【2】物語の選び方

 遠くの地に雷が落ちた。

 鋭い光が雲間を染め、遅れて響く轟音が湿った空気を震わせる。雨足は次第に勢いを増し、屋根を打つ音が単調に響き渡っていた。


 一方、館内は奇妙な落ち着きに護られている。

 間に挟まる分厚い壁が、耳障りな雑音を穏やかな背景音楽へと変えたのだ。雷鳴も雨音も、もはや私の思索を邪魔しない。自らの言葉と向き合うには、寧ろ完全な無音よりも都合がよかった。


 少年は本を選ぼうとしていた。

 書架の前に立ち、細い指先は背表紙をなぞる。しかし、どの本も即座に引き抜くには至らない。彼は整然と並ぶ書物を慎重に見定めているだけだった。

 迷っているわけではない。彼の目の動きには明確な指針があるはずだ。――問題は、彼が本当に読みたいものを探しているようには見えないことなのだが。


 少年の眼差しには、興味の赴くままに書架を眺める自由が欠けている。好奇心や偶然を楽しむのではなく、定められた選択肢の中から最適な一冊を見極めることだけを是としていた。


 本を選ぶ行為は、その者の内面を映し出す。

 選ばれた本は関心の所在を示す。そして、選び方は精神の在り方を雄弁に語る。

 自由な読書をする者は、書架の前で立ち止まり、無作為に背表紙を指でなぞる。あるいは、突如として興味を惹かれるタイトルに出会い、その場で迷わずに手を伸ばす。未知に触れることを喜び、ページを捲りながら自らの感覚に委ねる。彼らにとって、本との出会いとは発見であり、世界を広げるための冒険なのだ。


 しかし――目の前の少年は旅に出ない。

 彼の動きには、興味の芽生えも、衝動の閃きもない。そこにあるのは正しさに対する強迫観念だった。


 「……面白い子。」


 語るに値する者は、語られざる何かを抱えている。

 登場人物を克明に描く際、最も重要なのは何を語るかではなく、何を語れないかだ。


 君はなぜ本能に従わない。

 なぜ、読むべきものを不自由に探る。


 少年を登場人物とするならば、その思考の枠組みを解体し、奥底に沈む本当の選択を引きずり出さねばならない。――膿んだ傷に手を当てるようにしてでも。


 少年の指がついに一冊を選んだ。

 それは、人間が世界をどのように認識し、知性はどこにまで及びうるかを論じた古典的な哲学書。時代を超えて価値を持ち続ける知の体系。理性の在り方を思索の対象とするのは確かに彼らしい。


 「そっち?」


 私は挑発的に声をかける。

 彼の歩みは一貫して学術書に向かっていたけれど、時折、寂しそうな視線は文学コーナーにも注がれていた。


 「――君に似合いそうな本、見つけたのだけれど。」


 そこから、適当な一冊を見繕って彼に押し付ける。

 古風な金文字のタイトル。深い群青の装丁。脇には王国の紋章が刻まれ、背表紙には長年の使用で薄れた銀の飾り罫が走っている。


 「あ……」


 聖剣が岩より抜かれるとき、運命は動き出す。約束された王国、滅びゆく楽土、孤高の王が背負った宿命――。

 流麗な文章は、かつて誰かの胸を高鳴らせ、夜毎にページを捲らせたことだろう。


 少年は視線だけを落とし、金文字を追いかける。遠い記憶を辿るような、あるいは、懐かしさを押し殺すような――哀しい瞳をしていた。

 しかし、次の瞬間には目を伏せて、先ほど選んだ哲学書を大事そうに持ち直す。


 「……僕には、こっちの方がいいです。」


 簡潔で重たい返答だ。

 怜悧な響きを保っているつもりなのだろうが、強張る指先を見逃すほど私は節穴ではない。


 「そう。……じゃあ、君には別のお願いをしちゃおうかな。」


 彼は目先の興味と将来の利益を天秤にかけ、合理的なものを選ぶ癖がある。それならば、判断の基準を覆す理由があればいい。

 カウンターの引き出しから新しい本を取り出す。薄い手製の表紙。背には何の装飾もない。既存の名作のような重厚さもなければ、時代を超えて語り継がれる風格もない。


 「私も作家の端くれでね。聡明な読者からの感想が欲しいの。」


 私は少年を頼ってあげることにした。

 自分のために手を伸ばせないのなら、私のために手を伸ばせばいい。他者の求めに応じることは、彼にとって許された行為のはずだから。


 「まぁ……それくらいなら。」


 少年は未発表の原稿を手に取った。

 漸く見えた無防備な選択から――君がどのような思考を紡ぐのか。今の私は、その発露だけを待ち望んでいる。

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