第2話
……どのくらい時間が経ったのか。
キィ、と扉を開く音で意識が戻った。
「……
扉を開けた人物はすぐにそこで立ち止まった。
彼は訳あってこの
趙雲は、建前上は孫呉の動向を警戒する為に送り込まれていたが、彼自身の意図は別のものだ。
……それに、ここに自分を向かわせる許可を与えた
中は暗闇だったので、
趙雲は持って来た燭台を掲げる。
部屋の中は酷い状態だった。
足の踏み場もないほどに荒れている。
趙雲はここに来てからは、以前より着任していた龐統の邪魔にならないように、あまり公には動かないようにしていた。
彼は自分の為すべきことが何なのかを、直前までしっかりと考えたかったのだ。
勿論どう為すかも。
趙雲があまり表に出てこなかった為兵達も気を遣い、敢えて部屋の扉を叩くような者はいなかったのだが、今日、初めて趙雲の部屋の扉が叩かれた。
そこに立っていたのは見た顔だった。
龐統の副官である。
「趙雲将軍、申し訳ありません。お休みの所を……」
「いや。まだ休んではいなかったから気にされることはない。……どうなされました?」
趙雲はそう尋ねた。
龐統は有能だが仕事内容に斑があるということなので彼には数人、有能な副官が成都から派遣されていた。
目の前の副官もその一人で、趙雲が着任した時に出迎え白帝城の状況などを説明してくれたのである。
冷静に日々の実務をこなす文官という印象があった彼が、その表情にひどく狼狽したような気配を持っているから、趙雲はそう聞いた時にはすでに声に緊張感を帯びさせていた。
「龐統将軍のご様子がおかしいのです……、物音がしたので部屋を伺ってみたのですが、お出にならず」
無論額面通りのことがただ起こって、この有能な副官が自分を呼びになど来るはずがない。
恐らく前兆は今までもあったのだろう。その直線上に今日があった。
「……分かりました。私がお会いしてみましょう」
そのまますぐに部屋を出る気配を見せた趙雲に、副官は安堵の表情を浮かべた。
足の踏み場もないそこへ一歩踏み込んで、趙雲は明かりをそっと左右に動かして行った。
やがて、部屋の隅に黒い塊を見つける。
「龐統殿」
趙雲はまだ、この龐統という男のことがよく分からなかった。
どういう男なのか、
部屋には酒の匂いもした。
趙雲は色々なものが散乱した床を慎重に避けながら、まず窓辺に歩いて行く。
雨が降っても無いのに厚く閉めてある窓を開け、雨戸を開けると月の光が射しこんだ。
心が沈んだ者は、暗がりを好む。
この城に滞在する
趙雲は日課として毎日彼女の元を訪れた。
話しに行くためではない。
彼女がそれを拒んでいるのが分かったから、趙雲は話しかけなかった。
人が心から苦しんでいる時には声を掛けてやるのが人の情けだとは思っている。
だが時に無理に口を割らせることが、何よりの苦痛を与えることにもなる。
捕虜の扱いとしてこの城にいる彼女に朝と夜、食事が運ばれる。
普通はそのために用意された人間がいるのだが、趙雲は
趙雲はその役を変わってもらったのだ。
食事をお持ちしました。その短い一言を一日に二度、彼女に掛ける。
声は返らない。
部屋は燭台一つで、彼女はいつも膝を抱えて寝台の上にいた。
最初は食事には手を付けていなかった。
三日そういうことが続いたので「食事はして下さい」と声を掛けた。
「……殿が心配なさいます」
孫黎がどういう気持ちでその言葉を受け止めたのかは分からない。
劉備を心配させるのは嫌だからなのか、
劉備に心配されるのが嫌だからなのか、
その女心は趙雲には分からなかったが彼女は翌日から、少しだけ食事を取るようになった。徐々に食べれる量は増えて行って今は、与えられたものはきちんと食べていた。
……だが明かりは、灯らない。
食べるようになった彼女の心の内に、どんな変化があるのか……それは分からなかった。
自分の境遇に希望を見い出せたわけではないだろう。事態は何も好転していないのだから。
