第二話 雨上がりの音符

「ココロノオト」。

前日の放課後、耳にしたその言葉が、雫の頭の中を駆け巡っていた。

自室の机に向かい、スマートフォンを手に取る。

検索窓に「ココロノオト」と入力し、サイトを開いた。

シンプルなデザインの中に、たくさんのボカロ曲が並ぶ。

どれも、匿名で投稿されている。

サイトの機能説明を読み進める。

自分の心を歌にする。

その歌を、匿名で投稿できる。

そして、投稿した曲のページには、QRコードが自動生成される。

そのQRコードを印刷して、誰かに渡せば、相手はそのQRコードを読み取り、歌のページから曲を聴くことができる。

送り主の秘めた想いを、直接相手に届ける、新しいコミュニケーションの形。

さらに、QRコードを介してコメントを送れば、送り主と受け取り手だけが、誰からのコメントか識別できる特別な機能がある。

まるで、私たちのためのツールだと、雫は直感した。

ユウキへの「ごめんね」と「ありがとう」。

ずっと言えなかった気持ちを、歌になら伝えられるかもしれない。

匿名でなら、きっと大丈夫だ。


雫は、「新規投稿」のボタンをタップした。

投稿者名を入力する画面が表示される。

律は迷わず、「水音」と入力した。

それは、雨の日にユウキと二人で遊んだ、秘密の場所で聞いた、水たまりの音を思い出す名前だ。

あの頃の記憶が、指先から蘇るようだ。


そして、曲作りが始まった。

放課後、部活動が終わった後、教室に一人残る。

窓の外は、もう茜色の夕暮れ。

教室の片隅に座り、ヘッドホンを装着する。

インストゥルメンタルのトラックが、静かに流れ出す。

雫は目を閉じ、ユウキとの日々を思い描いた。

二人の間にあった、小さなすれ違い。

ユウキの、傷ついた瞳。

あの日の雨音。

全てが、メロディの源になっていく。


雫は、鍵盤を打つように、音符を打ち込んでいった。

指先が震える。

後悔の雫が、頬を伝うたび、歌詞が生まれる。

言えなかった「ごめんね」が、心の中で響く。

その全てを、音符と、言葉に託した。

「あの日の雨音、洗い流した記憶」

「君の言葉、胸に残る棘」

何度も何度も、歌詞を書き直す。

この歌に、私の全ての想いを込めよう。

魂を削るように、言葉を紡いでいく。

完成した曲名は、「雨上がり、虹の約束」。

それは、ユウキとの関係に、もう一度、光が差すことを願う、雫の切なる願いだった。

ボーカロイドの透明な声が、雫の心を代弁するように響く。

まるで、雫自身の声が、ユウキに語りかけているようだ。


完成した曲を、雫は「ココロノオト」に投稿した。

投稿ボタンを押す指に、熱がこもる。

これで、ユウキに聴いてもらえるかもしれない。

この歌が、君に届きますように。

強く願う。

期待と不安が、胸の中で波のように押し寄せた。

嵐の前の静けさのように、雫の心はざわついていた。


律は、完成した曲のQRコードを、プリンターで印刷した。

一枚の、小さな紙切れ。

それは、雫にとっての、ユウキへの「本気のラブレター」だった。

これを、どうやって渡そうか。

直接手渡す勇気は、まだなかった。

ユウキと目を合わせることさえ、今の雫には難しい。

でも、きっと、ユウキなら、この歌に込められた律の想いに気づいてくれるはず。

そう、信じたかった。

小さな紙切れが、律の手の中で、じんわりと温かい。


翌日。

雫は、ユウキの机の引き出しに、そっとQRコードを忍ばせた。

誰も見ていないことを確認し、素早く。

心臓が、耳元で激しく脈打つ。

一瞬、ユウキの机の上に置いてあった、

幼い頃のユウキと雫が写った写真立てが目に入った。

あの日々は、もう戻らないのだろうか。

不安が、胸をよぎる。

でも、もう一歩踏み出すしかない。

これが、私にできる、精一杯のことだから。


放課後。

昇降口で、ユウキを見かけた。

彼は友達と楽しそうに話している。

雫は、彼の背中を見つめる。

彼のリュックの中に、QRコードがある。

それを読み取ってくれるだろうか。

読み取ったとして、それが私だと気づくのだろうか。

様々な思いが、雫の頭の中を駆け巡る。

雫の心は、不安と期待の間で、大きく揺れ動いていた。

この小さな一歩が、ユウキとの関係に、

そして雫自身の心に、どんな変化をもたらすのだろうか。

陽太のリュックが、遠ざかる。

その中に、律の秘めた想いが、確かに息づいている。

きっと、この想いは届くはずだ。


雫は、夕焼けに染まる空を見上げ、静かにそう願った。

明日からの日々が、少しだけ、色鮮やかに変わるような気がした。

あの日の雨上がり、虹を見つけようと約束したユウキの言葉が、

心の中で、今、鮮やかに響いている。

その約束を、もう一度、果たしたい。

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