのような音が聞こえた。
「な、何の音!?」
「お、お腹空いた……」
「えぇぇ〜……」
目の前の男は空腹で倒れ、身なりもボロボロ。
夜勤でヘトヘトなのに、正直勘弁してほしいけれど、これも看護師の勤めか?
ま、もし不審者でも、この状態の男になら勝てそうだし。
私はグッと両手を握りしめ、ある決意をした。
「あなた、立てます? 私の家、ここなんで、簡単な物で良ければ食べてってください」
「……へ?」
少しだけ間を置いてから、男はパッと顔を上げた。
髪の毛はボサボサで前髪は延び放題、それに無精髭も蓄えていて、自分で声をかけたものの急に不安になってきた。
「い、いいんですか!?」
「え、えぇ。こんなとこで死なれても迷惑なので」
「ありがとうございますっ! ゴ、ゴホッ……」
男はごみ袋の上でガサガサともがき、ふらつきながら立ち上がる。そして急に大声を出したせいか噎せて咳き込んでいた。
うん、ますます勝てそう。
男は一定の距離を保ちながら、とぼとぼと後ろを付いてくる。両手を胸の前でモジモジとさせ、申し訳なささが全身から醸し出されているようだ。
「どうぞ、入ってください。うーん……あ、ここにどうぞ」
部屋にはソファーがあったのだけど、ごみの上に倒れていた男には正直座ってほしくない。私はクッションを床に置いて、そこに座るように促した。
男はペコリと頭を下げてその上に座り、小動物のように小さくなっている。
冷蔵庫の冷えた水しか無かったので、その水をコップ一杯テーブルの上に置いた。
「どうぞ。冷たいのしかないですが」
コップを見つめ、男は手をふるふると震わせる。そして勢いよくコップを握り、ゴクゴクと喉を鳴らして一気に流し込んだ。
「……ぷはぁぁーー! 美味しい! こんなおいしい水初めてです!」
大袈裟に喜ぶ姿がおかしくて、思わず声を出して笑ってしまった。
「ふふ、オーバーですね。もう一杯飲みます?」
「は、はい!」
結局男は3杯の水を飲み干した。
ガサガサだった唇もふっくらとし、心なしか表情に潤ういが戻ったような気がする。
「ふぅ、すっかり生き返りました。本当になんてお礼を言えばいいか」
「別に、大したことじゃ。あ、食べ物ですけど冷蔵庫が空っぽでして、カップ麺でもいいですか?」
恥ずかしいことに自炊もしない生活で、冷蔵庫にはいつも最低限の物しかなかったのをすっかり忘れていた。
しかし男は嬉しそうにニマニマと笑い、溢れ出たよだれを啜っている。
「い、良いんですか!? カップ麺なんてご馳走してもらって!」
テーブルに身を乗り出すように聞いてくる男の勢いに引いてしまったが、がっかりされなくて取り敢えず良かった。
「今用意しますから、待ってくださいね」
「は、はい!」
お湯が沸くのを待つ間、男はそわそわと落ち着かないようすで部屋を見渡していた。
「あ、あのぉ、あんまり見ないでくれます? お世辞にも綺麗な部屋でもないので」
部屋は一人暮らしと言うこともあり、足の踏み場が無い程ではないが、少し物が散らかっていた。
不規則な勤務で溜まった疲労とストレスで、なかなか掃除をするモチベーションが上がらないのだ。
「あ、すみませんっ! 女性の部屋って初めてでっ、すみません」
「あー、そんな何度も謝らなくていいですって」
ペコペコと頭を下げる姿を見ていると、こっちが悪いみたいな気持ちになる。
この男、身長は高い方だけど、妙に小動物感があるな。
「あのぉ」
「はい?」
「お、俺、川崎陽介って言います。歳は23で、今は無職です。あ、趣味は料理と……」
「ちょ、ちょっと待って、何を急に」
急にペラペラと話し始める陽介の顔を、慌てて手で押し退けるように遮る。
陽介は不思議そうに首を傾げ「へ?」と間抜けな声を出す。
「いや、自己紹介がまだだったなって」
「聞いてませんから!」
大声を出すと、ポンとケトルの沸いた音がした。
「よ、用意してきます!」
恥ずかしさを誤魔化すように立ち上がり、カップ麺を用意する。
お盆に乗せて持っていくと、陽介は喜びの悲鳴を上げた。
「わぁーー! 久しぶりの食べ物だぁ……」
涙と鼻水を垂れ流して、腹の虫が待ちきれないように鳴きわめいている。
「はぁ、いったい何日食べてないんです?」
「えーっと……ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ……」
いったいどこまで指折り数えるのか怖くなったので、私は途中で遮った。
「あー、もういいです……さ、そろそろ食べれますよ」
「い、いただきますっ!!」
ベリっと勢いよく蓋をめくり、陽介はずるずると麺を啜る。
美味しそうに食べる姿を見ていると、自分もすっかりお腹が空いてきた。
私は自分用に作っていたもうひとつのカップ麺の蓋をめくり、陽介と同じように麺を啜った。
「ふふ、美味しいですね、豚骨ラーメン」
陽介は私の方を見て笑う。伸びた前髪から覗く瞳が優しげに細められ、その表情に心臓がドクッと脈打つような、落ち着かない感覚になった。
「ん……ふぁい」
麺を口に入れたまま返事をすると、陽介はまたクスクスと笑っていた。
