第55話 理由はなく、ただ背に手を回して抱き寄せられた

 一週間後。


 俺の魔方陣も、だいぶ“さまになって”きた。

 空中に浮かぶ淡い光環が、以前よりもずっと長く形を保っている。

 最初のころはほんの僅かな歪みで崩れていたが、今では七割の安定率だ。雲泥の差ってやつだ。


「おお……今回はかなり安定してますね」


 隣でアルターが、くりくりした瞳を輝かせながら覗き込んでくる。


「まあ、まだ完璧ってわけじゃないがな。七割ってとこだ」


「はい!」


 額の汗をぬぐいながらそう答えると、アルターは満足そうにうなずいた。


「やっぱり古医術って、便利だな。こんなことまで応用できるなんて」


 思わずこぼれた言葉に、アルターが嬉しそうに微笑む。


「便利どころじゃないですよ。実は“現代魔術”の理論って、ほとんど古医術の応用なんです。身体の経路や循環を解析して、魔力の流れを数式化したのが始まりで……でも、体系が複雑すぎて、次第に“おまじない”扱いされるようになったんです」


 早口気味にまくしたてる声には、どこか誇らしげな響きがある。

 理屈っぽいけど嫌味がなくて、聞いているだけで妙に心地よい。


「なるほど……過小評価されてるってことか」


「はい。だから、古医術を本当に深く知っているセレンさんは、実はとんでもない人なんですよ」


 ちょっとだけ口調が変わった。その瞳に、真剣な色が宿る。


「……治療や魔力干渉以外にも応用できる技術です。だからこそ、長く封印されてきたとも言われてます」


「いや、治療以外に使うつもりはない。今回は、やむを得ずだっただけだ」


 そう言うと、アルターはふっと笑った。どこかミステリアスな微笑みだった。

 ――そのとき。


「欲がない。でも……そんなところが、また魅惑的です」


 低く艶のある声が、すぐ背後から囁くように響いた。


 次の瞬間、熱を帯びた掌が背中に触れ、細い指先がするりと腰へと滑りこむ。

 瞬きをしたときにはもう、俺は黒いスーツの女――ヴェレムの腕の中に抱き寄せられていた。


 柔らかな胸が俺の胸とぴたりと重なり、布越しに感じる確かなふくらみに心臓が跳ねた。首筋にかかる吐息がくすぐったくて、背中がびくっと反応する。

 ぞくりと粟立つ感覚が背筋を這い、息をするのもぎこちなくなる。


 硬質なスーツの生地越しに伝わる体温が、じわじわと背中に滲みていく。

 心臓がどくんと脈打ち、なぜか脇腹の奥がじんじんと疼くような気がした。


 長く細い指が、俺の腕を撫でるように滑り、肩口で軽く止まる。

 たったそれだけの動きに、身体が緊張しすぎて、指先にまで力が入っていた。


「ちょ、ヴェレム……!? な、なにして……っ」


 言葉が喉で詰まった。

 アルターが目を見開き、俺は慌ててその腕を振りほどこうとする。

 だが、まるで舞踏のように優雅な動きで、ヴェレムは俺を逃さない。


「動かないで。せっかくの再会なのだから」


 耳元に落ちる声が甘い蜜のようで、全身が妙に熱を持つ。


「この距離で触れてみて、ようやく納得できた。あなたの魔力は……確かに、逸品ですね」


「魔力の分析にこの抱き方は必要かよ!」


「必要、というより……こうしたかったのです。ずっとね」


 ヴェレムは肩をすくめると、俺たちの魔方陣――空中に描いた光環へ視線を落とした。 その唇に、満足げな笑みが浮かんでいた。


「やはり非凡ですね。一週間で“双環式・第三配置”をここまで習得するとは」


「……まだ七割だって」


「その七割が、すでに脅威なんですよ」


 ヴェレムは愉快そうに目を細める。


「――さて。少し話を。彼女は?」


 アルターに視線を向ける。


「はわわ……?」

「大丈夫。信頼できる」


 俺がそう言うと、ヴェレムは小さくうなずき、身を離し、スーツの内ポケットから封蝋付きの書簡を取り出す。

 月明かりにかざすと、赤い蝋印が淡く光った。


 封を割ると、中から現れたのは戦団の動きを記した報告書と、暗号化された書簡の写し。


「……魔王軍の現況です」


 地図上に散らばるいくつもの点が、戦団の位置と規模を示していた。


「第七戦団はアスリナ将軍が再編中。彼女は有能ですから、奪還作戦の牽制には十分。――そして問題は、例の“婚約者殿”です」


「……面白いことがわかったんだろ?」


 ヴェレムはひとつの地点を指で弾いた。


「表向きは中立派ですが、どうやら玉座を狙っている節があります。  侍従の買収で得た記録と、戦団通信を逆探知して得た内容、どちらも裏が取れました」


 そう言ってから、彼は笑った。


「式の当日――婚姻の儀を“政変の舞台”にするつもりかもしれません」


「……魔王は、それを黙って見てるのか?」


「静観です。もともと“読めない方”ですからね。リリス奪還が反逆とみなされることはないでしょう。 むしろ――式が壊されることすら、想定のうちかもしれません」


 俺は一拍、黙り込んだ。

 そして、ふっと息を吸い、肩の力を抜く。


「……そうと聞いたら」


 口角が自然に上がる。手のひらに微かに魔力が灯った。


「――盛大にぶち壊してやるか!」


 不安はある。もちろんある。

 でも、アルターがいて、みんながいて、こうしてヴェレムも―― なんだかんだで、こいつらがそろっていればどうにかなる。

 そんな気がした。


***


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