私のアーサー

ゆいつ

【1】神と主人公

 創作者は往々にして底意地が悪い。

 彼らは無差別に筆を振るうことはしない。誰もが語るに値する人生を持つわけではないと知っているからだ。選ばれし者が壮麗な試練に身を投じる傍らで、神の手から零れ落ちた者は穏当な黙殺の憂き目に遭っている。

 しかも、最後の一文を書き終えた先に世界は存在しない。主人公が何かを成したところで、結末を超える未来は描かれない。人物の生存は続くのに、息遣いは永遠に聞こえない。


 私は見放された人間だ。

 若くして大成した人間に神は興味を持たない。一通りの栄誉と経済的な余裕は、私から熾烈な感情と欲求を奪った。何かを手にする必要はない。誰かに認められる必要はない。齢二十七にして得たのは長すぎる余生だった。


 忘れ去られた聖域の中心で筆を執る。

 気まぐれに神を僭称し、私ではない誰かの人生を紡ぐ。退屈を吹き飛ばす方法はそれくらいだ。

 それでも――出来上がるものは作為の塊。私の言葉通りに運命を辿る傀儡。技巧を纏うだけでは真の輝きは放てない。


 意地悪な私は、形の定まった骸ではなく、神の意図を超える息吹を欲しがっていた。


***


 私立図書館は金持ちの道楽だ。

 採算の取れない文化事業を維持するというのは、資産を持て余した者の自己満足に過ぎない。社会貢献とは名ばかりで、篤志家の軌跡を記すモニュメントと本質は変わらないだろう。


 勿論、私の立つ場所も例外ではない。

 駅からは遠く、蔵書に特徴があるわけでもなく、貸出システムも不便な旧式のまま。その上、近隣には規模の広い大学図書館があるのだから、月の来訪者は十人にも満たない。

 私は司書であり経営者だが、膨大な貯金を切り崩すばかりで、寂れた地を積極的に守るつもりはない。図書館とは銘打つものの、その実態は少し大きいくらいの書斎であればいいと本気で思っている。


 要するに、私は大雑把に生きているだけだ。

 居場所を地域に開くのは、言わば社会と繋がるための粗末なペルソナ。――我儘な私は隠者になりたいわけでもないのだ。


 今日は雨が降り続いていた。

 窓を伝う雫は外界をぼんやりと歪ませる。昼間だというのに、空は重たい灰色に覆われて、薄暗い光が室内の古びた木目に鈍く反射する。この調子では、来訪者はいつにも増して望めない。


 仕方がない。

 新しい本でも読んで時間を潰そう。


 手にしていたのは、他人の不幸を精巧な標本のように扱い、活字に閉じ込めた短編小説だ。

 洗練された言葉の檻に収められた感情は本物ではないのかもしれないけれど、痛ましい人生を酷烈に描いたものとしては随分と出来がいい。


 さて、結末は――。


 終章へと続くページを捲ろうとした途端、図書館の自動扉が開かれる。

 乾いた駆動音が静けさを破ると、雨音のざわめきが一瞬だけ強まった。予想外にも嬉しい邪魔が入ったみたいだ。


 視線を上げると、制服姿の少年が立っていた。

 濡れた紺色のレインコートを握りしめ、入り口で足を止めている。肩を竦めるように縮こまるものだから、小柄な体がより幼く見えた。湿った黒髪は額に張り付き、丸眼鏡の奥の瞳は落ち着かずに揺れている。

 恐らくは中学生だろう。制服に乱れはなく、ボタンの一つ一つに至るまで丁寧に整えられている。清潔な装いには育ちの良さが覗いていたが、佇まいには自信の欠片もなかった。


 「いらっしゃい。入っていいのよ。」


 彼は何を求めてやってきたのか。

 寂れた図書館に昼間から訪れる理由が単なる気まぐれであるはずがない。放課後にしては早すぎる時間、今日の彼は間違いなく学校を休んでいる。制服のまま――人の寄りつかない聖域を求めたのには、中学生なりの動機があるはずだ。


 「ごめんね、開館してるかわからなかったでしょう。」


 無垢な羊を逃してはならない。

 私はできるだけ穏やかな声を作りながら、読んでいた本を机に置いて立ち上がる。


 「はい。……でも、休館日には当てはまってなかったので。」


 思いのほか明瞭な発声だった。

 幼さを感じさせる声音ではあるが、曖昧な言葉を避け、過不足のない返答を行うあたり、ある程度の知性と慎重さを備えているのがわかる。弱々しい子だが侮るほどでもないか。


 「じゃあ、少しだけ賭けてみたってところかな?」


 少年は曖昧な笑みを浮かべる。その奥には警戒と逡巡が透けて見えた。

 彼は居心地の悪さを紛らわそうとしている。自分の本音を話したくはないが、沈黙が続くことに耐えられず、無意識に愛想笑いのようなものを浮かべてしまっているのだろう。


 「……そんなところです。」


 自分がここにいる理由を悟られたくないのか。あるいは、自分でも理由を明確に言語化できていないのか。――彼は中々に難儀で可愛らしい性質を持っている。

 久々に心を惹かれる客人だが、安易に踏み込めば踵を返してしまうだろう。それならば、私の魂胆が悟られぬうちに逃げ道を塞ぐのが賢明だ。


 「好きに見ていって。君ならきっと楽しめるわ。」


 彼の動作は薄氷の上を歩くかのようだった。心を休めることを知らない所作は、ある意味で危うく、ある意味では美しい。

 私は本のページを捲る代わりに、目の前の彼を読み解こうとする。彼が抱えているものを、彼自身の言葉よりも早く、私が見つけ出してあげるために。


 ――忘れ去られた図書館に、物語の主人公が迷い込んできた。


 不意に、そんな筋書きが頭をよぎる。

 退屈を打破する息吹はここに見つけた。私は傷だらけの宝石を拾い上げ、その脆い輝きに灼かれてみることにした。

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