「「ごちそうさまでした」」
私たちは同時に食べ終わり、意図せずシンクロするように手を合わせる。
「本当に、ありがとうございました! えっと……」
陽介は何か言いたげにチラチラとこちらを窺ってくる。
いったい何が気になるのか首を傾げていると、陽介が恥ずかしそうに口を開いた。
「お、お名前を……」
「あぁ、なるほど」
それでモジモジしていたのか。私は納得してポンと手を打ってから、咳払いをひとつする。
「私、黒沼奈美子って言います」
「奈美子さん……」
陽介はぼんやりと口を開けたまま固まっていた。顔の前でヒラヒラと手を振ると、ハッと我に返ったようだ。
「奈美子さん! 本当にありがとうございました! あの……実は、大変言いにくいのですが、俺、住むところも所持金も無くてですね? 出来れば、しばらくここに置いてほしいんですが……」
陽介はちらちらとこちらを見ながら、申し訳なさそうに訴える。
いやいや、いくら小動物の様だからって、そんな見ず知らずの男を部屋に住まわせるなんて無理だ。
突然の申し出に私はつい声が大きくなる。
「はぁ!? 嫌ですよ! さっき会ったばかりなのに!?」
「そこをなんとかお願いします!! もちろん家事全般お手伝いします。他にも出来ることなら何でもやりますから……。仕事が見つかるまで、なんとか置いてもらえませんか?」
土下座で頼み込む陽介に胸が痛む気がしたけれど、こればかりはすぐに頷けない。
夜勤明けだった事もあり、頭が回らずだんだん目眩までしてきた。
「ちょ、ちょっと、もう頭が追い付かない。と、とりあえず私、夜勤明けなんでシャワーしてきます……わかってると思いますが、覗かないでくださいね」
「え? シャワー!? な、奈美子さん、ちょっと待って」
戸惑う陽介をお構いなしに浴室の扉を勢いよく閉め、私は手早く服を脱ぐ。
熱めのシャワーを浴びながら頭を洗うと、少しだけ冷静になってきた。
「普通に無理だし、知らない男といきなり住むなんて」
「やっぱり、なんとか出ていってもらおう」
よし、と決意を固め、私は手早くシャワーを済ませた。
ガシガシと髪をタオルで拭きながら出てくると、テーブルの前で体育座りをしている陽介がいた。
陽介はどんよりとした空気を醸し出し、恨めしそうに私の方を見上げる。
「急にお風呂に入ってしまって、俺どうしたらいいかわからなくて……」
「あぁ、それは……すみません」
陽介はまた土下座の姿勢になると、深々と頭を下げた。
「あの、迷惑なのはわかってます、絶対に変なことしません! なるべく早く出ていきますから、お願いします!」
「で、でもですねぇ」
「お願いします! もう、頼れるところも人もいないんです」
だんだん震えるような声に、さっきの決意はグラグラと揺らいでしまう。
そしてついに、自分でも驚くような言葉が口を付いて出てしまった。
「はぁ……もぉ、わかりました」
その一言に、陽介は勢いよく顔を上げて滝のような涙を流す。
「あ、ありがどうございまず!!」
「言っておきますが、変なことしたら即通報ですからね?」
「ももも、もちろんです!」
冷たい視線で忠告すると、陽介は姿勢を正して大きな返事をした。
「はぁ……部屋は、奥の寝室で。私はほとんどリビングにいるので」
いつもソファーで寝起きしていたので、ベッドのある寝室はほとんど使っていない。
ちょうどいいかと提案したものの、陽介の汚れた身なりにふと思考が止まった。
「……汚れてますね」
「へ? ふふ、それほどでも」
何でモジモジと恥ずかしそうにしているのか。また目眩がしてきた。
「とりあえず、シャワー浴びます?」
「いいんですか?」
「ここに住むんですよね? 汚れた体でいられると迷惑なんで」
陽介はしばらくポカンとしていたが、ガバッと立ち上がると、急に近づいて私の手を握り混む。
「ちょっと、変なことしないでって」
「ありがとうございます! 俺、この恩は一生忘れませんから!」
私の言葉を遮り、陽介はブンブンと握った手を振る。
その動作で、ツンとした臭いが鼻を突いた。
「ちょ、くさっ!! もう、はやくシャワー浴びてきて!」
あまりの臭さに半ギレで喚くと、陽介はニコニコしながら「はぁーーい!」と呑気に返事をする。
小走りで浴室に消えていく陽介を見送り、私はフラフラとソファーに倒れこんだ。
「もう、なんなのよ……」
ボソッと呟くと、浴室からご機嫌な鼻歌が聴こえてくる。
何の歌かわからないけれど、その歌が劇的に音痴で思わず耳を塞ぐようにブランケットを頭から被った。
「お風呂ありがとうございました! 奈美子さん?」
夢か現実かわからないふわふわとした空間で、機嫌のいい陽介の声が聞こえる。
もうだめだ、頭は動いても、体は完全におやすみモードだ。
私は陽介の声を無視して、すっかり眠りこけていた。
「奈美子さん……助けてくれて、ありがとうございます」
包み込むような優しい声が聞こえると、暖かい何かが体に被せられたような感じがした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます