第3話
波の音に、目が覚めた。
まだこうして横になると船の上にいた時の、揺れるような感覚を思い出す。
だがここはもう大地の上だ。
でも、
水の音が聞こえる。
この音は耳に残るが、陸遜は嫌いではなかった。
(波音を聞くと、
陸よりも水の上にいた時間の方が長い、などと陸遜からすれば信じられないようなことを言って、笑う彼を。
陸遜自身は注意するようにしているのだが、甘寧が水の上で生きた頃のことを話してくれると、自分と全く違う世界に生きていたのだと、そのことが新鮮でもっと知りたくて、どこまでも自由なその生き方を、少しだけ羨ましくなど思ってしまう自分がいるから、甘寧は戦いながらそこにいたのだ、多くの友人や仲間、大切な人を戦いで失いながら、そこにいたのだということは忘れないようにして、子供のように目を輝かせてしまうのをなるべく止めようと思っていた。
だが、甘寧はそんな陸遜の劣情を笑って大きな手で撫でて来てくれる。
『お前はそんなことを気にしないでいいんだよ』
甘寧は誰に対しても開けっぴろげで、非常に分かりやすい性格をしてはいる。
それでも陸遜は彼と付き合ううちに、甘寧も口を閉ざすことがあることを知った。
それが彼の過去のことだった。
特に――失ったこと。
甘寧の性格からいえば、負け戦など覚えていても鬱々とするのでカラッと全て忘れよう、という感じなので、失ったことにもあまりこだわらない人だった。
実際ほとんど甘寧はそうだった。
負けたことなんか一日で忘れるとよく言っている。
でもそのほとんどの中に数少ない、違うものが隠されていて。
甘寧はその失われたものを決して忘れられないのだと、そう思っているんだということを、陸遜は感じることがある。
忘れたくない、……そういう痛みなのかもしれない。
気持ちは少し分かった。
陸遜も、父と慕った
その時の記憶は苦しくて手放したくなることもあった。
それでも結局忘れられなかったし多分、自分は忘れたくないのだと思う。
陸康を奪われた悲しみは深くても、彼に与えられた優しさや深い愛情は、その深みを覆っても尚、有り余るほどの温かな記憶を陸遜に与えてくれた。
だから陸遜は失われた陸康のことを忘れたくはない。
ふと――陸遜は何かに気づいて、寝台の上で身を起こした。
窓が開いている。
風が欲しくて開けたままにしていたので、それに驚いたわけではない。
「……甘寧どの?」
何故か根拠もなく思い浮かんだその名を口に出してみれば、数秒後暗がりで見えてなかった部屋の隅の影が動き、笑った。
――現われたのは甘寧だった。
彼は本当にそこにいて、笑いながら寝台に歩み寄って来る。
「ああ……驚きました。本当に貴方なんですね」
「なんで分かった」
黒曜の刀を背に負って、甘寧は側で腕を組んだ。
「……いえ、なんとなく……でも……甘寧殿は、なぜ」
「前に一回戦場でおまえの幕舎に忍び込んだ時、本気で斬られそうになっただろ」
「?」
陸遜が首を少し傾げると、甘寧が子供のような顔で笑う。
「また焦ったお前に本気で斬りつけられたくてな」
陸遜は脱力した。
「……貴方という人は……本当に戦場でも、いつもと変わらない方ですね……」
「んで、返答は?」
【
だがこれは
これが開戦した戦場でなら、寝台の中にまで抱え込む。
「生憎、私は貴方ほど戦場慣れしていませんので、建業を出た所から二十四時間警戒はしていなければならないんでしょうが、それでは精神が持ちません。
味方の城にいる時くらい、申し訳ないですけど気は抜かせてもらっています」
甘寧が笑いながら、寝台の端に腰掛けて来る。
「なかなか肝が据わって来たじゃねえか陸伯言。お前もっと前は建業でも剣抱えてじゃなきゃ寝れなかったっつうのに」
「余計なこと言わないでいいんですよ」