彼女は劉備から遠ざけられ、この白帝城で時期を見て、自分は処刑されると思っていた。
あくまでも趙雲の、少し離れた所からの印象でしかないが、
食べるようになってから、項垂れ今にも崩れてしまいそうだった彼女の気配は、確かに変わって行った。
どちらかというと女が意地になった、そういう気配に似ていた。
雰囲気が硬化し頑なに外と接触を持とうとしない。
だがそうしないと、彼女は自分を保てないのだろう。
(死に行った者達に、気が咎めたのかもしれない)
生きたくても、生きれなかった者達に対して。
先の大戦で
だがその死は
孫黎は今、多分劉備ではなく、亡くなった長兄や周瑜に心を向けているのだ。
そして死の直前まで苛烈だった彼らの力を借りて、自分も強くなろうとしている。
(……葛藤か)
龐統もまた、暗がりに沈んでいた。
趙雲は燭台を側の棚に置き、龐統のもとに歩み寄った。
「龐統殿。さぁ、手を。しっかりなさってください」
一体彼が何に絶望し、何の葛藤の中にいるのか分からないが、少なくとも近づいて来る死の恐怖に耐える孫黎よりはマシだと趙雲は思った。
彼は蜀の武将となったのだ。
ここにいるのは彼の仲間で、敵ではない。
「何を考えられてこのようなことになっているかは分かりませんが、
今はとにかくこんな所に籠ってはいけません。
他の部屋に移り、きちんと食事を取り、陽の光を浴びて下さい」
趙雲は龐統の腕を掴み引き上げようとしたが、龐統は動こうとしなかった。
「龐統殿……、体調が優れぬのでしたら、私が
貴方は
ここは対孫呉の最前線です。
苦しいのなら無理をされることは無い」
元々
だがあまりに彼が成都で自堕落に過ごすので、役職を与えた方がいいと
諸葛亮は成都で使うつもりだったようだが、龐統が拒んだ。
どこでもいいから、ここ以外の場所に行きたいと望んだのだ。
諸葛亮が気を遣って幾つかの場所を用意したが、どこにも首を縦に振らないので「では白帝城へ。貴方は孫呉の敵になる為に蜀にやって来た。それほど退屈がしたくないのなら、尤もその脅威の及ぶ場所へ行ってみたらいかがです?」
師の気遣いを悉く無駄にする龐統に怒った姜維が提案したこれを、何故か龐統が受けてしまって、今に至る。
……理由は分からないが確かに、何故か龐統は諸葛亮と引き離すと駄目になるのだ。
なのに彼の側にいたくないような雰囲気を出す。
確かに捉えどころの無い男だった。
「成都に戻り、しばらくは養生されるといい。
殿は【
貴方を喜んで迎えられているのです。
とにかく、今日は、別の部屋へ。
用意させますから」
「…………余計なことをするな」
しゃがれた声が小さく返した。
「副官が貴方を心配し私に声を掛けたのです。
今言った通り、ここは何かあれば戦場になる土地です。
失礼ながらここでは貴方が軍の総大将です。指揮官がそのような姿をされていては兵達が不安がる。
孫呉では
趙雲に全く従う気配の無かった龐統の身体がぴく、と動いた。
龐統が俯かせていた顔をゆっくり上げた。
顔半分を覆う酷い火傷のあと、梳かしていない髪が乱れ、服も乱れ、不精髭が伸びた彼の表情は異様だったが月の光に微かに照らされた、黒い瞳だけが大きく見開かれて趙雲を見たのだ。
これは、
「……呉の……増援………………、」
龐統の身体が動いた。
自分で側の壁を支えによろめきながらようやく立ち上がった。
だが最近の不摂生が祟って、壁に寄り掛かったまま動けずにいる。
「……率いてる者は誰だ?」
ようやく我を取り戻したかのように、彼は言った。
何故か一瞬縋って来るような気配を目の前の男が纏ったことに、趙雲は気づいた。
「まだ……、陣容は詳しくは分かっておりません。
というのも、まだ孫呉も攻めて来る気配を明確に見せたわけではないのです。
蜀の出方を窺うつもりですが、後手に回る気はないという意志表示なのかもしれません。
ただ軍として派兵されたものは、
呂蒙。
龐統には聞き覚えがあった。
それは、その名は彼が呉にいた時に、最も近くで仕えた男が唱えるようによく口にしたものだったから。
「…………龐統殿?」
趙雲が訝しんだ。
そしてすぐ、彼は小さく息を呑んだ。
それまで何の感情も出ていなかった、死人のような顔色をしていた龐統の顔に初めて感情が現れたのだ。
彼は泣いていた。
見開いた眼から、涙が伝い落ちる。
嬉しいとか、悲しいとか、それは判断できる様なものではなかった。
ただ涙が零れ落ちているだけ。
彼の顔は茫然としたようにも見えたが、素の表情にも見えた。
『次に戦場で会ったその時は』
裏切られた傷の痛みを飲み込んで、琥珀の瞳に鮮烈な炎が宿る。
そして天を仰ぐように上を向く。
仔細は分からずとも陸遜が江陵まで来ている。それは確かだと彼は思った。
呂蒙が来ているのなら彼も来ているはずだと、信じた。
――自分の星を食らい尽くすために。
「……龐統殿……?」
趙雲は龐統の表情を見ていた。
彼は天を仰ぎ目を閉じながら涙を伝わせていたが、何故か少しだけ安堵しているように見えた。
この男がこんなに穏やかな表情をすることがあるのかと、趙雲は思った。
――――その日、久方ぶりにきちんと寝台に横になって眠ると、星の夢を見た。
美しい星が闇の湖面に向かって、次々と流れていく夢だった。
夢の中でも自分が夢を見てその夢を見ながら、泣いていることが分かった。
心が穏やかに落ち着いていく……。
星は天を、望みのままに流れた。
大きなうねりを感じる。
打ち捨てられた孤高の星が――燃え盛る
(……命を賭して、宿星を投げ出す)
拳を握り締める。
選ぶということが、何を指すのかは分からない。
ただ、道を選び取ること。
いや、与えられた道を生きることも、それは選び取っているのかもしれない。
運命を受け入れること。
逆に抗うこと。
会いたい者に会い、
会いたい者に、会わないこと。
選んだと思うこと。
……思わないことも。
そうか自分はずっと、諸葛亮がこの世に生まれたあの日から、星の定めに抗うという道を選び続けて来たのだ。
そして望む高みに辿り着けなかった今――、星を見上げて思うのは、一度くらい与えられた定めを、思う存分生きてみるかということだった。
諸葛亮が自分の星と決別し劉備と歩んでいくことを決めたのなら、それでいい。
流れ行く星を押し留めようなどとは、愚かなことなのだから。
(俺の、与えられた生を。轍を)
突きつけられた紅の光帯びる、美しい双剣。その双眸。
『次にお前を戦場で見つけたら、その首を必ず飛ばしてやる』
泣き出しそうに揺れる瞳の奥の光に憤怒の鎧を纏わせて、真紅の軍師は凛とした声で誓う。
それは龐統でさえ、刹那――この男がそう言うのならばそうなるのではないだろうかと、そんな予感を覚える極限状態での遣り取りだった。
龐統の星は、陸遜に射ち落とされる定めでは無かった。
だが姜維は言っていた。周瑜の死が陸遜に取りつき彼を変容させているかも、と。
陸遜の星に変異があるならば全ては、分からないものになる。
龐統の星を射ち落とせるのは【
諸葛亮を殺せるのは、自分だけであるように。
現に諸葛亮に見捨てられただけでこの身は激しく動揺し、生きる希望さえ見い出せなくなったのだから。
だが今や諸葛亮には龐統の生も死も、全く関係は無くなっている。
龐統は縋った。
東の天から流れる、異能の星に――今は全てを託す。
『その首を、必ず』
例え刃を突きつけられたとしても、龐統がこれほど自分以外の誰かと向き合い、鮮烈な想いを向けられたことは、初めてのことだった。
家族も、友人も【対の星】でさえ、自分から背を向けて去って行った。
真っ直ぐに見返して来たのは、あの琥珀の瞳だけだ。
(それなら、きっと選べる)
爪が食い込むほど深く、拳を握り締める。
雨のように星は、天から降り注ぐ。
夢の中で金色の尾を引く――幾千の流星を見つめながら、龐統は確かに喜びを感じた。
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