第2話 絶望からの第一歩

 あれから数日が経った。俺――シーク・フォン・アークライトの毎日は、地獄そのものだった。


 夜明けと共に起き出し、日が暮れるまで訓練場で木剣を振るう。騎士団長の指導は、初日と何ら変わらない。手本は一度きり。あとは俺が倒れようが、無様に転がろうが、ただ冷徹に「続けろ」と命じるだけだ。


 手のひらの皮はめくれ、すぐに固い豆になった。全身は常に鉛のような疲労感に包まれ、子供の身体は悲鳴を上げ続けている。

 それでも、俺は歯を食いしばって剣を振り続けた。

 絶望的なまでに開いていた、脳内の「理想」とこの身体の「現実」の溝が、ほんの少しずつ、ミリ単位で埋まっていく感覚だけが支えだった。最初は持ち上げるだけで精一杯だった木剣が、今ではなんとか形を保ったまま振れるようになった。まだ騎士団長の一振りには遠く及ばない、弱々しい軌跡。だが、これは確かな前進だった。


「……はぁっ、はぁっ、はあっ……!」


 訓練の終わりを告げられ、俺はその場に大の字に寝転がった。汗が目に入ってしみる。


(ダメだ……これだけじゃ、足りない)


 剣術の成長速度は、あまりにも遅い。原作の物語が始まる10歳まで、残された時間は少ない。このペースでは、破滅フラグをへし折るほどの力を手に入れる前に、運命の濁流に飲み込まれてしまう。

 焦りが、鉛のように重い身体にさらにのしかかる。何か、別の力が必要だ。


 その夜、俺は自室のベッドの上で、痛む身体に鞭打って意識を集中させていた。

 剣がダメなら、もう一つの才能に賭けるしかない。


(魔力……ゲームでは、シークは闇と雷の二重属性だった)


 初日の訓練では、剣術だけで手一杯で試す余裕すらなかった。俺は言われた通りに、意識を自分の内側へと沈めていく。

 すると、感じた。

 身体の中心に、熱いエネルギーの塊が渦巻いているのを。それはまるで、小さな太陽のようだった。だが、様子がおかしい。太陽の中心に、全てを吸い込むような冷たい「闇」が混在している。熱と冷気が、互いに反発し合いながら、危うい均衡を保っていた。


(なんだ、これ……)


 ゲームでは、ただ「二種類の魔法が使える」というだけのテキストだった。こんな、一触即発のイメージはなかった。

 俺は恐る恐る、その片方――ゲームでのシークの得意属性だった「雷」の力に意識を向けた。手のひらに、その力を導く。

 すると、俺の右の手のひらの上に、パチ、と小さな火花が散った。黒い、稲妻だ。


(いける!)


 希望が見えた瞬間だった。だが、次の瞬間。


「ぐ……あ、ああああああ!?」


 体内の「闇」が、引き出された「雷」の力に激しく反発した。身体の内側で、二つの力が激突する。まるで内臓を直接掴まれ、ねじり上げられるような激痛が走った。


「がっ……はっ……!」


 制御を失った黒い稲妻が、手のひらから迸る。バチバチッ!と耳障りな音を立てて絨毯を焦がし、壁に当たって黒い染みを作った。部屋中に焦げ臭い匂いが充満する。

 俺はベッドから転げ落ち、痛みに身をよじった。息ができない。体内の魔力が嵐のように荒れ狂い、俺自身を内側から破壊しようとしている。

 これが、シークの才能の正体。ただのチートじゃない。制御不能の、爆弾だ。


(死ぬ……!)


 原作のシークが努力をしなかったのは、ただの怠慢だけではない。この危険な才能を、無意識に恐れていたからかもしれない。皮肉にも、俺はその恐怖を、身をもって理解していた。


 その、刹那。

 バァン!と扉が乱暴に開け放たれた。そこに立っていたのは、部屋着姿の父、アークライト公爵だった。その碧眼が、室内で暴れる黒い魔力と、床で痙攣する俺を射抜く。


「――愚か者が」


 地を這うような低い声。父が俺を一瞥すると、荒れ狂っていた魔力が、まるで蛇に睨まれた蛙のようにピタリと静まった。圧倒的な威圧感。俺はただ、恐怖で身を固くする。

 父はゆっくりと部屋に入り、焦げた絨毯を一瞥し、そして俺を見下ろした。その瞳には、侮蔑や怒りよりも、もっと冷たいものが宿っていた。まるで、壊れた道具を見るような目だ。


「……何をしたか、理解しているのか」


「……ま、りょく、を……」


「貴様の持つ力が、いかなるものかも知らずに、か」


 父は静かに、だが恐ろしいほどの圧を込めて言った。


「光から派生した雷と、根源たる闇。互いに喰らい合う二つの属性を一つの身に宿すことが、どれほど異常か。それは天の祝福などではない。いつ暴発するとも知れぬ、呪いそのものだ」


 呪い。その言葉が、俺の胸に突き刺さった。

 冷や汗が背中を伝う。やはり、これはただ事ではなかったのだ。

 父の目が、俺がなぜこんな無謀なことをしたのか、説明を求めている。ここで怯えれば終わりだ。原作のシークのように、ただ泣き喚けば、二度とチャンスは来ないだろう。

 俺はゴクリと唾を飲み込み、震える声を必死で押さえつけた。


「……つよく、ならなければ……いけないから、です」


「……」


「このままじゃ……俺は……」


 ――破滅する。


 その言葉だけは、喉の奥に引っかかって出てこなかった。だが、俺の必死の形相が、何かを伝えたのかもしれない。

 父は長い沈黙の後、静かに口を開いた。


「その呪いを御する術を、お前が独学で得られるとでも思ったか。その浅慮こそが、貴様の最大の欠点だ」


 冷たい言葉。だが、それは完全な拒絶ではなかった。

 父は踵を返し、一度部屋を出て行った。すぐに戻ってきた彼のその手には、古びた一冊の本があった。装飾のない、黒い革の表紙。

 それを、俺の目の前に無造生に放り投げる。


「……一月だ」


「え……?」


「一月以内に、その魔術制御の基礎理論書の第一章を理解し、体内の魔力をただ『練る』ことだけを覚えろ。余計なことはするな。それすらできぬなら、貴様の魔力は私が生涯をかけて封印する」


 それは、あまりにも厳しく、そして一方的な宣告だった。だが、俺にとっては。


「……はい」


 初めて、父親という存在と、向き合えた気がした。同時に、俺は覚悟を決めた。この世界で生き抜くには、この危険すぎる才能を、運命を、全て乗りこなさなければならないのだと。


 父が去った後、俺は大きく息を吐いた。全身から力が抜け、その場にへたり込む。

 扉が少しだけ開き、メイドのリナが心配そうに顔を覗かせた。焦げた室内と俺の姿、そして父が置いていった本を見て、全てを察したのだろう。彼女は何も言わず、水差しを持ってきて、震える手で俺に差し出した。


 その水が、不思議と身体に染み渡った。


 机の上に置かれた、黒い本。それは俺にとって、破滅へのカウントダウンを告げる時限爆弾のスイッチであり、同時に、運命に抗うための唯一の教科書だった。

 目標は、明確になった。「この規格外の爆弾を、完全に制御する」。

 絶望から始まったこの二度目の人生。だが今、俺の目には、攻略すべき壮大なゲームを前にした時と同じ、確かな光が宿っていた。

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