陸遜が挑発して来る甘寧に少し機嫌を損ねて唇を尖らせたのを、まるで待っていたかのように甘寧が陸遜の二の腕を掴み、距離を詰めて唇を奪った。
「ん、」
建業では無かったのでまさかそういうものが来ると予期しておらず、陸遜は肩を竦めた。
最近は少しずつ減っていた、驚いたような反応が来て甘寧の機嫌はとりあえず良くなる。
確信犯が徹底的に舌を絡める口づけを楽しんだ後、ようやく放した唇の側で見たか、というように舌を出してみせたから、陸遜は赤面して身体を震わせた。
「甘寧殿、何を考えてるんですか……っ ここは対蜀の最前線ですよ。戦場なんです」
「でもまだ開戦してねーし~」
口笛なんか吹き始めたので陸遜は慌てて甘寧の口を手の平で押さえる。
「口笛とか吹かないで下さいっ 誰かが来たらどうするんですかっ」
「お前十分気ィ張ってんじゃねえか」
「当たり前ですよ……というか貴方以外みんなそうですよ!」
「そうか。やっぱり俺は特別だな」
満足気に腕を組んで頷いている甘寧に、陸遜はついに疲れた。
がく、と脱力し、寝台の上にぱたりと横に倒れる。
甘寧はすかさず、圧し掛かって来た。
「なんだ、誘ってんのか?」
「そうじゃないですけど、…………いえ、もういいです……」
「あきらめた」
無遠慮に甘寧が笑っている。
それから彼はいつもよりあっさり身を引いた。
陸遜の上からどいたと思ったらそのまま、ひょい、と横抱きに陸遜の身体を毛布ごと抱え上げる。
身を強張らせたのは、一瞬のこと。
「……なにしてるんですか
足首をひょこひょこと動かし、陸遜が静かに抗議する。
甘寧は無遠慮に陸遜の頭から毛布を被せると、「いーからちょっと付き合えよ」といつものように楽し気に声を響かせたのだった。
◇ ◇ ◇
「……確か前にもこんなことがあったような……」
そのままピュイピュイ調子のいい口笛を吹きつつ、そのうち馬に跨り、軽く駆け出す。
ちなみに陸遜が不満に思ったのは連れ出された瞬間だけで、
馬で軽く駆けたのは、十五分ほどだっただろうか。
温かい毛布に包まれて、甘寧の気配を側に感じて、安心して、少しだけ眠りかけてしまっていた。
甘寧が馬から降りた。
陸遜を横抱きに抱えたまま、コツコツと木の床を打つ音がした。
――それに、波の音。
しばらくして、「ついたぞ」と声がかけられどこかに下ろされる。
ゆっくり地に足を付き、頭を覆っていた毛布を後ろに下ろせば――そこに長江の、月に照らされる湖面が広がっていた。
船の上だ。
「ここは……」
陸遜はあたりを見回した。
遠くに、見慣れた城の灯が見える。あれは【
ということは……。視線を横にずらして見ると、そこにも城がある。
甘寧の部隊が駐留している【
「俺の船だ」
正しくは彼の軍船なのだが、甘寧は建業でも自分に与えられた船でしょっちゅう寝泊りをしていた。
ちなみに戦時以外に軍船への立ち入りは建業でも禁じられていたが、甘寧にそれを滾々と説き伏せても無駄なため、黙認されていた。
「また船で寝泊まりしているのですか」
陸遜は苦笑してしまった。
「向こうの部屋狭ぇんだ」
「私はこういうのは立場上、困るのですがね……」
甘寧が伸びをしながら、船室の方へと入って行く。
「総大将の呂蒙に密告するか?」
笑っている。
「……そんなこと出来ないって分かっているクセに……」
やれやれと呟いたが陸遜はもう一度、水面の方を見やった。
さざめく、銀の輝きは静かで美しい。
波の音。
水に包まれていることを感じる。
そういえば、自分はいつからこの音が好きになったのだったか……。
陸遜は甲板の縁に寄り掛かりしばらく、風に吹かれながら目を閉じた。
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