第7話 春日小町は、だれも入れない部屋をひらく。

《鍵のない扉、閉ざされたままの想い出がそこに》



「この部屋――なんか、空気が違うんですよね……」



椎名灯は、間取り図を見ながら小さくつぶやいた。

築二十年、リフォーム済みの一戸建て。

書類上はまったく問題のない物件。


それなのに、なぜか引き継ぎファイルには、



「二階奥の部屋だけ、内見客が誰も入ろうとしなかった」とメモが残っていた。



(たまたまじゃ……ないよね、きっと)


現地に到着した時点で、灯の勘ははっきりと“違和感”を感じていた。


玄関やリビングは、光が差し込んで明るい。

どこかあたたかい空気さえ漂っているのに――

あの部屋の前だけ、時間が止まったような、息が詰まるような感覚。



「なんかさあ、“気圧”違うっていうか、“息止めたくなる部屋”なんだよね」



そう言っていたのは高梨だった。


 

「おまえの担当になったって聞いて、ちょっと笑ったわ。ま、頑張れ」



軽く肩を叩かれた時のことを思い出しながら、灯は階段を上る。

突き当たりの部屋の前で、灯は立ち止まった。



「――開けますかね……」



ドアノブに手をかけようとしたその時――



「やめとくのよっ」



突然、背後から声。



「ひゃっぴっ……!?」



灯は変な声を上げて飛び跳ねた。


振り返れば、そこにはやっぱり――

金髪ボブ、桃色の着物、押し入れからひょこっと顔を出す少女。


春日小町。

この家のことばと空気を読む、ちょっと不思議な“座敷童”。



「わらわ、その部屋、ちょっと気になってるのよ……」


「小町が?……めずらしいよね」


「うん。だってここ、このおうち、“見てないフリ”してきたのよ」


 

小町の声は、どこか静かだった。

ふだんの明るさや無邪気さが影をひそめている。



「じゃあ、やめておくべきかな……?」



灯が問うと、小町は一瞬だけ沈黙し、そして――


 

「……でも、灯が行くなら、わらわ、ちゃんとついていくのよ」


 

その目は、不安げだけど、真剣だった。



灯は、そっとノブを回す。

鍵は、かかっていない。


それなのに、扉はとても重たく感じた。

開いた瞬間、ふわりと流れ出す、冷たい空気。


 

「……うわ、寒――」


 

部屋の中は、驚くほど“空っぽ”だったのに――静かではなかった。


家具はない。

窓は閉じられているのに、風のような“気配”が通り抜けていく。

埃が舞う光の中、ぽつんと置かれた机と椅子。


 

「……誰か、いたんだね」


 

灯は、机に近づき、ノートを手に取った。

表紙には名前もない。


開いたページに、ただ一行。



《ここにいる。でも――》



それで止まっていた。

その先のページは、白紙。


(ことばが……止まってる――)


誰かが、書こうとして、やめた。

書けなかったのか、言えなかったのか。

そのまま、ずっと誰も触れなかったのかもしれない。


小町が、灯の隣にそっと立った。



「“ことば”が途中で止まるって、とてもさびしいのよ。

だから、灯……続きを書いてくれる?」



灯は少しだけ目を見開いたあと、ゆっくりうなずいた。


ペンを取り出して、白紙の下に――

そっと書いた。



《あなたがここにいたこと、わたしが見届けました。》



部屋を出ると、不思議なくらい空気が軽くなっていた。

灯は肩の力が抜けるのを感じた。


 

小町がにこりと笑う。

 


「もう、だいじょうぶなのよっ♪ 扉、ひらいたのよ」


 

「……ありがとう、小町」


 

灯はふり返って、部屋の扉にそっと手を添えた。


(ここにも、誰かが“いた”。それを、わたしは知っている)


数日後の報告書。

そこには灯の手で、こう記されていた。



《二階奥の一室に、未記名のノートあり。空白のままだった最後のページに、記録として一文を追記。心理的瑕疵は確認されず。空気に変化あり。》


 

高梨は「ふーん」と言いながらも、軽く笑って「らしいな」とつぶやいた。


灯は、それが少し嬉しかった。


 


その夜。


カーテンの向こうから、やわらかな声が、そっと響いた――気がした。

 


「もう、怖がらなくていいのよっ♪」



灯は、静かに微笑み、言葉を返した。


 

「……うん、もう大丈夫。ちゃんと、伝えられたから」



(つづく)

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